随筆・評論 市民文芸作品入選集
入 選

インドネシアからのホームステイ
佐和山町 松本 澄子

 初秋、赤道直下のインドネシアからホームステイを迎えたのは、十年前であった。
 想像していたように南国特有の少し褐色に近い膚と目の大きいさわやかな笑顔の女性というのが第一印象であった。
 インドネシア語・英語・日本語の三ヶ国語の話せる頭脳明晰な大学生に娘は、私の家庭教師だわと大喜びであった。
 我が家のホームステイを迎えたのは、市の勤労青少年ホームの交換生に協力するためであり娘との会話は、全て英語、主人と私は、日本語のごく普通の家族が一人増えた十日間であった。
 異郷の地でゆったりとした時間を過ごしてほしいと二階八畳の和室・三室を提供した。
 当時、インドネシアは、水田耕作・牛耕も盛んに行われており、主食はコメであり気を使うこともなく日本食を作った。唯一、彼女がイスラム教であるために豚肉を使った料理だけは、一切しなかった。でも、どの料理も「おいしい」ときれいに食べ、寿しもワサビぬきであれば、おいしいの連発で寿し屋も数回訪ねた。
 あくる日からは、市の歓迎会や企業見学など予定されていたが、休日には、近くの神社仏閣そして、茶道・華道教室など日本の全てを見・知ってもらいたいと早稲の刈り取りもあとまわしにして案内した。
 田んぼに囲まれた我が家、真近でコンバイン数台が稲刈り、脱穀、わら切りの三つの作業を一瞬にして終える文明の利器に、日本は機械化が進んでいるのねと感心して見ていた。
 秋日和には、手作りの弁当持参でA市の山あいにあるぶどう狩りも娯しんだ。
 インドネシアは、果物の宝庫。でも日光を遮断したぶどう棚の下でぶどう狩りは初めてという彼女は「日本のぶどうはおいしい」と巨峰三房をぺロリと食べ大笑いした思い出もなつかしい。
 ぶどう狩りを娯しむ日本の家族の方々や同世代の女性とも親しく会話を交わし、なごやかな日本の秋を満喫したようで案内した私達もほっとした。
 その時、インドネシアのドリアンは、トゲがあり臭いは強烈だがトロリと甘い果実だから私達家族に是非食べさせたいと話す。
 帰国の前夜は、四人で十二時近くまで話しがはずんでいたが、別離が近づいているのがとてつもつらかった。
 十日間の一日一日は、とても早く過ぎた。
 帰国の際、日本の文化も素晴らしいがインドネシアにも自慢できる文化があると…。
 緑豊かなジャワの丘の上に建つボロブドウールは、高さ四二メートルの壁がんには、五〇四体の釈迦像がはめこまれ、長い歴史の重みを感じさせる見事な寺院だから是非見てほしいと熱く語った。そして、国土の七〇パーセントが森林地帯というインドネシア、その原生林の中に咲く直径二メートルはあろう、世界最大の赤い花「ラフレシア」も見せたいと両手を広げ、ジェスチャーを交えて語った。
 四月から十月は、南西の季節風の影響で乾季になるし、フルーツも一番おいしいトロピカルフルーツが味わえるからこの時にいらっしゃいと……。
 その後、三回来日した彼女は、その度に「一緒にインドネシアに行きましょう」とすすめてくれ「早くいらっしゃい」との催促の国際電話も数回もらったが何分、遠い外国、決心がつかず現在に至っている。
 一万三千からなる島々、インドネシアを治めるのは容易ではないだろう。

 二〇〇二年、 バリ島爆弾テロ
 二〇〇三年、 ジャカルタの高級ホテル爆弾テロ事件
 二〇〇五年、 十月のインドネシア・バリ島同時爆破テロで沢山の住民が事件に巻き込まれ命を失った。

 三〇年という長期スハルト政権が民衆により倒されメガワテイが政権に就いたが、国民の期待していた改革という望みは裏切られた。
 一六二三年から一九四五年の長期オランダ植民地支配下にあったインドネシアである。
 国民がようやく手にした自由と平和という願いも遠のいてしまうのだろうか…。
 将来は、語学を活かす仕事に就きインドネシアと日本のかけ橋になりたいと意欲的に話していた彼女、ぶどう狩りの折、沢山の家族連れの姿を見て「日本は、平和でうらやましい」との熱い言葉が鮮明に思い出される。
 彼女は、憂いているであろう。おみやげに貰った民族衣装のバテイクを見る度に、インドネシアに一日も早い民主化の訪れることを祈らずにはいられない。


( 評 )
 ホームステイをさせた女性を通し、彼女の祖国インドネシアの政情不安に思いを馳せる。筆者の気持ちが素直に伝わる文章である。彼女の人物描写や家族との会話の様子などが入れば、更に生き生きとした作品になったと思う。

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