小説 市民文芸作品入選集
特選

『凡鬼〔ぼんき〕
日夏町 増田 由季

 安永八(一七七九)年二月二十二日、江戸幕府十代将軍・徳川家治の世子・家基は数十人の供を連れて新井まで鷹狩に出た。
 この年十八歳の家基は、生まれてから大病を患った事もなく月に二回は鷹狩に出かけたとも伝えられているくらい健康な青年だった。
 新井の鷹狩の後、品川・東海寺に立ち寄って茶を所望し、休息をとった。本来将軍世子が口を付ける物には毒見が付く筈だったが、こういった場面では毒見の必要がないのか、それとも家基の油断が毒見の手間を省略させたのかは不明だが、家基は出された茶をそのまま飲みきった。
 ところが、しばらくして家基が不調を訴え、随行していた典薬・池原雲伯があわてて投薬を行ったが体調は治らず、一行はとり急いで江戸城に帰城した。

「御世継様が発病」
 家基を迎えた江戸城内は騒然としてすぐに医師団による治療が開始された。が、成果はなかった。家治は方々の寺社に家基病気平癒の祈祷を命じたが、どんな神仏もその力を発揮する事がなかったのだった。

 翌二十三日、江戸城西ノ丸において徳川家基が死去した。
 将軍世子の急死―突然の不幸に江戸城内は天地をひっくり返す騒動となり様々な憶測が飛び交った。
「田沼意次が御世継様に毒を盛ったのではないか?池原雲伯も田沼の手先であったに違いない…」そんな憶測がまるで真実であるかのように広がっていったのだった。

「井伊様、大老に就任して頂きたい」
 将軍・家治の覚えが目出度く、幕閣に逆らう者が居ないと言われている老中・田沼意次からそんな諮問があった時、井伊直幸〔なおひで〕は自分の耳を疑った。
 田沼と面識がなかった訳ではない、むしろ身内と言っても過言ではないかも知れない。意次の次女は分家である与板藩主・井伊直朗〔なおあきら〕の正室であり、直朗〔なおあきら〕の養子は直幸〔なおひで〕の息子・直広だった。そして直朗〔なおあきら〕の娘を直幸〔なおひで〕の養女にしている。また、自分の正室・伊予も与板井伊家から迎えているのだ。
 そういった意味では早くから田沼の門閥に組み込まれていたのかもしれない。事実、直朗〔なおあきら〕は大坂城加番・奏者番と出世し、三年前には西の丸若年寄の任に就いた。与板井伊家が初代・直勝公以来ここまで幕閣の中枢に進む事は一度として無かった、田沼門閥に入ればこその結果だったとしか考えられない。
 しかし、そもそもこの時期に大老を置かなければならない理由が見当たらなかった。
 大老は、幕府の最高権力者であり、その決定は将軍でも覆すことが出来ず、且つ大老が殿中に登城すると老中が揃って頭を下げて出迎える風習も残っているくらいだったのだ。
「自身の上に敢えて権力者を置くのか?」
 直幸の問いは当然のものだった。
「私の上には老中首座の松平康福殿がおられまするが?」
「康福殿の娘は、そなたの嫡男の正室ではないか」
 すると意次は、目を落とした。
「倅は…既に没しておりまする」
 今年三月二十四日、若年寄として政務に追われていた意次の嫡男・意知は殿中中の間で御新番組・佐野善左衛門に刃傷された。
 善左衛門に武芸の心得がなかったのか、殿中で刃傷を行う自分を八十年以上前の浅野内匠頭に重ねたのかその真意は測りかねるが、意知は左肩に三寸・内股に三寸五分程度の傷を負ったのみだった。
(助かる…)
 意知自身も、傷を見た周囲の者もそう信じて疑わなかっただろう。しかし、そんな予想を裏切って二日後に意知は息を引き取った。享年三十六歳。
「ワシは、御子息の代わりかな?」
 意次の目が一瞬動揺した、しかしその動揺は続くことはなくむしろ当たり前とも言いたげな表情を直幸〔なおひで〕に示した。
「井伊様には、何もして頂かなくて結構でございます。ただ大老に就任して私が進言いたしました事項を認可して下さいませ。責任は全て私が取りまする」
「つまりは傀儡で居ろと言うのか?」
「どの様に解釈して頂いても結構でございます」
 ここまではっきりと言われると、無礼を通り越して心地良くすら感じてしまう。しかし直幸も三十五万石を背負う譜代大名筆頭井伊家の当主であり、過去に二人の当主が三度の大老職を勤め上げた実績を持つ名家である以上、「何もしなくていい、責任は負う」と言われたからといって「されば」と簡単に応とは答えられない。
「何を企んでいる?」そんな問いは自然の流れだった。
「企むとは人聞きが悪うございます、私は思うがままに政務を執って行きたいと存じまするが、邪魔が多くて手を焼いております。
 そこで、大老の権力でこの邪魔な者共を黙らせたく存じております。愚息存命の時は私が矢面に立ち意知が影で足場を固めて参りましたが、それもできなくなりました。
 井伊様には、この意味お解かりになられまするな?」
 言葉は丁寧だが、異は唱えさせないと言う気迫に満ちていて直幸〔なおひで〕は少し身を引いた。
「ワシは、操られた大老として歴史家の笑い者になるのか…」
「その様な事はございません、名大老として末代まで御名を残されましょう」
「嘘を言うな、成功すれば田沼意次の名を歴史に残し、失敗すればワシは意次に利用された大老として悪名を残すであろう」
 意次は無言で答えなかった。
 直幸〔なおひで〕は「面白い!」と大声を発すると、高笑いした。
「井伊家をここまで虚仮にした成り上がりは初めてであろう、ワシは敢えて道化になろう」
 天明四(一七八四)年十一月十八日、井伊直幸〔なおひで〕は大老に就任した。後に “歴代大老の中で唯一その任に相応しくない”とも評価された大老はこうして誕生したのだ。

