どじょうのかばやき
近所の寺より聞えてくる蝉しぐれが、より一層あつさを感じさせたあの日、昭和二十年八月十五日。僕は家の前でいつもの薄よごれたランニングシャツに半ズボン姿で、何をするでもなくぼんやりと佇んでいた。そのズボンは向かいの兄ちゃんのおさがりで、全体にくたびれていてよれよれで、所どころを黒のモメン糸でブスブスとまつってある。
とそこへ近所のSちゃんがやってきて何時にない深刻な顔で言った。
「あのなぁ正〔まさ〕ちゃん、誰にも言うたらあかんで、日本は戦争に負けたんや」「そうか負けたんか…」「うん負けたんや」「それなら空襲はもうないから防空壕に、入らんでもよいがな」「うんそれはそうやけど…」と言い乍らがっくりと肩を落として、とぼとぼと帰って行った。僕は思わず「Sちゃん!」と呼ぼうとしたが思いとどまった。そう言えばSちゃんは、七ッボタンの予科練に憧れていたと言う事を、ふっと思い出した。
終戦を待っていたかの様に、通称やみ市と言われた露店屋が店を出しかけた。
マルビシ百貨店の前をなわばりとしたのは、五十歳位のおばさんで、白髪まじりの髪を後ろで無造作に束ねていた。
黒光りをしたまあるい椅子に腰掛けて、リンゴ箱の上にベニヤ板を置き石鹸を並べていて、その横には、ローソクも並べている。
当時はよく停電をしたので、ローソクは必需品、父は床屋で、ある日顔そりをしている時、案の定、停電になり、僕がローソクを持ったはよいが、うっかりして溶けたろうがお客さんの顔に、チョボンと落ちたからたまらない。気持よく寝ている処へとんだ災難、客は思わずとびおきた。「まあ、ぼんのした事や」と言い乍ら笑って許してくれたけど、父がぺこぺこと謝っている姿を見て何ともすまない気持ちだった。
夕食の時に停電にでもなろうものなら、それでなくてもささやかな食事なのに、ローソクの下で食べるじゃがいもは、何ともわびしい限りだった。
昭和新道(銀座街)のふろ屋の前が八丁目で、角に京都銀行があり、その横の屋台ではどじょうのかばやきを売っている。
立てかけた、日よけのすだれが涼しげだ。
店先の四斗だるの中には、今朝ほど捕ってきたどじょうがわんさと居て、右往左往している。時どき水面に顔をひょいと見せるのだが、どじょうひげが何とも愛くるしい。
どじょうにも、元気の良いのと悪いのがいて、見るからにぐったりしているやつもいる。反対に元気の良いのは、いきおいあまっておけから外へピョンととび出してくる。そいつを、ひょいと掴もうとして取り損ね思わず四つんばいになり乍ら、なお押えようとする前の客、ところがどっこい、どじょうにしたって命がけ、のらりくらりとにげ回る。
はちまきをしたおじさんは、裂こうとする分だけ、ざるにひょいっとすくいとる。「お父ちゃんがんばってさばいてやー」「あいよっまかしとき!」息の合ったやりとりを僕はポカンと口を開けて見つめていた。うす汚れたなんて物ではないかっぽう着のおばさんは、パタパタパタとうちわで火をおこしているが、うちわの半分は骨だけになってる。
今しがた裂かれたどじょうを十匹ずつ串にさして焼いて行く。どじょうにかける醤油たれがポトンポトンと炭に落ち、あたり一面にうまそうな香りが、ぷーんと漂っている。
かばやきの隣りでは、よごみ餅を売っていてすごい人だかりだ。つきたての餅は、見るからにうまそうで鼻を近づけると、よごみの香りがほのかにする。僕はその時、あみの上でぷーっとふくれたよごみ餅が目に浮んだ。「一度買って食いたいなあ…」といつも思っていたけれど、小学生ともなれば我が家の状態はそれとなく分かるもので、八百屋のケンちゃんが一寸うらやましかった。
母は内職として近所の呉服屋の仕立てをやっていて、日切り物を預かった時などはそれこそ大変で、夜中にオシッコに起きると、はだか電球の下で、黙々と針を運んでいるのを目のあたりにしてはいたが、ある日、思い切って「母ちゃん、餅を買うて」と言おうとして、のど元まで出かかったが、やはり言えなかった。
結局、よごみ餅は、人が買うのを見ているだけだったし、かばやきも、こうばしい香りを嗅ぎに行っただけだった…。
道路拡張により、あの風呂屋も銀行も、跡形もなくなり、あの日おけの中で、右往左往していたどじょうに代わり、今は、車が右往左往している。
そう言えば、あの日から六十年が過ぎ去ってしまった。
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