差別の壁から
市役所三階会議室の北側の大きなガラス窓越しに、霧に包まれた佐和山が灰色の雲と一体となって山の稜線すらさだかでない。中国桂林の墨絵を見ているようだ。三年程前から、市の男女参画地域推進委員として、月一回、活動計画やその報告の為この会場へ来る。そして現代社会の男女差別の実態から、地域に於いての啓発、推進方法を話し合うのである。
今から六十五年前、当時札幌の小学校六年生であった私はクラスの中の二人の女の子が気になってならなかった。一人の子は痩せて目ばかり大きく汚れたセーターの袖口からほどけてくる毛糸を絶えずねじこんでいた。もう一人の子は体はやや大きかったが、髪の毛も茫々で洋服の袖口は垢と鼻水を拭いたのかテカテカにひかっていた。二人はいつもオドオドして皆とは口をきかず、二人だけの別行動をとっていた。当時の受け持ちの先生は男性の先生で、頭髪はオールバック、四十歳ぐらいだったろうか。先生は二人に対して完全に無視していた。本読みの順番がきてもその子の席にくると、平気でとばして授業をすすめた。どうせ読めないだろう。答えられないのだからそんな子に時間をとられては、の意中だったか分からぬが、二人の少女に対しては冷たかった。したがって教室内のムードも二人に対しては、全く無関心であった。私は先生は贔屓している。あの女の子に目をかけてやればよいのに、貧乏はあの子達のせいではないのだから、もっと労わってやればよいのにと、先生に対して不満はもっていたが、声をかけるわけでもなく友達と共に無視を続けていた。それでも、もし私が先生になるような事があったら、贔屓をしたり貧乏人の子だからといって差別はやめよう、金持ちの子より目をかけてやるのが先生じゃないかと、義憤すら抱いたものであった。あの札幌の小学校木造校舎の二階にあった六年生教室を背景に二人の少女のオドオドした瞳は、半世紀以上たった現在でも忘れられないのは、一緒になって無視をした悔いなのだろうか。私にとって貧困による差別を意識した初めての経験であった。
やがて当時は予想もしなかった教職への道をすすんだ私は、貧しい家庭の子、障害をもった子、学習の遅れる子等に対して関心をもち、できるだけカバーしようと心がけてきたが、現実の職場では、そんなきれい事にはいかなかった。日々の多忙な暮らしに追われ、弱い立場の子ども達に、どれだけ満足のいくような接し方をしたであろうか、今想う時、やはり悔いばかりが先に立つ。
私は個々の子どもだけにしか目がいかなかった狭い視野のなかで真に差別をさせない、又しない子どもを育てようと努力していた頃、広い大きな望みをもった青年教師が赴任してきた。「人権」特に子どもの「人権」を確立しようと呼びかけ具体策として先ず、出席簿の順番を男女ミックスにしてアイウエオ順にしようと提案した。当時、出席簿は男子が先で女子が後になっていたのを、どこの学校よりも先駆けて行った。又、運動会の徒競走でも、男子、女子同時に走り、能力別に分けて走る様に決めた。すべてに男女並列に行ったが、身体検査のみは低学年のうちならともかく、胸もふくらみ初める中学年の身体的変化を思って別にした。現在と違って三十余年前の封建的山村で、又先輩教師が多いなか、あえて断行した彼の正義感と勇気には教えられ、学ぶ事が多かった。知的障害をもつ子どもを弟の様に可愛がり、少年はいつも先生にくっついて後を追っていた。男女差別、障害をもつ弱い子の人権を守ろうとする態度や行動、職員仲間の事にも、公私共に気をつかっていた。三年間であったが職場を共にした事を、未だに感謝している。惜しいことに病魔に蝕まれ、昨年一月に五十二歳の若さで亡くなったことは彼の人柄を偲ぶとき、かえすがえすも残念でならない。
かつて子ども達に「学校で一番厭な事ってどんな時?」と問うた事があった。すると、「仲間はずれ」「無視されること」という言葉が一斉に口をついて出た。幼い子ども達でも友達から差別をうける事が一番厭なのだ。この世の中男女差別、人種差別、貧富の差別、宗教差別、階級差別と限りなく人間が人間を差別している。そして喧嘩や喧争の果ては戦争迄やって傷つけあっている。同じフロアにたつ同じ人間同士、お互いの立場や気持ちを尊重しあい助けあっていけないものだろうか。望むのは無理なのだろうか。
会議は各地域のまだまだ根強く残っている封建的男女差別を具体例から話し合っている。
ふと目をあげると、雲が流れすっかり裸木になった細い木々の梢に、常緑樹の純い緑が調和して、冬の佐和山がうかびあがっていた。
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