 さて、自らを “道化”と称してまで直幸〔なおひで〕が大老に就任する事に意味はあったのだろうか?
 勿論、田沼意次の男気に惚れたと言ってしまえばそれまでなのだが、それだけではない権力欲のようなモノがあったと考えられる。
 直幸〔なおひで〕は享保十六(一七三一)年、彦根藩七代藩主・井伊直惟〔なおのぶ〕の三男として彦根で生まれたが、その五年後に父・直惟〔なおのぶ〕は三十七歳という若さで亡くなってしまった。
 藩主の座は、直惟〔なおのぶ〕が存命中に叔父・直定に譲られていたために藩内では大きな騒動もなく直定自身は自分を繋ぎの藩主として考えていたようで直惟〔なおのぶ〕の次男で直幸の兄になる直〔なおよし〕を養子に迎えて世子として養育していた。
 このまま、直定・直〔なおよし〕と藩主の座が替わっていけば直幸〔なおひで〕には何の不満もなく、元服後に中堀外の控屋敷に移って捨扶持を与えられた生活を送るのも当たり前だと感じていたに違いなかった。事実、直〔なおよし〕が二十六歳の時に直定から藩主の座は譲られ、直定は彦根で隠居生活に入る準備をしていたのだった。
 しかし、直〔なおよし〕は藩主になった頃から病を患い在任六十日でその生涯を閉じてしまったのだ。
 隠居準備に入っていた直定は再び藩主の座に就いたが、自らも病弱だったので輪島藩主・伊達村候の弟・伊織を養子に迎えて井伊家を継がそうと幕府に届け出た。
 これを聞いた直幸〔なおひで〕は怒り狂い直定に直訴に出ようとした。井伊家には自分が居るのに他家から養子を迎える事など言語道断だった。
 そんな直幸〔なおひで〕を側役・鈴木兵衛門や小納戸役・石居次郎兵衛らが説得し、幕府の回答を待つ事にした。やがて幕府は「井伊家は直政以来の血流を変える事を許さず、直幸〔なおひで〕が育つまで直定が藩主を続ける事」という返事を出した。
 こうして、叔父・直定の養子となった直幸〔なおひで〕は二十五歳で藩主の座を譲られて彦根藩十代藩主となったのだった。
(叔父上を越える)
 直幸〔なおひで〕の前半生はその一点に絞られたといっても過言ではなかったかも知れない、直定が家治元服時に加冠役を勤めたなら、直幸〔なおひで〕は家基元服時に加冠役を務め、直定も直幸〔なおひで〕も将軍名代で日光代参を行っている。
 そして直幸〔なおひで〕には直富という後継ぎが居たが、直富が将軍の名代で天皇に拝謁したことで直幸〔なおひで〕自身が直定を越えたと実感した。しかし幕閣において直定は奏者番を勤めているが直幸〔なおひで〕に幕政に加わる機会が巡ってはこなかった。
 それが、彦根藩中興の祖と呼ばれた直興以来七十年も井伊家に回ってこなかった大老職に就ける。
(ついに叔父上を越えた)
 直幸にとって大老は自分が彦根藩主に就任した事の存在証明でもあったのだった。

 さて、田沼意次には元々人気があった。
 庶民は成り上がりを自らの姿を投影させて希望を持つ英雄に仕立て上げ、その人物を応援することで自分も同じ位置に居る様な気分を味わう事ができる。その上、意次はその顔を覗き見ただけの隣家の若妻が腰を落として立てなくなってしまったという逸話を残すくらいの美男子であった。
 成り上がる為には周囲への配慮を欠かさない、意次は九代将軍・家重に親身に仕えながら大奥の女性たちに対する心配りも欠かさなかった。美男子に尽くされる事が嫌いな人は少なく、意次の評判は公民含めて高まっていたのだった。
 大奥からの支援を受ける事はそのまま幕閣での出世を意味し、幕府の中枢へとその地位を高めていった。
 こんな話がある。
 九代将軍・家重は、自分が亡くなる前に息子で十代将軍となっていた家治を枕元に呼び「主殿はまたとう(全う人)の者なり、行々心を添て召仕はるべし」と遺言した。人の将に死のうとする時その言葉は尊いと言われているが、「意次は最高の人物だから信頼して任せていけ」と亡くなる直前の父が息子に託すなど異例の事だったのではないだろうか?
 家治はこの遺言を重視して意次に何でも相談し、意次もそれに応え、やがて老中の一席に加わった。
 政治の面でも、金・銀・銭の全く関連性の無い通貨を統一し貨幣流通を促進する制度や農民にしか課せられていなかった年貢を、商人に株仲間を組ませることで運上金を徴収し幕府への税収を多くする経済政策を始め、印旛沼干拓による農地拡大や身分にとらわれない人材登用・在野の学者への支援など先進的な改革を進めていた、そして何よりも特筆すべきは民衆がご政道について堂々と口にできる環境ができていた事だ。
 それまで、民衆に政治を批評するチャンスはなかった。瓦版に書かれる事も戦の経過や結果であったり、仇討ち・心中・怪奇現象・珍事件などの三文記事に限られていて、元禄年間の赤穂事件についてもそのまま伝える事も芝居にする事もできないので、登場人物を室町時代初期に起こった事件に重ねる方法がとられるくらいだった。それが当たり前だった時代にご政道について口にしても罰せられなくなり民衆も開放感に浸った。
 しかし、このやり方が田沼時代の終焉の遠因になったのかもしれない。

