小説 市民文芸作品入選集
入選

鬼の姫
日夏町 増田 由季

 「こら! 待ちなさい!」
 広大な江戸彦根藩邸の庭に齢十三になったばかりの弥千代様の声が大きく響いていた。
 「姉上、追いつけますか?」
 姫様の二歳年下の弟君が姉をからかいながら私が居る障子が開け放たれた座敷の前を走り過ぎて行った。
 「愛麻呂、弥千代、いい加減にしなさい!もう暫くすれば高松公がお見えになられるというのにお前たちの姿は何だ、泥だらけではないか!」
 姉弟の、本人たちには大切でも大人から見れば大した原因とも思えない追いかけっこは、父君の一喝で急に勢いを落としました。
 「ですが父上、愛麻呂は私を『女子の筈が無い』と申して大切な手鏡を隠してしまったのです」
 愛麻呂様は「まずい」という表情をされて、その場から立ち去ろうとなさいましたが父君がそれを咎めて真実を問われたのでした。
 「しかし、姉上はいつも怒ってばかりで、智麻呂や重麻呂も恐ろしいと口を揃えて言っています。
 これでは、姉上の夫となられる高松のョ聰殿がお可哀相ですので、せめて姉上に自覚していただこうと手鏡をお預かりしたのです」
 すると父君―いえ、もうこの様な廻りくどい言い方でお話するのも失礼に当りますのでお名前を明かさせていただくならば、私たちがお仕えする井伊弥千代様のお父上であられます彦根藩主井伊直弼様は、感情を表に出さずに冷静に問われました。
 「弟たちの名を挙げるのは責任転嫁である。愛麻呂はどう思っているのだ?」
 「恐ろしゅうございます」
 直弼様は、そうかと頷いた後に「しかし、その想いが姉上の物を隠して良い事にはならん、すぐに返すように」と口にして姫様に目を移されたのです。
 「弥千代、先程も申したが、すぐに高松公が来邸される。若殿もご一緒であろうから仕度をしなさい」
 姫様は恥ずかしそうに俯いて小さく「はい」と答えるとご自分のお部屋へと戻られたのでした。

 私たちが弥千代様にお会いしたのは、姫様が高松藩松平家の世子ョ聰様との婚礼が決まり、共に高松藩へ参る事が決まってからでした。私たちをご覧になった姫様が目を輝かせながら話し掛けて下さったお顔を、私はこの先に幾度となく見る姫様の様々な表情の最初に思い出します。それは純粋で真っ白な誰もを魅了する笑顔だったのです。
 私が姫様に惹かれたように、同じ境遇になった仲間たちは姫様のお側に居る幸せを共に感じたのでした。
 そして、この時に姫様の父君と母君にもお会いしたのです。
 直弼様は、五年前の黒船来航に始まった幕府の混乱を彦根藩主として経験され、当時の老中首座であった阿部正弘様に「一旦開国を行って諸外国との交易の後、力を蓄えて攘夷を行う」という『大攘夷論』を提唱されました。この考え方は珍しい意見でしたが阿部様の興味を惹き、直弼様が積極的に幕政に参画する第一歩となったのです。
 阿部様が急死された後も譜代大名筆頭として幕府の重鎮と目されていました。そしてこの時期(安政五年)には海外との条約問題と共に、大きな議題となっていた現将軍の徳川家定様の後継ぎとなる十四代将軍を決める将軍継嗣問題で紀州藩主徳川慶福を推す「南紀派」の急先鋒でもあられ、水戸藩前藩主水戸斉昭〔なりあき〕様のご子息一橋慶喜様を推す「一橋派」との権力争いの渦中の人だったのです。
 この様な時勢では婚姻による家同士の繋がりも大切な政治となった為、井伊家の婚姻はそのまま政略結婚の意味合いを含むはずでした。

