ある船乗り
父は船乗りであった。永い航海から異国の潮の香りを漂わせて帰って来る。暫くするとまた出て行く。その繰り返しであった。幼かった私は、それを当たり前に思っていたので友達の父親がいつも家に居るのが不思議であった。
日中戦争が泥沼化してくると、多くの商船が軍に徴用されるようになり、父もそれに乗り組むようになった。その頃の中国は、海軍も空軍も貧弱なもので、もちろん潜水艦など持っていなかった。それでも長江を遡っているときに、沿岸での銃声を何度も聞き、やはりここは戦地だ。と思ったそうである。
太平洋戦争になると、商船の被害も次第に大きくなっていった。しかし、私たち国民の多くはそれを知らなかった。
それでも母はどこで耳にするのか、よくこんなことを言っていた。
「大きな声では言えないけど、味方もずいぶんやられているらしいよ。お父さんのことが心配でならないよ」
私はそれに対して、
「そんなデマ、信じるものではないよ」
と反発したものである。そんな強がりで心の片隅にある、「もしかすると」という不安感を押さえ付けていたのである。
あれは昭和十七年の秋の半ば頃であった。ある晩宿題をしていると、「電報」の声、ギクッとしたのを覚えている。ひったくるようにして受け取ったが、手が震えてなかなか開くことができない。
奥から母が出て来た。顔色が変わっているのがわかる。黙って渡すと何度も読み返していたが、やがてうわごとのように「よかった、よかった」とつぶやくと、その場にへたりこんでしまった。
電報は父の会社からで、船が遭難した。但し乗組員全員は無事、という内容であった。後で知ったのだが、場所は当時フランスの植民地だったベトナム南部の沖であった。
父たちは、サイゴン (現在のホーチミン) で帰国の便船を待つことにしたのだが、戦局が急速に悪化していったため、いつになるかわからない。結局、一年近くをそこで過ごすこととなった。
この間、ずいぶん手紙を出した。はがきに限られていたため、私たちはできるだけ細かい字でビッシリと書いたものである。
父からはたまにしか来なかった。それも何枚かまとまってである。どれも簡単でありふれたことしか書いてないので、なにか物足りなかった。表に赤いスタンプで、「検閲済」と捺してあった。
翌年のお盆が過ぎた頃、父はようやく帰って来た。早速仏壇の前に座り、永いこと手を合わせていた。その後で、母が肩を震わせている。
それからは陸上勤務となり、一家水入らずで暮らすことができた。我が家にとっては初めてのことである。物の乏しい時代であったが、毎日が満ち足りた思いであった。
それも束の間、年明け早々に乗船命令があり、父はまた出て行くことになった。その頃になると、海はますます危険となり、以前にも増して尊い命が失われていった。
後年、母は言った。
「あのときほど、船乗りの妻であることを呪ったことはなかった。夜、布団に入ると涙が止まらなくてね。泣き声をあんたたち子どもに聞かすまいと、苦労したよ」
戦後、父はシベリアからの引き揚げ船を最後に船を降りた。戦争中の話をするのを嫌がるようになったのは、この頃からである。何度持ちかけても、
「なにも話すことはない。俺は悪運強く生き延びたが、亡くなった多くの人たちのことを想うと、本当に申し訳ない」
の決まり文句を繰り返すばかり。とうとう一言も明かさないまま、あの世へ行ってしまった。
父の葬儀が済んで暫くした頃、古くからの船乗り仲間であったYさんが弔問に訪れた。あれこれと思い出を語ってくれたが、とくにこの話は今でも心に強く焼き付いている。
終戦の年の二月末、対馬海峡でのこと。敵の潜水艦に撃沈された僚船の乗組員たちが、救いを求めて流されて行く。これを目の前にしながら、こちらはどうすることもできない。ただ全員が手を合わせ、ひたすら許しを乞うしかなかった。
Yさんは何度も絶句し、涙を拭った。
全日本海員組合のホームページによると、先の大戦で犠牲となった船員は、六万人を超える。率にすると、四十三パーセントに達するとのことである。
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