 天明三年十一月、意次の嫡男・意知が若年寄に昇進した。
「老中の次の地位である若年寄に老中の嫡男が就任する」これは江戸幕府始まって以来どんな権力者も行わなかった不当人事と周囲は見た。それまで田沼贔屓だった民衆が手のひらを返したように田沼批判を始めた原因もここにあったのだ。
 加えて、この頃は時期が悪かった。
 意知が若年寄に昇進する四年前(安永八年)、この年は春が来なかった。
 暦の上では初夏になっても近畿でも雪が降り九月に四国で降雪記録が残っている。
 また、大洪水・大地震・桜島の大噴火などの天災が続き様に発生した、当然作物は凶作となり食糧難となる。
 一度凶作となると飢饉を生みその復旧には時間がかかる、その上、当時は飢饉が拡大し易い状況になっていた。八代将軍・吉宗は名君として名高いが吉宗が将軍職に就いた時、幕府の財政は逼迫していた。そんな危機を救う為に質素倹約を旨とする享保の改革を行ったが、同時に幕府の収入源である米の価格を上げる取り組みにも着手した。米を原料とする清酒が全国に広まったのはこの時期で、そして玄米食を白米食に変えたのも吉宗だった。
 玄米が白米に変わる事で米の消費量が増えて価格が上がる。そんな安易な思い付きだったらしい。以降、全国で白米が食べられるようになったがその影響で玄米から吸収していた栄養源が摂れなくなった。
 飢饉が発生すると身体が弱ってしまう。そんな時に白米に慣れた身体で玄米を食べても胃が受け付けず亡くなる民も居た。俗に江戸三大飢饉と言われる享保・天明・天保の大飢饉が吉宗の時代以降に起こっているのは偶然ではなく吉宗の思い付き政策の影響だったのだ。この悲劇は戦前まで続く。

 さて天災続きだった安永八年から四年過ぎた天明三年になっても飢饉の悲劇は静まることがなかった、そして七月七日、日本史上最大の規模を誇る浅間山の大噴火が発生した。
 関東一円では火山灰の影響で昼間でも行灯〔あんどん〕が無いと歩く事ができないといった目に見える被害は当然の事、上空まで舞い上がった火山灰は地球全体を覆って世界規模で一時的な氷河期を引き起こした。パリではセーヌ川が凍り凶作に見舞われ大飢饉となり苦しんだ民衆が蜂起してフランス革命にまで発展している。
 遠く離れたフランスですら飢饉に見舞われたという事は、日本国内はどうなったかは予想できる。全国に大きな被害を及ぼし東北地方だけでも十万人以上の餓死者を出した天明の大飢饉はこの時から加速する。
 江戸時代、政治は全て各藩に任されていた。幕府が救えるのは天領の領民だけで、そんな天領の運営を行うのが幕閣の仕事だったと言っても過言ではなかった。天下の悪法と言われた五代将軍・綱吉の 『生類憐みの令』 ですらしっかり守られていたのは江戸を中心とする関東の天領くらいで、幕閣に参政していた老中や若年寄たちの領国でも適用されなかったくらいだった。
『生類憐みの令』が適用されないくらいなら各藩の領民にとって喜ばしい事だが、災害が起きた時の対応には問題が出る。
 救民対策の遅れや援助物資の出し惜しみを行った藩では目を覆うような惨劇が繰り返されたのだ。
 そんな中、領内に一人の餓死者も出さなかったとして御三卿の一つ・田安家から養子に入り白河藩主に就任したばかりの松平定信と米沢藩主・上杉鷹山が有名になった。また、井伊直幸〔なおひで〕の彦根藩でも一人の餓死者も出さなかった。
 彦根藩では江戸に詰めていた直幸〔なおひで〕に代わって三男・直富が彦根に入り藩政を執り仕切る事になった。ある時、城下で一晩中燃え続けるくらいの大火が起こり罹災者救済の為に藩の米蔵や金蔵を開放する事になったが、その量が多すぎた為に国許の家臣たちが「江戸の殿にお伺いを立ててからの方が宜しゅうございます」と直富に進言した。
 すると直富は立腹し、「父に訊ねる間にどれほどの民が救えようか?」と独断で救民措置を実行したのだった。後日この報告を受けた直幸〔なおひで〕は大変喜んで井伊家の行く末に希望を見出した。
 そんな直富だからこそ、大飢饉の恐怖が迫った時の対応も早く彦根藩内に数多くの救済小屋を設置し領民が飢える事もなく大飢饉を乗り切ったのだった。
 しかし、彦根藩などの救済措置が執れた藩は少なく、全国的に広がった飢饉が米不足を生み物価の高騰へと繋がった。
 この物価高騰への対策や被害状況の調査に素早く取り掛かったのが田沼意知だったために、少しでも早く救済措置が行えるようにと意知は若年寄に昇進したのだが、「民が苦しんでいる時に親子で栄華を極めようとしている」としか理解されず、この時点から意次はその人気を落として行ったのだった。
 そして、意知が佐野善左衛門の刃傷で命を落とした時、意知の手配で江戸に大量の米が運ばれて一時的に江戸市中の米価が下がっていた。真実を知らない庶民は、善左衛門の刃傷が世の中を良くしたと理解し、善左衛門を“世直し大明神”として祀った、それは同時に田沼政権がますます嫌われる原因にもなったのだ。

