随筆・評論 市民文芸作品入選集
入選

蝉とトンボ
日夏町 小林 勝一

 私が小学校の三年の時の通信簿が有った。とっくになくなっている父親の万年筆の字で、通信欄に「毎日、虫捕りばかりしていて困る」そんな文章が書かれていた。もう、半世紀も前のことだ。その頃から、虫は好きだったのだ。コガネ、クワガタ、カブト、糸きり虫、キリギリス、殿様バッタ、蝉、トンボ。だから、夏は大好きで朝から虫を追い回して遊んでいたのに違いない。つかんできたのを虫かごにぎゅうぎゅうに詰めて、思わぬ殺生もしたことだろう。五十年も経った今も虫は好きで、さすがに虫かごまでは用意しないが、わざわざ、観察に行く。
 蝉について言うと、五月の終りから六月にかけて、荒神山や野鳥の森で松の木で「ぎぎ」と鳴く蝉が居る。春蝉というそうだが、私はまだ、この春蝉を捕らえたことが無い。というか、姿も目にしていない。ニコンの十倍を持ち歩いて、「ぎぎ」と鳴くと、くまなくレンズで探すのだが見つからない。字引を引くとヒグラシに似て雄は黒色。雌は褐色紋とあるが、どうしても見ることができない。(俺の背中で「ぎぎ」と鳴く)状態が続いている。今年こそは真剣に探してやろうと考えている。「五木の子守唄」で「裏の松山蝉が鳴く」とあるのはこの蝉だろうか?なんか、気になる「ぎぎ」の声だ。六月の終わりから七月にかけて、早朝に多賀の山、野鳥の森など歩くと、低木の陰から蝉が飛び出してうろたえて人にもぶつかる。胸ポケットの辺りに停まるのも居た。素人考えで、あれは、夜明けに出た蝉が脱皮したてで、くたびれ果てて、休息している前をがさがさ行くものだから、びっくりのパニックで飛び出すのだろう。昨年は蝉の少ない年だったが、一昨年は多く出た。朝のうちで十匹ほど飛び出して楽しませてくれた。
 この蝉はヒグラシだ。全体にうす緑の羽根のきれいな蝉だ。カナカナと鳴かないけどたくさん居るものだ。この蝉の前後にニイニイ蝉の小さい可愛らしいのが桜の若木で「じいじい」と鳴く。その頃には、クマゼミも出てくる。この蝉は川辺や公園など低地に多い。あまり、山の中では見ない。油蝉は山地も里も平均して居る。子どもの頃は、あんまり、ありふれて値打ちの無いように思っていたが、今の目で見ると結構、見ごたえがある。あの焦げ茶に、強い野生が秘められているように見える。お盆前後からミンミン蝉が出てくる。これが鳴くとしみじみ暑さを感じて、夏好きの私もタオルを用意する。
 最後は法師蝉だろう。近頃、ミンミンと法師はなんだか少なくなったように思うがどうだろうか。山地で一番数が多いのはヒグラシと思う。鳴かないヒグラシ。だけど、なんとなく、はかない羽根の色。無言で桜に取り付いて、木の精のような静かな存在。私は一番見ていたい蝉だ。
 お盆ごろに野鳥の森など歩くと、蝉のほかにトンボが楽しめる。やはり、鬼ヤンマだろう。悠々と低空を滑走しているのを見ると、ドキッとして私は蹲ることにしている。じっとすれば、鬼ヤンマは飛行を続けてくれる。大概、行ったり戻ったり、五、六回は繰り返して、しゃがんだ目の高さで飛ぶ。多分、目線が合っているだろうが、悠然として王者の風格を崩さない。
 私はこの大好きな鬼ヤンマの産卵を目の前で見たことがある。佐和山の麓。大洞弁才天の参道口。井伊神社のところで、お盆すぎの午後四時ごろ。丁度夕立がひとしきり降って桜や柳もたっぷり濡れて、神社の敷かれた小砂利の傾斜は降ったばかりの雨水がさらさら流れて横の溝に落ちていた。鬼ヤンマは多分、その流れが谷川のせせらぎに見えたのか。尾っぽを流れにつんつんさして産み始めたのだ。人は私ひとり。しゃがんで見守った。トンボはつんつん。ぽろぽろ、白い仁丹ぐらいの粒を五十、いや、百、百五十、数は不明。卵はぽろぽろ砂利の上に落ちて、横の溝へさらさら送られた。五分か、十分か。最後の方は疲れた様子で動きが緩慢になり、見た目に心配になってきた。卵を産んでいる間は羽根をいっぱいに、縦に尾っぽを水に突き立てる態勢を、静止状態で続けているのだから疲労も出たろう。そのうちに、卵は出なくなった。排卵の終わりになった。トンボは疲れて、鮭が排卵の後、横に浮くように、力尽きて落ちるのか。もし、そうであれば、私が立会人として骨は拾ってあげよう。誰が歩いて来るやも知れぬ砂利に寝させはしない。目の前の木々のうち、一番美しい、堂々として天を指すけやきの枝にも、そっと寝かせてやろう。大きい、ぎょろつく目ん玉で夜空の星を月を見られる姿勢で横たえてやるよ。そんなことを思って眺めていたら、すべてを終わった鬼ヤンマは上昇してあっという間に樹間に消えた。そして、卵はみな溝に流れて草の茂みへ入って、命のドラマの痕跡はなんにも残っていなかった。私ひとり残された。


( 評 )
 「三つ子の魂、百まで」。成人してからも作者の「昆虫好き」は変わらない。とくに鬼ヤンマの産卵場面にかんする細やかな観察ぶりから、生き生きと輝く少年の瞳がいまも健在であることが分かる。昆虫たちをとりまく自然環境に、変化はないのだろうか。少し気になった。

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