M君に捧ぐ
私の友人であったその人の名を、ここでは仮に「M君」と呼ぶ事にする。
八年前の三月、私は長浜の街を訪れていた。M君が似顔絵を描くアルバイトをしていた小洒落た石畳の一角や、彼が個展を開いた小さな画廊を見て、最後に、M君と長浜で会った時にはいつも立ち寄ったカフェに入った。
「サンドイッチを食べながら、昼間からビールを飲むなんて、まるでニューヨーク風ランチだね」と笑いながら、何時間もお喋りしたあの日々が蘇る。暖かい午後の陽だまりの中で、あの頃の私たちの様に、楽しそうに笑い合う人々の声を聞いていると、急に鼻の奥がツンと痛くなり、涙で回りの風景が滲んだ。
M君はもう居ない。ひと月前に死んでしまったのだ。「早く事実を受け入れなくては」と自分に言い聞かせ、勢いをつけ席を立った。
「君は、同性愛者に対して偏見を持たないタイプの人間だから、彼とはいい友達になれると思うよ」と、アメリカ人の友人に紹介してもらったのがM君だ。M君は当時二十七歳の、ゲイの日本人男性だった。
挨拶を交わしレストランの席に着くと、M君は私の着ているシャツに目をおろし、「うわぁ、すごく奇麗なシャツ!色と柄がとても素敵!」と褒めてくれた。多くの色が入り交じった、サイケデリックな柄の派手なシャツだ。その頃、落ち込み気味だった私は、せめて着る物くらいは元気な色をと、好んでそのシャツを着ていた。けれども他の友人には不評で、褒めてくれたのはM君が初めてだった。
M君との出会いに、私の心は弾んだ。
M君は、ニューヨークの美術大学を卒業した将来有望なアーティストであったけれども私と出会う一年前からガンを患い、入退院を繰り返す生活をしていた。すでに末期ガンであったにもかかわらず、M君は、私の前ではいつも明るかった。
M君と会う時は大部分を自然の中で過ごした。湖北にある彼の家近くの小さな駅で電車を降りると、M君が自転車で待っているのが常だった。いつも微熱があるM君のため、私が彼を後ろに乗せ、ギーギーきしむ自転車をこいだ。彼は「見て、あの銀杏並木!まるでゴッホの絵みたい!」などと言ってわざと体を動かし、よく私を困らせた。私は「もーっ」と怒りつつも、その繊細な感性にいつも感心し、彼をとても愛しく思っていた。
こんな事もあった。びわ湖岸に寝そべり、空と雲の絶妙なパフォーマンスを堪能した私たちは、今度は視線を低くして浜を散歩した。木陰に犬の死体を見つけた。骨と皮だけになった死体には、青い首輪がはまっていた。飼い犬だったにも関わらず、こんな寂しい所で命を終えたその運命はどんなものだったのか。「可哀想に」としか言えずにいる私の横でM君は、傍で咲いていたタンポポの花を一輪摘み、大きく隙間の出来た首輪と体の間に差し込んで手を合わせた。無意識のうちに私も手を合わせていた。M君は少し笑いながら、「運命って残酷だ。でも時に素晴らしいから生きて行けるね」と言った。M君に対して不思議な感情が生まれ出した。ゲイのM君は、私にとって異性であって異性でない。けれどもM君を守ってあげたいという気持ちは確かだった。それは、異性を好きになった時に感じる気持ちとは少し違っていた。
愛には色んな形があって、同性を好きになる事も間違いではないはずだ。同性愛者を差別する権利など、誰にも無い。だが、同性愛者に対する偏見は確かに存在し、M君も、一番身近な父親に「自分はゲイである」と、告白できずに最後まで悩んでいた。
M君が死んだ後、彼の父親に、M君の部屋から何でも好きな物を形見として持って帰ってくれと言われた。私は沢山の日記帳の中から、私とM君が過ごした二年分の日記帳を貰うことにした。そこには私の知らなかったM君の心の葛藤と孤独が記してあった。日本でゲイとして生きる不自由さ。余命一ヶ月と宣告され、平静を装いつつも、父親との食事中にポタポタとテーブルに流れ落ちる涙を止められなかった事。あの犬の死体に、迫り来る自分の運命を重ねていた事など、様々な思いが書かれていた。彼が明るく強く居られたのは日記帳にすべてを記し、死と向き合い、受け入れ、残された時間を大切にしていたからだ。彼の一部分しか見ていなかった私は、彼にとって良い友人だったのか?後悔だけ残った。
M君の死から八年経った今も、M君に褒められたシャツは現役である。レーヨン製で何度洗濯しても色褪せない。M君との思い出同様に鮮やかさを保っている。時が経ち、そのシャツに通す体は、M君の見ていたあの頃の私より、少し太く大きくなったけれども。 |