「二度とこの様な惨劇に見舞われないためにも、もっと安定した供給と経済の潤滑を図る」
 意次の目標はその一点に絞られたと言っても過言ではなかった。その為に何をしなければならないのか? 意次は明確な答えを持っていた。
「開国」
(諸外国と貿易を行い、わが国を富ませる。それを幕府主体で運営すれば幕府の力はますます強固となる。食料不足の時はそれを輸入すれば飢饉の被害も最小限に抑えられるのではないか?
 では、貿易国として一番信頼できる国は何処だ? 清国は我が国を見下してしまう。やはり大国・露西亜しかない。
 では、露西亜と貿易するにはどうすれば良いのか? 関東の物資を江戸に運び易くする運河の建設と露西亜に近い蝦夷地開拓以外にはありえない。幸い江戸への運河は印旛沼干拓によって始まっているが蝦夷地開拓も急いで始めなければワシの生存中に開国が行えない。
 そして、より強い権力が欲しい…
 大老職を利用する、幸い井伊家がワシの門閥の内にあるのならば利用するのが筋だろう。果たして井伊直幸〔なおひで〕はどの程度の人物か?)
 意次に政治的鋭さが出てくるのはこの時からと言って間違いない。直幸〔なおひで〕大老就任運動と同時に仙台藩医・工藤平助を招聘させてその著書 『赤蝦夷風説考』 について詳しく諮問した。
 赤蝦夷とは日本側が露西亜の事を指す時に使う言葉で、『赤蝦夷風説考』 には露西亜の風土や内情が詳しく研究・紹介されていて、その中には蝦夷地についても記されていた。
「果たしてこれは事実なのか?」
 事実であれば、蝦夷地は意次が思う以上に発展性のある土地であり、不毛の地として手付かずにするには惜しい場所となる。しかし、真実を調査しなければ全てが机上の空論になってしまいかねない。
 そんな不安を取り除く目的で、勘定奉行・松本秀持の責任の元で調査隊が蝦夷地に向かって派遣された。
 この調査隊は、蝦夷地を進み、場合によっては露西亜へ渡る事すら目的とした一団だった、そしてこの一団に名前が記されないような身分の低い下男だった人物が後に北方探索の第一人者となる最上徳内だった。
 徳内ほどの人物を生み出した調査隊だけあってその実力は意次の期待以上の成果をもたらした。彼らが残した記録を紐解くと蝦夷地の面積の誤差は一割未満に抑えられているほど正確に算出されている。そしてこの未開発地の一割を開墾するだけで六百万石の収穫が期待できると考えられていた。この石高は幕府天領を合わせた分よりも多くこの開墾が成功すれば、飢饉に苦しむ領民を飢えから救う事も容易になりうると期待された。
 そして、何よりもこの調査によって工藤平助の研究が正しい事も証明されたのだった。

 上層部が本気で行動すれば、その組織の動きは速くなる。ましてや井伊直幸〔なおひで〕の大老就任で反対勢力を全て抑え込む権力を持ったなら、思いついた時には既に実行に移す事ができた。
 田沼意次は息子の死を切っ掛けに己の余命すら感じるようになっていた。
(残された時間は少ない)
 本来ならば二代三代の時をかけてやらなければならない改革を老体に残された僅かな時間でやり遂げる。意次は次々と改革を進めていった。その姿はまるで失った息子の敵を討つようでもあり、余りの気迫に周囲がたじろぐことも一度や二度ではなかった。直幸〔なおひで〕は大老として、また意次の後ろ盾としてそんな意次に注意を促したが、意次は「時間が惜しゅうございます」と答えてその歩みを止めなかったのだ。
 しかし、もしこの改革が破れた時にはどうするか? そんな事までが意次の脳裏に思い巡らされていた。
(井伊様に会ってみるか)
 意次は、井伊直幸〔なおひで〕の元へと参上したのだった。