 「殿、宜しかったのですか?」
 直弼様は、私たちを座敷に残したまま姫様を下がらせました。そして姫様の生母で側室の静江様が問われたのです。
 直弼様は「宜しとは?」と訊き返されます。
 「高松藩は当家と同じ溜間詰の世襲が許されている三家に数えられるお家柄、既に繋がりが深く婚姻で縁を深める事に意味がありません。その様な所に弥千代を嫁がせてしまえば、他家との縁に不足とならないのでしょうか?」
 すると直弼様は「その事か」と言いたげな表情で申されました。
 「ワシは三十二の齢まで、三百俵の捨扶持と狭い埋木舎で世捨て人のような人生を送るしかないと諦めていた人生だった。
 この時にお主を迎えて二人の子をそれぞれ一日で失い、やっと産まれたのが弥千代だった。
 弥千代が産まれてから、直元兄上の死で世子に選ばれ、そして今に至っている。これを考えるなら弥千代は世捨て人の娘であり、弟妹たちは彦根藩主の子どもになる。
 しかし、弥千代は一番上の子であった為に弟たちの面倒を全て看てくれていた。ならばせめて彦根藩主ではなく、ただの父親として娘が惚れた相手の元に嫁がせてやりたいのだ、一人くらいそんな婚礼をさせてもよいと思わぬか?」
 既に幕閣内外で“赤鬼”と称されている方と同一人物であるとは信じられないような穏やかな目が静江様を安堵させられたのです。
 「弥千代は幸せになりますね」
 「そうでなければ、この赤鬼が高松の若造を金棒で血の池地獄に叩き込む」
 冗談のように鬼の真似をした直弼様に静江様は「あれ、恐ろしい」とにこやかにあしらって居られる時に表より「高松公がお越しです」との声が掛かったのでした。

 世の方々は、三百俵の捨扶持を与えられた世捨て人の娘から譜代大名筆頭井伊家の姫君へと変わり、親藩高松松平家に嫁がれる姫様を羨望の眼差しで見つめていたにちがいありません。しかし、姫様の立場を考えましたら困惑されるばかりだったのではないでしょうか?
 先代の彦根藩主で、直弼様の兄上であられた井伊直亮様は、直弼様を嫌っておられ、世継ぎとして迎えられた後には耳を被いたくなる仕打ちを数多くなされたと伝え聞いております。
 直弼様に対してその様な事をなされたご先代でしたら、娘である姫様を槻御殿に迎えたとも考えられません。ですから幼い姫様は、直弼様が出られて訪ねる客も殆ど居なかった埋木舎で静江様と数えるほどの使用人のみで寂しく過ごされて居たのでしょう。
 直弼様が藩主に就任し槻御殿に迎えられたのもつかの間、九歳で江戸藩邸に常住される時にはいきなり三人の異母弟の姉となってしまわれたのです。そんな席も暖まらないような目まぐるしく変わる環境の変化に追い討ちをかける様に安政の大地震が江戸を襲い、姉として弟たちに不安な顔を見せるわけにもいかず、恐ろしさで震える足を押さえ込みながら気丈に振舞っておられた姫様の幼心に子どもで居られる時間はいかほどあったのでしょうか?
 様々な混乱が一段落しすると、直弼様が特に熱心に茶の湯の指導をされ、十歳にしてお客様を迎える茶会の亭主までを勤め上げねばならなくなったそうです。
 井伊家の姫として、姉として、そして父親の期待を背負った娘として…大きな重圧が姫様に重くのしかかった事でしょう。
 そんな姫様が唯一幼い娘の顔で居られる時間が会津藩や高松藩の方々との交流の時だったのです。この中で姫様に優しい微笑みで話し掛けられたのが松平ョ聰様でした。
 「十二歳年上のョ聰様との出会いは、初めて兄を得た感覚でした」と大人になられた後の姫様が私の前で小さく呟きながら懐古されていた姿を思い出します。ョ聰様の事を心の中で(兄さま)と呼んでいたとも聞かされましたが、いつの間にかョ聰様と姫様の間での当たり前の呼び名となっていたようです。

