奥能登の思い出
先日、近所の方から土産を頂いた。輪島で一泊し、翌日朝市を見てまわり、漆器工房を見学するなどしたとのこと。それを聞いているうちに、奥能登を旅した若い頃の記憶がよみがえってきた。
旅をする気にさせたのは、ある雑誌に載っていた奥能登の灯台の写真である。荒々しい日本海に突き出た岬、そこに毅然と立っている白い灯台、眺めているうちに行ってみたくなった。まだ独身の気楽な身分であったので、誰に気兼ねすることもない。身支度もそこそこに家を飛び出した。八月半ばの夕暮れ時、西の空はまだ明るかった。
金沢駅で七尾線(現在、のと鉄道)に乗り換え、穴水駅で路線バスに乗った。当時は、まだ奥能登には鉄道がなかった。車内から気に入った景色を見つけると、途中下車をした。それを何回か繰り返しながら、終点の狼煙という停留場にたどり着いた。
そこから二十分ほど歩いたところに、目的の緑剛崎灯台があった。岬の突端まで行くと、目の前いっぱいに広がる穏やかな夏の海。この壮大な光景を、どのように表現したらよいのだろうか。悠久の大自然を前にして、人間のなんと小さいことか。カメラなど取り出す気にもなれず、ただ呆然と立ち尽くすのみ。心に描いていたイメージとは違うにしても、やはり来てよかったとつくづく思った。
ふと我に返った。いつまでもここに居るわけにもゆくまい。心残りではあるが、立ち去ることにした。ところが、最終バスの時刻はとっくに過ぎていた。まだ五時前なのに、と腹を立ててもどうにもならない。
致し方ない、ここで一泊しようと思ったのだが、あたりに宿らしいものはなさそうだ。はるか彼方に集落らしいものが見えるから、そこまで行けばなんとかなるだろうと、歩くことにした。ところが、そこは思ったよりも遠かった。一時間近くも歩いたのに、まだかなり先である。
陽は次第に傾いてゆく、聞こえるのは波の音ばかり、まあ急ぐこともあるまいと、道端に腰を下ろした。暫くすると、向こうからトラックがやってくるのが見えた。祈るような気持で手を振ると、有難や、停まってくれたではないか。
事情を話して、どこでも良いから一泊できる所まで乗せてほしいと頼み込んだ。運転していたおじさんは、無愛想に「乗りな」と言って、ドアを開けてくれた。
あたりが薄暗くなってきた頃、一軒の小さな宿へ連れて行ってくれた。お礼をせねばと、なにがしかを包もうとしたが、どうしても受け取ってくれなかった。
食事はほかのお客さんとご一緒に、と言われたので、その部屋に行ってみると、すでに始めていた四人の若者たちが「お晩です」とか、「ようこそ」と歓迎してくれた。
聞いてみると、K大学の学生で、夏休みを利用して、歩いて北陸の旅をしているとのこと。彼らとはすっかり意気投合し、夜遅くまで話がはずんだ。
明くる朝、平家の末裔である上時国家を訪れるため、連れ立って宿を出た。想像していた以上に広大な屋敷、豪華な天井の紋様や見事な襖絵などに、中世以来連綿と続いてきた、名家の歴史を感じさせられたものである。
学生たちとはそこで別かれ、輪島に向った。その途中、無数の小さな田が山の裾野から海岸まで、ずらりと階段状に並んでいるのを目にした。千枚田である。平地がほとんどない奥能登で田を作り、それを何世代も維持管理するのには、どれほど苦労したことであろう。
輪島の街をぶらつき、金沢に着いたのは夕方であった。帰りの列車の時刻までにはだいぶ間があったので、兼六園へ行ったところ、すでに閉まっていた。
あれからもう五十年余り。今から思うと、無計画な行き当たりばったりの旅であった。だが、そこには思いがけない発見があり、出会いがあった。おまけに、ちょっとしたスリルを味わうこともできた。
それからというもの、思い立つとふらりと旅に出たものである。足の向くまま気の向くままに、見知らぬ土地をうろつき回るのは楽しかった。時には面白からぬ目に遭ったこともあるが、今ではそれも懐かしい。
ツアーにも何回か参加したが、すべて旅行業者まかせであるためか、なにか物足りない。名所旧跡などを、要領良く巡ってくれるのは良いのだが、その分印象が薄くなるようだ。
「また一人で旅をしようよ」と、心の内で何かが囁く。行きたい所はいくつもあるが、まずは、緑剛崎のあの場所にもう一度立ってみたいものである。再び目にする光景を、今の私ならどう感じるだろうか。 |