「御大老様、道化の気分はいかがですかな?」普通の人間が聞けば怒り狂うような言葉を意次は敢えて口にした。
「そなたがよく知って居ろう」
 直幸〔なおひで〕も今更この様な事では怒らなくなっていた。
「だが、なぜその様に全てを急いでいる?」
 直幸〔なおひで〕にとって一番訊ねなければならない事だったが、今まではそれすらも遠慮していた。自分を大老に推した意次に一々尋ねることで意次に負けているような気分に襲われていたのかもしれない。
 しかし、意次の目指している場所が直幸〔なおひで〕にもやっと理解できるようにまでなった。それは壮大であり、かつ想像以上の困難を要するモノだった。
 だからこそ、知らねばならないと直幸〔なおひで〕は思った。
「そなた、まさか国を開こうと考えているのではあるまいな?」
 意次の目が怪しく光った、若い頃は大奥で噂にのぼるほどの美男子だったと言われるその調った顔立ちで見つめられると、男色の気がない直幸〔なおひで〕ですら引き込まれそうになった。
「御大老様には既にご承知の事と存じましたが…」
 浅く頭を下げて見上げるように見つめられる目にますます深みが増す。
「では、蝦夷地だけではなく印旛沼すらそのために…」
「御意でございまする」
 どこかで覚悟していた事であっても、言葉に出されると急に重力が掛かってきた。
「印旛沼の干拓が成功すれば、収穫が増えるのは事実でございます。しかし本当に必要なのは、物資を江戸に集める水路でございます。そして江戸湾を中心に諸外国との交易を行いまする」
「なぜ、開国を急ぐ?」
「井伊家は異国にも詳しいと聞き及んでおりますが?」
 意次は伏せていた頭を上げて、膝を揃えた。
「ご政道に関わるには当然の事だ」
「では、如何に思われまするか?」
「みなまで言わずとも解かっておろう、既に二百年は遅れをとった。今、南蛮国に攻め込まれたら、我が国土はその殆んどが焦土となるだろう」
 直幸〔なおひで〕は、自分で予測しながら身震いしていた。
「我が国はいずれ国を開かねばなりません、その時、外国の脅威で醜態を晒すより、事前にゆっくり余裕を持って事を成せば国内に混乱もなく収まりましょう、これも国を思えばこそでございます」
「まさか貨幣の統一も…」
 意次は「ほぅ」と改めて感心したような吐息を発した。
「流石は大老を多く輩出する井伊家当主でございまするな、失礼ながら今まで御大老様の実力を過小評価しておりました。しかし、井伊直幸〔なおひで〕様こそが私の信頼できうるお方であることに気が付きました。
 貨幣統一は国内の流通を促進するばかりではなく、複数貨幣の流通は諸外国との取引で足元を掬われる結果にもなりまするので、不安の種は早くに除く事も開国を迅速に行う手段となりまする」
 その時、直幸〔なおひで〕の目には意次の後ろに黒い物が見えた気がした。
「下手をすると命を落とすぞ」
「覚悟の上」
 意次は真っ直ぐ直幸〔なおひで〕を見据えた。
「その上で、御大老様にお願いがございまする」
「これより何を望む?」
「もし、我が身に何かありました後は、愚孫・意明をご指導下さい。そしてもしこの策が破れたとするならば、井伊家に後を引き継いでいただきたく存じます」
「成り上がり者が名門に指示を下すのか」
 直幸〔なおひで〕は肩で笑った、意次もそれに誘われて微笑した。
「当主になれぬかも知れぬという苦悩を味われた方が、名門という形だけの地位など気にもなされて居られないでしょうに…」
「すべて、お見通しか…」
 意次が「はい」と声を漏らして頷くと、直幸〔なおひで〕も相好を崩した。
 大老・井伊直幸〔なおひで〕と老中・田沼意次の目的ははっきりと先を見定めていたといっても過言ではなく、それぞれの後継である井伊直富と田沼意明が後を引き継いで日本を守っていく事を確信していた。
 ただし、意次は素直にはこの未来を喜ぶ事はできなかったに違いない、最愛の息子・意知が生きていれば、自身が老年になるまで政務に走る必要がなかったからだ。

(わが命もう少し使えよう)
 意知が刃傷されて以来、立ち止まる事なく歩んできたが、残り少ない時間を最大限にいかしたかった。
(意明に任せられるまではやらねばならん)
 開国という目的を井伊直幸〔なおひで〕と共有する事で不動のものになった、ならば次の手を打って少しでも早い海外貿易を始めるのだ。意次の心配は自分の命だけであり、自分が生きる時間が日本の運命を決めると信じていた。
 しかし、運命は予想もしないところから転がり落ちていく。

 天明六年七月、この年は梅雨明けが遅くいつまでも大雨が関東に降り注いだ、そんな梅雨もやっと明けようとした時、気の早い台風が江戸に上陸したのだった。
 それまでの大雨で弱っていた地盤に台風の猛威は支えられず、江戸湾からの大津波で町は壊滅的な被害を受けた。そして、干拓中の印旛沼の堤が決壊したのだった。
 四年を掛けた印旛沼干拓は全て無となり、江戸市民の災害復興の後に再開されるように決まったが、町の復興すら何時になるか解らない状態だったのだ。
 そして意次に更なる試練がのしかかる事になる。