 高松藩は、御三家の一家である水戸藩が二代藩主を三男の光圀様に継がせる為に、光圀様の長兄の松平頼重様が十二万石で入封して成立した藩でした。
 兄を押しのけて水戸藩主になった光圀様はその事をいつまでも悔いて、子どもの交換をして水戸藩と高松藩の血縁関係を持続させる方法を採ったのです。こうした制度がいつの間にか不思議な感情を生み出し、世間では「高松藩が水戸藩を監視する役を負っている」と目されるようになっていったのでした。
 ョ聰様は父の頼恕様が水戸藩からの養子だった縁もあり、またョ聰様ご自身も、烈公と称される水戸斉昭様の甥として水戸藩邸で育った時期もおありだったそうです。
 反面、彦根藩は先代の頃に、利根川での船争いで水戸藩との確執が生まれ、また政治に参加できない御三家と、幕政を握る譜代大名筆頭という家格の立場からも彦根と水戸の間での根の深い対立が続いていたのでした。
 政治という一面で捕らえるならば、婚姻によって高松藩を門閥に巻き込んだ彦根藩が、水戸藩をも押さえ込もうとした戦略の鍵が姫様だったと見られても仕方がなかったのです。

 今から数年前、ョ聰様にとっての姫様は、訪問先の姫君という以外は特に特別な想いを持つ事もない存在から始まっていたそうです。
 直弼様に「娘でござる」と紹介された時は、姫様もまだ幼く、見知らぬ大人に次々と会わなければならない緊張と不安から目を伏せて言葉数も少なかったので「大人しい子だ」というくらいの印象しか残らなかったのでしょう。
 高松藩の方々は直弼様が心を許して付き合える数少ない大名家の一つでしたので、行き来も多く、姫様がお茶を点ててお迎えする場合もあったのです。
 宗観流を起こした直弼様が自ら教育した姫様の茶の湯は、一期一会を大切にする流派に相応しいくらいに思いやりが込められていて、主人としてお客様に失礼が無いように堂々と振舞われたのです。そこには普段見るような大人しいだけの女の子ではない一本の芯が通った姿が映し出されていたのでしょう。客として姫様の作法に感動したョ聰様はここで姫様を注目するようになりましたが、まだまだ恋に発展するまでには行かず、可愛い妹が出来たような感覚であったのでしょう。
 そんな想いが姫様にも伝わり、姫様もョ聰様を「兄さま」と慕うようになって、お二人はご一緒に居られる事が多くなっていかれたようです。
 茶会という大きな形を催さなければ、ョ聰様が来邸の折には姫様が茶席に招かれる習慣ができていたそうです。ョ聰様は最高の客人であり、厳しい指導者にもなっていかれたのだとか。
 ある茶席が終わった後、いつもの様にョ聰様を見送った姫様が茶室に戻って、一人でお茶を点てていると、戻られた筈のョ聰様が入って来られたそうです。
 「兄さま、どうなされたのですか?」
 この頃には憧れが恋に変わっていた姫様にとって、愛しい方との再会に喜びよりも驚きが勝ってしまいました。
 「姫は茶席の後はいつも茶室に籠もってしまわれるので、何をなさっておられるのか気になったのです」
 秘密を垣間見るような悪戯っ子の顔がそこにはありました。
 「父の流儀では、お客様をお送りした後に静かにお茶を点てながら、お客様を思い、この度の一会を振り返って、自らとの対話を大切にしています。今はその時でした」
 宗観流に表される一期一会の精神を姫様なりの言葉で伝えられたのです。
 「では、姫はこのョ聰を想いながら、茶を点てておられたのですね?」
 男の方というのは、気の許した女子に対してどこまでも子どもになれるようです。姫様の恋心を知ってか知らずか、反応を楽しむかのように軽い言葉を発せられたョ聰様でしたが、姫様が頬を染めて俯きながら「はい、兄さまの全てを想いながら、別れを惜しんでおりました」との答えに姫様の想いが伝わったそうです。
 この瞬間にお二人はお互いの気持ちを確かめ合ったのです。

