あなた
この二日、雪が小止みなく降る。
家並に沿う旧道へ出て畷へ目を向けるが、いつも遠目に映る伊吹山の頂は雲で見えず、風が田の雪を浚い、道路へ吹きあげてくる。
北に連なる七尾山から、いっそう強い雪颪が吹くと、粉雪の層が、縦波となって稜線へ立ち、裾野を覆う。
「これから、わたくしが、お宅まで行きます。道へ車を止められますか」
入院中の夫の担当看護師さんからの電話に私は、道端の雪をスコップで一輪車にのせ、川へ捨てはじめたところだ。
夫の入院が七百五十日を数えたのは、先月の十一月半ばだった。寝巻の着替えを提げ、エレベーターの中で7のボタンを押し、こうして通い続けて、と考えていたらドアが開いた。その日七階のロビーにクリスマスツリーがあった。そうだ、夫と家へ帰ろう、クリスマスは、一緒に家で過ごしたい、と思った。
「お父さん、家へ一度戻ってきてほしい。私が、痰の吸引と胃漏への注入をするから。人工呼吸器も血中酸素測定器も借りて、自動車で運ぶから」
ベッドの背を四十五度の角度に立てて、栄養剤の注入中であった夫は、私の方へ顔を向けた。目が険しげに瞬き、震顫の症状のある手を伸ばそうとした。ここから出るのが不安なのだろうか。この隔離室に居るかぎり安全ではある。
「吸引と注入の練習をしたい。出来るようになるまで協力してほしい」
繰り返し頼むと、夫は目を閉じて頷いた。
十一月末、外泊の申請を出し、気管へ挿入する管の扱い方や、胃に開けられた穴からのチューブの蓋の開閉を習いながら、外泊当日の十二月二十六日を待った。明日が二十六日だ。
看護師さんは、車から玄関まで走ってみえた。彼女の眉に雪が幾粒もついているのを見て、外泊は延期だなあ、と思った。夫のベッドを置く予定の部屋をあたためておいたのだが、案内して座ると、隙間風が吹き込んで寒い。
「奥さん、雪が降ってしまいましたねえ。
正夫さんは、二年以上、外気に触れていません。自宅への移動の際の温度差で肺炎を起こす可能性があります。それから、ご主人の自発呼吸がもつのは二十分間です。病院から佐和山トンネルまでで十五分かかりました。車の渋滞を懸念します。今朝から何度か、雷が鳴ります。停電の場合、人工呼吸器のバッテリーは四十分間作動しますが、危険です。暖かくなるのを待ちましょう」
院内の温度は、常に二十一度だ。春になれば、ここを二十一度に保てるだろうか。この一箇月、準備をするのは楽しかった。ベットの向きを決め、目の高さにテレビの台をあわせ、体位の交換に使うマットを作った。濃縮栄養剤四百ミリリットルの袋を吊るため、鴨居にS字フックを取り付け、気持ちを弾ませたものだ。
今日の話が済んだ。ガラス戸ごしに、雪が真っすぐに降る。周りが暗くなり、部屋全体が上へのぼっていくような目眩を覚えた。
見送りにたつ戸口でたずねられた。
「延期のことは、奥さんから、伝えてもらえますか」
「いえ、主治医の先生から、伝えて下さい」
私が伝えます、と答えなかったので、思いあぐねて、八年前のことを思いだした。特定疾患手帳と身体障害者手帳が発行された時、夫は、
「おまえは、わしのことをどう思うか」
と、たずねた。
「障害基礎年金が貰えるから助かる」 と答えたが、あの時の答えも、先程の返事も、言い直さないといけない。
先生の回診が済んだ夫は、七二二号室へ走りこんだ私と目を合わさない。どうすればいいのだろうか。彼がいちばん好きなのは、猫だ。猫の話をしようかと考えて、急に思いついた。彼に近付こうとしたが、呼吸器の蛇腹の管が二本喉元へ通っていて寄れない。管をくぐり、顔へ屈むと夫は目を瞑った。舌を長く出し、鼻先を軽く舐めた。彼が眼を見張ったが、近くでみているので、左目が顎のあたりまでずれてみえた。舌の先を細くとがらせ鼻梁をつよく押して舐めた。彼の目元からこめかみへ皺がよった。夫が笑った。次に額を舐めた。彼は笑い続けた。
進行性の病気なので、四月までの日数は、その分の症状を加える。でも、もう一度、家へ戻れるよう準備をしたい。
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