「上様がご重体」
 八月二十一日、江戸城内で井伊直幸〔なおひで〕の元を訪れていた田沼意次が家治重体の報を受けた時、その狼狽振りに直幸〔なおひで〕すらも何が起こったのか瞬時に理解できなかった。
「今、上様に倒れられる訳にはいきません」
 意次は直幸〔なおひで〕の存在も忘れて転がるように家治の元へと走り出し、少し遅れて直幸〔なおひで〕も後を追った。
「田沼殿、いずこへ参られまする」
 そんな意次の進路を遮るように立ちはだかったのは老中になったばかりの鳥居忠意だった。
「上様にお見舞いじゃ」
 忠意の横を抜けて進もうとする意次を両手を広げて止め「なりませぬ」と抱きかかえた。
「無礼ではないか!」
「上意でございます、上様は 『田沼の顔など見たくもない』 と仰せでございまする」
「嘘をつくでない!」 
 意次の怒りが力になり、忠意を押し倒した。忠意も先に進ませまいと意次の右足首にしがみついて放さなかった。
 直幸〔なおひで〕が意次に追いついてこの場面に出くわし忠意に対し叱責するがそれでも放さなかったので、意次を宥めてその場を静めた。
「田沼殿、先程も申し上げました通り、上様はお目にかかられませぬ、それでも上様の元に参られるならば 『斬れ』 との仰せにございまする」
 忠意は脇差に手を置いた。
「忠意、殿中での抜刀が如何なる事かわかっておろう!」
 直幸〔なおひで〕の怒声が響いた。
「上意に叛かれるならば、御大老様もこの手で、たとえ我が身は切腹となろうと上様の意には叛きませぬ」
 そこには齢七十になる忠意の気迫がみなぎっていた。直幸〔なおひで〕と意次の二人が老人一人を相手にするならば勝ちは見えている。しかし、意次は直幸〔なおひで〕を制してそれぞれの屋敷へと戻った。
 六日後、登城を命じられた意次は、忠意によって老中罷免の上意を伝えられた。上意は将軍の意思であり、意次は粛々とこの理不尽で急な人事を受けいれたのだった。
 これと同時に、勘定奉行・松本秀持も失脚し蝦夷地開拓は頓挫。
 田沼時代と呼ばれた江戸期で唯一庶民が夢を見た時代も終わりを迎えようとしていた。
 そして九月に入り、江戸城内は突然騒がしくなった。
 六日、将軍・家治の危篤が諸大名に知らされる。
 八日、前日に将軍が薨去したと幕閣より発表される。
 この日から行われる多くの法事に家治の遺体が置かれているが、その遺体の近くには必要以上の香が焚かれた。それでも遺体が発する腐臭を消すことができず、家治の死に顔を見る事は誰一人許されなかった。
 十月四日の葬儀の後は遺体を入れた霊柩は夜陰にまぎれて上野寛永寺まで運ばれ夜の内に埋葬された。
 「おかしい」と思う人々が居て当然だった。やがてどこからともなく真相が噂として広がった。
「上様は八月二十日に薨去されていたらしい」
「この事を知っているのは新将軍の父である一橋治済公と松平定信だったようだ」
「では鳥居忠意どのはご存知ないのか?」
「そうよ、上意と信じて殿中で刀に手をかけたとか…」
「ではそのまま抜けば当然お家断絶」
「危ないところであったのう…」
「田沼や御大老様は?」
「当然知らなかった」
「上様の遺体は半月も放置されていたのか」
「あの腐臭はその為…」
「埋葬が深夜だったことも、真相を闇に葬るためか。何かを隠す者は堂々とする場面まで隠そうとするらしいが、正しくその典型か。上様が哀れであり、田沼も黙っては居ないだろうな」
 意次はこの噂を耳にしても動かなかった。自分が動かなくてもまだ大老には井伊直幸〔なおひで〕が残っていて老中首座も松平康福が勤めている。大奥も新将軍・家斉の乳母で大奥最高権力者である大崎局が田沼派として幕閣に影響を与えていた。これらの権力者が意次復権運動を開始していた。
 そんな中、家斉から意次に対し江戸上屋敷と大坂屋敷の没収や二万石の減俸、下屋敷での謹慎を申し付けられた。
 十二月になって家斉から幕閣に対して松平定信の老中就任への推薦が行われたが大老・老中・大奥などが反対し頓挫。
 翌天明七年の年賀の挨拶では意次が老中と変わらない立場で家斉と面会している。
 この後も反田沼派が何度か定信老中就任を画策するが全て失敗した。

(このままでは…)
 定信は慌てた。何のために一橋治済と組んだのか? 自分に都合良く邪魔な人物が死んでいった事で自分には生まれながらの幸運があると信じて疑わなかった。しかし、全ては治済の陰謀だった。「将軍に早く亡くなってもらう」と平然と口にした治済に逆らう事は己の死を意味すると理解し協力した。その見返りは自分の老中就任だった。が、これほどの反発を受けた時に田沼意次の大きさと、井伊直幸〔なおひで〕の就く大老職の絶対性を知った。
(なんとしても権力を握る)定信には権力しか見えなくなっていた。
 そんな定信に知恵を与えたのはやはり治済だった。
「江戸で暴動が起きるからそれを定信が治める。定信の神秘性が上がるだろう」と…

 天明七年五月二十日、相変わらず高騰を続ける物価や田沼失脚・将軍交代で無政府状態が続いている幕府に対する反発から打ち壊しが勃発した。
 江戸は当然の事、京・大坂を始めとする全国に広がったこの騒ぎは幕府の屋台骨を揺るがす原因の一つになった。
 前代未聞の騒動でありながら、悪事を働かない・人に危害を与えない・盗みをしないなどの統制が執れていた不思議な暴徒は、取締りの為に定信が現場に出向くと不思議と収まって逃げていったという。
 この件で人気を集めた定信は、六月十九日にいきなり老中首座に就任、そして大老と並ぶ将軍後見役にも就任したのだった。
 田沼意次失脚・松平定信登用後も田沼派の重鎮として残り続けた井伊直幸〔なおひで〕だったが、九月十一日突然大老を辞任して政治の表舞台から身を引いた。
 若年寄だった与板藩主・井伊直朗〔なおあきら〕もこの時に幕閣から去っている。
 田沼意次は、この後に閉門蟄居の命が下り、一室に閉じ込められたまま誰一人の訪問も面会も許されない孤独な世界へと追い込まれたのだった。