 姫様からこんな話も聞いた事があります。
 直弼様の彦根帰国のお供をして彦根に戻っていた姫様に、参勤交代の途中だったョ聰様が少し大回りをして会いに来られました。
 連絡の遅れからか、直弼様は領内の視察に出掛けられていて彦根城の案内を姫様自身がされる事となったのです。
 幼い時とはいえ、生まれ育った場所だけに姫様が精一杯頑張られた姿を見なくても想像するだけで微笑ましく思えます。
 ましてや、自分の為のそんな姿を目の当たりにされたョ聰様ならそれ以上だったはずです。
 彦根山の山頂に建つ三層の天守は、お二人だけで登られたのだとか。最上階までの急な階段で姫様が怖がらないように優しく手を差し出したョ聰様を思い出しながら「これでは、どちらが案内役か分かりませんね」と話を聞いている私たちに微笑んでくださいました。
 天守の最上階に立ったお二人が目にしたのは、三方に広がる近江平野と彦根藩領。西には日の光を反射させて輝く琵琶湖のさざ波とその奥に聳える比良山系の山々でした。
 「これをお見せしたかったのです」
 どんなご馳走も恥じ入って隠れてしまいそうな自然の芸術は、時間の流れを忘れさせるモノだったそうです。
 「こんなに美しい案内を受けたのは初めてだ。
 実は、高松城も目前に瀬戸内海が横たわり、その奥には中国平野が広がっています。今度はこのョ聰が姫を高松にご招待致しましょう。いや、気が早いかもしれぬが二人に子が産まれ跡を譲ったら高松の景色を眺めながら余生を過ごしましょう」
 「それは…」
 照れた様に琵琶湖に目を移したョ聰様は「井伊公に姫を正室に迎えたいと願いますが、宜しいですか?」と訊ねたのです。
 姫様は小さく「はい」と頷かれました。
 「これからどんなに素晴らしく魅了されるような景色に出会おうとも、姫と共に見た琵琶湖をいつまでも忘れはしないだろう。
 でも、姫が一緒なら、また新たな感動を味わえるでしょうね」
 姫様から話を聞いているだけで恥ずかしくなる様な二人だけの秘密がそこにあったのです。
 この日の夜に、視察から戻った直弼様とョ聰様のお話がどんなものであったかは姫様にも分からないそうですが、話はとんとん拍子に決まって将軍様の認可もすぐに降りたのでした。

 安政五年(一八五八年)四月二十一日。
 初々しさの残る姫様を乗せた駕籠〔かご〕が彦根藩邸を出発し、ョ聰様がお待ちになって居られる高松藩邸まで向かいました。大名同士の縁組では婚礼当日になって初めてお互いの顔を知るのが普通ですので、姫様の様にお互いの顔を知っているどころか恋しい相手へ嫁げる幸せは井伊家歴代だけではなく他家でも耳にした例はありませんでした。
 高松藩でもこの話が知れ渡っていましたので、姫様や私たちは心からの歓迎を受けて迎えられたのです。
 婚礼の翌々日の二十三日に、ョ聰様と姫様が揃って直弼様を訪ねて婚礼の報告を行われますので、二十二日はお二人の迎え入れ準備の為に彦根藩邸は大騒ぎになっていたのです。
 しかし、二十二日夜半になって彦根藩から「お二人の訪問を遠慮させていただきたい」との報せが参りました。
 二十二日深夜、寝静まった彦根藩邸に将軍家からの使者が、翌朝の直弼様登城を指示されたのです。
 翌二十三日早々に将軍家定様と面会された直弼様に、大老の任が下されました。
 先頃、老中堀田正睦様が、朝廷へ日米修好通商条約の勅許得に失敗されたばかりで、将軍継嗣問題でも南紀派に属している直弼様が幕閣の最高責任者に就任されるという事は、将軍様が条約の無勅許締結と十四代将軍を紀州慶福様に決定された意思表示でもあったのです。直弼様はこの意向に従って自らの考える道を真っ直ぐに進んで行かれました。それは、直弼様大老就任まで優勢だと思われていた一橋派の方々の不満を一気に爆発させ、反井伊派の目標として"尊王攘夷"が掲げられる要因ともなったのです。
 力には力で抑えるしかない。と思われた直弼様は、一橋派を中心とした反対勢力の一掃の為に安政の大獄を強行されます。
 これらの目まぐるしい動きの中にョ聰様が直接関わる事はありませんでしたが、義父である直弼様の考えや行動を身内としてだけではなく一人の男子としても学ばれていかれたそうです。
 時には厳しく残酷とも言えるやり方を目の当たりにして身も心も疲れきった日に、藩邸で姫様と共に過ごされる時間が一番の癒しにもなって居られました。
 安政の大獄で水戸藩の方々が多く処罰を受けた時には、高松藩主で姫様にとって義父となる松平ョ胤様にまで「水戸藩に対する監督が出来て居ない」とのお叱りがあり、娘の嫁ぎ先に対しても罰を下す直弼様に世上の評価は上がったものの、高松藩では謂れのないお叱りに藩としての面目を失い、姫様を迎えたことに対する疑問の声すら出たのですが、ョ聰様が姫様の矢面に立ってどんな時も姫様を守って下さったのでした。
 政治では様々な困難にぶつかっても、若い夫婦には無限に広がる未来への幸せが待っている。私は後に起こる悲劇を予想だにしなかったのです。

