随筆・評論 市民文芸作品入選集
入選

お返し考
開出今町 掛田 洋子

 クラクションが一つ鳴って霊柩車が出て行くと、参列者の塊が崩れはじめる。その中のひとりが、
「いいよね、私のときもこうするわ」
と言った。私も同じ気持ちでいた。
 今日、お見送りした人は生前から香典はいらない、と家族に話してあったらしい。その意志を家族が参列者に告げた。
 老輩の中には、そんなことは今までなかったことだからどうしても受け取ってほしい、と言い張る御仁もいたが、詮ずるところ故人の意志を尊重することになった。
 昔からの慣習も、徐々に簡素な方へと変わりつつある。
 以前、婚家にしばらく住んでいた時、法事を終えて畔道を帰る人を見かけたお姑さんが
「大きな袋を貰って帰らっさる」
と言った言葉を思い出した。他家の法事であっても、無関心ではいられないのだ。雀のお宿以来、僻村では今も葛籠は大きい方がいいとされている。

 周囲が田んぼの振興住宅地だった近辺も、ずいぶん様変わりしてきた。田畑の広がっていた一帯は公園になり、四季折々の風景が楽しめる。高齢者は朝の散歩を、若いフアミリーはピクニックシートを広げ、遊具で遊ぶ子どもたちに目を細めている。
 居住して、かれこれ四十年。殆どの住人が三十代だったのに、今では七十代に突入。高齢者だけの世帯が増えた。学区のソフトボール大会やバレーボールの試合に出ていたメンバーも、老人会に顔を揃えるようになった。
 毎月開かれる老人会では、互いに意志の疎通をはかり和やかに談笑しているが、大方は元企業戦士。個々のプライバシーなど殆ど分かっていない。敢えて立ち入らないのか、やさしい無関心なのか。
 先日、新刊案内欄で 『フランス人にはお返しの習慣がない』 という本を見つけ、さっそく書店へ行って聞いてみたが、題名だけでは取り寄せようがありませんね、と断られてしまった。日頃、お返しについて腑に落ちないものがあったので、フランスと日本とでは文化や国民性の違いはあるにせよ、割り切り方が参考になればと思ったがしかたがない。

 私たちの暮らしの中には、数々の仕来りが根づいている。お返しの習慣が欠かせないのもその中の一つで、「あたりまえやないか、他所から物を貰ったらすぐに返しておくのは」と、お姑さんの叱責する声が聞こえてきそうだ。
 昔から農家の間では、田植えの時期などに互いに力を貸し合う〈結い〉と呼ばれる習慣が長い間続いてきた。だから、お返しに関しても、GIVE & TAKE の感覚が条件反射するのだろう。
 喜んでもらいたくて差し上げたのに、当然のようにお返しをする人がいるが、そのようなことをされると、あげなければよかったと思う。それが、差し上げた物より高価な場合だったりするとなおさらである。
 昔、母は珍しいものや、旬のものなどをたくさん頂いたときには、いつもご近所へおすそわけをしていた。又、ご近所からも、お豆を炊いたので、と布巾をかぶせた小鉢を頂いたりもした。
 おすそわけの気持ちの中に、お返しの期待は〈無〉である。そこへお返しが割り込むと、おすそわけの気持ちは不純なものになってしまう。と独りよがりの定義づけをしている。
 頂き物は、単に品物だけを貰うのではなく、それには贈った人の心も添えられている。だから、即座に形だけのお返しをしてしまうのでは、あまりにも空疎なものを感じる。
 お返しの基準はむつかしい。その中にお付き合いの度合いが推量されるから。それゆえ形だけのお返しをするのなら、いっそ貰いっぱなしの方がいいのでは、と考えている。

 いつだったか、たまたま立ち寄った法然院の境内で、陶芸家を目指しているという青年が、自作の品を並べて売っていた。その中に手捻りの一輪差しがあり、素朴な色合いに惹かれて手に取ってみたら、なんだか手放せなくなり、何だろうこの気持ちはと考えるに、細やかながらも、未完の陶工を応援している自分に気づいた。
 花入れの少々お高い対価には、若い成長株への投資と、お気に入りの一輪差しに出会えた嬉しさのお返しが入っている。

 手びねりの花入れに合う栗ひと枝


( 評 )
 他人さまから頂くさまざまなご厚意に対して、私たちはどのように「お返し」をすればよいのだろうか。作者は、たまたま立ち寄った法然院で若い陶芸家の作品を購い、ふとその答えを見出している。起承転結のセオリーを踏まえた流暢な一文。

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