 藩主が大老の座を辞し表面上は穏やかな日々が始まった彦根藩内で、その日は何の前触れもなくやって来た。
「直富倒れる」
 しかし、周囲では過労だと思われていて、少し休息を取れば治るとの油断があった。
 そんな周囲の期待を他所に、井伊直富がその事に気が付いた時、既に手遅れだと自覚するに至っていた。
(毒を盛られた)
 それも、ここ数日の事ではなく、何年もの間、少しずつ膳に盛られたのだろう、身体全体が毒気に侵され最早吐き出す事も、治療もままならなくなっていた。
 一度臥せってしまった直富が床から起き上がれる時が日に日に少なくなっていたのだった。
 藩主が幕府大老として江戸詰になっている為に、お世継ぎという立場ではあるものの、江戸と国許を往復し藩政の一切を仕切っていた直富が弱っていくのだから、家臣一同は大いに困惑して、藩士の病を理由に京から名医を呼び寄せて直富も診察させて治療に専念するように計らっていた。
 その話を耳にした直富は、主だった家臣を枕元に呼びつけて「領内にも医者は居るのに、京より呼び寄せたとあっては 『彦根の医者は京の医者に敵わないのであろう』 という噂を広める事になる。私の治療は無用である」と叱責したと記録されている。
(それでは、せめて江戸で療養を…)
との重臣たちの決議によって急いで江戸に移った直富を正室・詮子が迎えた。
「殿、せめて一度だけでも治療を受けて下されませ」
 詮子の必死の訴えにも直富は耳を貸そうとしなかった。そして詮子も何かを感じ取っていたのかも知れない、いつまでも首を縦に振らない夫に内緒で、実家である仙台藩から伴った侍女・只野真葛を密かに呼び出して、仙台藩医を勤める真葛の父を彦根藩邸に招いた。
 直富の伏せる寝所は一時的に人払いが行われ、直富は渋々診療に身を任せた。
「その方、ここで知った事は口外せぬと約定できるか?」
 直富は念を押して真葛の父に訊ねた。返答しだいによっては侍女の身内と言えども斬る手配もしなければならないからだ。
「お世継様は私を信用されておられませんのか?
 私は工藤平助と申しまする、この名のみでお父君も存じて下さる筈ですが」
 父・直幸〔なおひで〕が田沼意次と図っていた蝦夷地開拓の切っ掛けとなった『赤蝦夷風説考』の筆者が出向いてくるとは直富の想像外の事だったのだろう、直富は素直にその身を預けたのだった。
「毒に身を冒されておられまする」
「承知している」
「ならば、なぜもっと早くに医者を呼ばれませなんだ?」
 直富は、外れて欲しかった予測の的中に絶望しながらもはっきりと言を返した。
「医者の診察によってもし『井伊家の世継ぎが毒を盛られた』という噂が立てばどうなる?
 井伊家は世の笑い者となり父上の政務にも支障をきたすであろう、我が身一つが人柱となって井伊家が救われるなら良いではないか」
「しかし、この苦痛は耐えがたきモノである筈…
 ならば、せめて私が楽に浄土へ参られますように薬を調合いたしましょう」
 平助は、薬箱の奥に封印された小さな袋を取り出して薬を調合した。
「お世継様、ご立派なご生涯でございました、よき旅路へとお着き下さいませ」
 調合を終えた平助は直富に向かって深く頭を下げた。そんな平助に優しく微笑みかけた直富は「かたじけない」と友に語りかけるようにその心遣いに感謝の意を示したのだった。翌日、名門・井伊家であるが為に守らなければならない名誉を自らの命で償うように直富は二十五年の生涯を静かに終えた。天明八年七月十二日の事だった。
 余談だが、父・平助が直富の最後の薬を調合した為に、井伊家に残れなくなった真葛は江戸の町に住まいを構え江戸後期を代表する女流文学者となるのであった。

