随筆・評論 市民文芸作品入選集
入 選

気になる言葉あれこれ
稲里町 赤田 恒夫

 言葉の使い方を間違って恥をかいたり、人を傷つけないよう人は平素から誰しも望むところであるが、現代のIT時代に加えて戦後の「漢字制限」「かなづかい改正」で、正しい言葉を解読表現できない人が増えているようである。特に漢字や熟語の衰退で、古来からの言語文化から多くの語彙〔ごい〕を抹殺し、本来の意味を不明確にした。そして今の若者にみられるように、正確な言葉が表現できず、擬態語や擬音語的な会話しかできない言葉の乱れが気になる。
 人が日常ごく普通に話したり、書いたりする言葉は、何も格別に気を使う必要もないが難解な文字や言葉には、時には、その言葉の歴史的由来や意味などを広辞苑で深く詮索してみることも大切で、わからない言葉をそのまま放って置かず、わかる迄粘る根性も人生を情緒的にする一助ではないかと思う。
 「一生懸命」という言葉がある。歴史をさかのぼってうるさくいえば、これはもと「一所懸命」といったということは、広く知られている。
 ところが、鎌倉時代から七百年も経つうちに、懸命は何かを必至に為すことだから、生命〔いのち〕を懸けると書く方が理に叶うというようになって、次第に一所が一生に変わって一生懸命は書き違いでないと考えられるようになった。つまり古い書き方を知っているだけで現代の習慣を知らなければ、物識り必ずしも賢明ならずである。
 最近「鳥肌が立つ」という言葉が不用意に使われているのも気掛かりである。この言葉はかつて恐れや憤りからの不快感によるものに限って使われていたのだが、今は、凡そ感動した場合にも広く使われているようである。これも時を経て変わる一例で、どちらが正しいかをあげつらっても詮ないことだろう。
 「遺憾に思う」というのもよく使われる言葉である。特に政治家、官僚、そして経営トップの方々が多用される。そもそも「遺憾」とは、思い通りにならず、心残り、残念、惜しいことをしたという意味で、諦めない心情を表し、お詫びの意味は全く含まれていない。「遺憾の極みであります」と言っても頭を下げたことにはならないのである。
 「後生畏る可し」という言葉も要注意である。「後世畏る可し」と書くと、決定的な間違いで、「論語」の二百二十七章、古来有名な箇所で孔子は後生と言ったのであって後世と言ったのではなかった。ところが、後生と後世では誤りやすいし、また後世畏る可しといっても意味が通じる。
 このように錯覚しやすい言葉は他にもたくさんあるが、平素から注意をして、探索を忘れない心掛けが大切であろう。
 また、我々が平常気楽に使っている言葉にもいろいろ落ち込みやすい言葉がある。例えば、「小」の字のつく言葉で単に大きい小さいというのではない使い方が色々ある。小枝とか小石というのはわかるが、小体〔こてい〕な住まいというと、若い人やマンション住まいの人はたいがい首をかしげる。小体〔こてい〕作りとは、建物は小さくても粋で慎ましい、いわゆる数寄屋住まいのことである。また、小がついてイメージアップするのと、逆にダウンするのがあるのも面白い。アップする例としては「小気味がよい」「小ざっぱり」「小綺麗」といった使い方、逆にダウンするものとしては「小銭」「小器用」「小細工」「小手先」などなど…。
 ところで、私も長い間「小手をかざす」「小耳にはさんだ」「小首をかしげた」とか「小股の切れ上がったいい女」という言葉の意味がよくわからなかった。ある時、私より五倍も十倍も読書の好きな友から、この場合の「小」というのは、手や耳、首、股にかかるのではなく、かざす、はさむ、かしげる、切れ上がる方に解読せよと聞かされて、やっと疑問がとけた。「小脇にかかえる」「小鼻が開いた」なども、ちょっと脇にかかえる、ちょっと開く、ことだと教えられると、なる程と合点がいく。
 「小の字」と同じく「御」の字もやっかいだ。「何々なら御の字だよ」というのもよくわからないが、「御」の字は普通に身近な敬語、丁寧語として「おん」「お」「み」「ご」と発言を変え乍らよく使われている。
 しかし、おみこし (御御輿) とかおみくじ (御御籤) というようにダブルに使ったり、さらに、おみおつけ (御御御付け) と味噌汁をトリプルで丁寧に言う言葉もあり、しかも (「付け」はご飯に付ける意) ともややこしい。
 でも、何〔いず〕れも間違いではなく夫々の語源や味わいが秘められていて微笑ましい思いがするが一方では「言葉に定義なんてない」と言う人もいて少し寂しい気もする。私としては、気になる錯覚しやすい言葉には、平素から注意し、柔軟的に正しく次々代へ継承されてゆくことを念願し、特に年配者の尤もらしい課題ではないかと思う。


( 評 )
 日常何気なく使っている言葉について、よく勉強されていることが分かり、軽妙な評論になっている。知らないことを教えてもらうような思いにさせられ、筆者の主張には大いに同調したいものである。

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