舞いこんだ年賀状
元旦の午前中にドサッと配られる年賀状の束に三日遅れて、可愛いい花模様をちらした見慣れぬ年賀状が舞い込んだ。
「誰だろう、えっ、劉cちゃんからだ」
驚きであった。彼女は中国人で天津に住んでいるはずだったからである。現にお父さんの劉鳳嵩さんからは、「共賀新禧」と書かれた立派な年賀の挨拶状がきていたからである。
住所は福井県鯖江市からで、新年の挨拶のあと、わが家の畑で花を摘んだ思い出など書かれ、現在、日本自治体のプログラムで中国語の先生をしている旨伝え、終わりに一度会いたいと記してあった。
この一枚の年賀状で、私は二十年前の中国人一家との交流の数々を思い出した。次はその当時のひとこまを記したものである。
毎日、台所から出る生ゴミを埋めに通う畑の横の長屋に中国人一家が住むことになった。若い夫婦の間に、かわいい六歳の女の子という家族構成である。お父さんは留学生で日本語は上手だが、来日したばかりの奥さんと子どもは中国語である。
知り合ったその日から、その家の女の子が遊びに来て、レンゲ草やタンポポを摘んだり、摘んだレンゲ草を「ママー」と言って見せに行き、中国語での会話が聞こえてきた。嬉しそうに出てきた女の子の表情から、レンゲの花束が母親を喜ばせたのを知った。
そのうち女の子は、畑の隅に植えてあったチューリップを一本手折ってきて誇らし気に私に見せたので、内心「あら あら」と思ったが、にっこりわらって見せると、また走って母親へ見せにいった。そして再び中国語で何か話し合っていたがシーンとなった。
しばらくして目に涙をためた女の子が、私の所へきて「す、み、ま、せ、ん」と頭を下げた。母親にチューリップを折った事を叱られて「すみません」の言葉を教えこまれて謝りにきたのである。私はなんといっていいのか分からないので、おかっぱ頭を撫でながら、手を二、三回振って首をコクン、コクンとうなずいてみせた。女の子は元通り快活な態度になって遊び出した。
この件で、私は中国の躾のあり方を垣間見たような思いがした。そして現在の日本のお母さん達も、是非学ばねばならぬものの一つではないかと思ったのである。
当時、彼女の遊び場はわが家の畑であったが、教育熱心なお父さんの考えで、地元の城東小学校へ通うことになり、無邪気に遊ぶ姿を見る事は減ったが、学校から帰ると教科書を持ち出して、畑仕事をしている私に読んで聞かせてくれた。たどたとしい読み方から、日毎にしっかりと自信をもっての読み方に、利発な子どもだな、と思ったものである。
そのうち、お友達もでき遊びにいったり、わが家の畑で遊んでいた。日本語を覚えるのも早く、家庭で過ごすお母さんに教えている会話が聞こえてきて、微笑ましかった。
やがて一家が四軒長屋から、大学の官舎へ移り住むようになってからは、交流も以前のようにはいかなかったが、折りにふれ電話や訪ねていったりで、帰りはいつも三人で見送ってくれ、私の姿が曲がり角で見えなくなる迄、立ちつくしてくれた姿に、この一家の人柄や、情の深さを思ったものである。
そのうち、劉先生が母国の天津で教壇にたつ為帰国される旨連絡を受けたので、お別れにあたって、わが家へ招待することになり来て戴いた。その折りご主人は中国ではおめでたい時には、家族全員でギョーザをつくり、祝う習慣があると言われ、材料、道具一式を持参され、奥さんと共に手際よく、わが家の台所、食卓に材料をならべ、ご自身自らギョーザの皮をこね、麺棒で伸ばし慣れた手付きで包んでいく。出番のない娘のcちゃんは、居間のピアノで「ちょうちょ」や「チューリップ」など弾いている。中国一家の生活のひとこまを見るような思いであった。つくられた沢山のギョーザを前に、わが家の家族共七人で楽しい晩餐会をもったのも、忘れられない思い出の一つである。
帰国に際しては、一度必ず中国へ遊びに来てほしい、またcちゃんの大学は日本へ留学させるつもりでいるなど 小さな国際交流の輪をつくって去っていかれた。
舞いこんだ一枚の賀状から、二十年前の劉さん一家とのふれあいが、次から次へ彷彿と思い出されて懐かしい。
その後、cちゃんと連絡がとれ、三月に会う約束ができた。どんな娘さんになっているのだろうか、おもてなしはどんな具合に、かつての遊び場の畑へは、必ず連れていかねば、と、胸をふくらませているこの頃である。 |