 直幸〔なおひで〕の元に「直富没す」の報が届いた時、直幸〔なおひで〕はただ呆然と西の空を眺めるしかなかったという。
 直富が亡くなった十二日後、田沼意次も没した、閉門蟄居の罰を受けている身だったために寝込むようになった病人に医者を呼ぶことも許されず、寂しく息を引き取ったと直幸に伝えられた。
 この後、田沼家には不幸が続く。
 九月、意次の後を継いだ意明に川普請役が申し付けられ金六万両が徴収される。
 寛政八(一七九六)年に二十四歳で亡くなったのを最初として四代が八年間で亡くなっている。
(最早、政敵は居なくなった…)
 今や幕府中興の祖とうたわれている吉宗の孫としての誇りと、白河藩に養子に出なければ十一代将軍は自分であったと言う後悔の念は松平定信を尊大にした。
 江戸城内で井伊直幸〔なおひで〕とすれ違った定信は、直幸〔なおひで〕に耳打ちした。
「井伊殿、田沼に近寄りすぎましたな」
 カッと睨み付ける直幸〔なおひで〕に対して冷たい声で続ける。
「世子殿も残念でございました、聞けば田沼は家基様や御先君に毒を盛られたとか…
 井伊殿もお家と御身が大事なら田沼ごときに関わらなければ良かったものを…」
 直幸〔なおひで〕は怒りで脇差に手をかけようとするのを抑えながら低い声で定信に応えた。
「今更、何が言いたい」
「名門・井伊家の子息は全て夭折し、井伊家は御家断絶とは寂しい限りではございませんか?」
 定信の声は人のものとは思えない程に冷たいままだった。
「お家を守りなされ」
「何が望みだ!」
 傍から見れば雑談を交わしているようにしか見えない二人の間には緊張が走っていた。
「与板か松代」
 与板藩は、井伊家分家として三男・直広が養子に行っている、そして松代藩は武門の雄・真田家で四男・幸専が婿養子となっていた。
「我が血縁に名門の家を継がせたく存知ましてな。この定信の子ならば早世する心配もないであろうし…」
 これ以上聞けば脇差を抜くかもしれない、いそれは井伊家の断絶を意味して、目前の若造の思い通りになる可能性もある。そしてどう間違ってもこの男の血縁に井伊は名乗らせたくはない。
「松代」
 直幸〔なおひで〕は吐き捨てるように言葉を発すると定信に背を向けてその場を去った。
 松代藩はこの後、幸専の藩主時に幕府から隅田川の工事などを命じられて財政が逼迫する。そして定信の次男・幸貫を養子に迎えるしかなかったのだった。

 寛政元(一七八九)年二月一日、直幸〔なおひで〕は江戸上屋敷で病の床に就くようになった。
 二月八日、松平康福が亡くなったとの報せが直幸〔なおひで〕の元に届いた、康福は老中首座として田沼意次を支えた最後の巨頭だったのだ。そしてこの影には一橋治済が動いていたとも噂された。
 一橋家は、徳川吉宗の血を一番引き継いでいたかも知れない、先君・家治公には家基公という有能な世子が居たために十一代将軍は家基公になると誰もが信じていたが、家基公が急死したために御三卿の中から十一代将軍を選ぶ事になった。しかし、田安家の定信は白河藩に養子へ行き、清水家は当主に子がなかった。
 結局、一橋家から家斉を世子として迎えるしかなかった。家斉は幼い頃から奇行が多く、将軍としての器量を心配する声は将軍になった今でも消える事はない。
(ワシの症状、直富と同じではないのか?)
 直幸〔なおひで〕は動けなくなってから、冷静な判断ができるようになっていたのかもしれない。
 徳川家基公の急死・田沼意知の不可解な刃傷・家治公が毒殺されたと言う噂・そして直富の死…
 いや、もっと前からだった、四代藩主・直興公より五代に渡って井伊家に病弱な当主が続いたのは何故だったのか? そして世子候補も自分しか残らなかった。今なら叔父上がなぜ伊達伊織を養子を迎えようとしたかすらも理解できた。
(ワシを死なせて井伊家の血が絶えるのを恐れたのですね叔父上…)
 前藩主が当代の次の藩主を指名した前例が井伊家にはある。二代・直孝は三代・直澄に四代藩主を直興にするように遺言を残し実行された。叔父・直定も伊織の次に直幸〔なおひで〕自身かその子に藩主の座を譲るように遺言すれば井伊家の血が確実に受け継がれると考えたのだろう。そこまでして守られる命だったのだ。
 急に苦しみに咽た。もう助からない、そう確信した。そして怒りが込み上げてきた。
 一橋治済が自らの息子を将軍にし、松平定信は権力を欲した、そして多くの命が無残に奪われた。
「おのれ一橋、許しはせん! 陰謀に加担した白河も罪は同じだ。
 今後、井伊家が将軍継嗣問題に関わる時は一橋・田安の人間は何があっても推してはならん、ワシの念を子々孫々まで申し伝えるのだ!」
 二月二十日、井伊直幸〔なおひで〕は江戸屋敷で藩主在任中に亡くなった、享年六十一歳。

 彦根藩主としての直幸〔なおひで〕が行った大きな功績は世子・庶子を問わずに徹底的な教育を行う制度を明確にした事ではないだろうか?
 彦根城を中心に建てられていた四つの控屋敷それぞれに専属の教育者が用意された。
 そんな直幸〔なおひで〕の教育制度の申し子は藩主の後を継いだ直中から孫の直亮〔なおあき〕・直弼というニ人の大老に受け継がれる。
 奇しくも直幸〔なおひで〕と同じ控屋敷で青年期を過ごした直弼は田沼意次の志を形にし開国の父と呼ばれるようになった。
 また、将軍継嗣問題に携わった直弼が一橋慶喜と対立したのは当然の結果だったのかもしれない。
 しかし時は既に遅く、直弼を暗殺し巨大な指導者を失った日本は諸外国の横暴に頭を抱えるのだった。


( 評 )
 井伊直幸と田沼意次の関係を描いた歴史小説である。田沼といえば賄賂政治と思われがちだが、蝦夷地開拓など肯定的評価をふまえ、さらに開国にも触れ、ユニークな視点で描かれている。ただ、史実に重きが置かれ、人物描写に潤いが欠けているのが惜しまれる。

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