 安政七年三月三日
 上巳の節句には珍しく前日から降り始めた雪が江戸を白く被っていました。この日は節句の祝賀のために江戸在府の大名には総登城が義務つけられていますので、姫様も早朝から慌しく出発したョ聰様の行列を見送って休息のために御部屋に戻って来られました。
 本日は女子の節句ですので、美しく飾った私たちは姫様をお迎えし、その側で誇らしげに控えていました。すると激しい足音が近づき私たちの部屋に飛び込んできたのです。
 「若奥様、一大事にござります!」
 年若い藩士が息を切らせながら言葉を続けました。
 「先程、若殿の駕籠に浪人が押し寄せたとの報せにござります!」
 雪の中で寒い部屋の中がますます冷えていく様子がありありとわかりました。
 「若殿は、ョ聰様はご無事なのですか?」
 擦れるような、やっと音になったとしか思えない声で姫様が訊ねると、「詳細不明」とのみ答えがあったのです。
 言葉を失うとはこの事かも知れません、最愛の夫であり兄でもあり続けたョ聰様がもしかしたら亡くなられているかも知れない。そう思いたくはなくとも恐ろしい考えが姫様や私たちの脳裏に浮かんでは否定し、また再び浮かんでは強く消そうとしてますます不安が高まっていったのです。
 実際には然程の時間はかかっていなかったでしょうが、待つ身には千秋の刻となった静寂の後に、新たな報せが飛び込んで来ました。
 「若殿ご無事!」
 新たに駆け込んだ藩士の大声で姫様の腰の力がストンと落ちてしまったのです。
 「浪人どもは若殿の駕籠の戸を引きちぎり顔を確認した後に立ち去った模様にございます」
 「ョ聰様がご無事であればそれで良い、兄さまは恐ろしい目に遭われたのですね」
 涙ぐむ姫様の姿は愛しい人を想うどこにでも居る一人の女性でした。ただ、ョ聰様にとってこの屈辱に満ちた瞬間は生涯忘れられないものになった事でしょう。三つ葉葵の家紋を無視して駕籠を襲った暴徒はョ聰様の姿を見ると「何じゃ、萬之助か」と二十七歳の一国の世子に対し、その幼名をさも詰まらなさそうに漏らして去って行ったのです。高松藩の武士の面目は丸潰れでした。
 そして、この直後に本当の意味で夫婦を引き裂く事件が伝えられたのです。
 "桜田門外の変"
 幕府の最高権力者が江戸城門前で浪人によって暗殺されるという徳川幕府開幕以来の大事件によって父君を無残に殺されたのです。またョ聰様の駕籠に狼藉を働いた浪人たちは、井伊家の行列を襲った者どもがすぐ後ろに並んでいた高松藩の行列に血刀を持ったまま押し寄せたためだったのです。
 幕府はこの事件で彦根藩を取り潰せば大きな問題になる事を恐れ、そして名家井伊家の家名も惜しんで、老中の安藤信正様が「直弼様は襲撃されて傷を負われ養生中」との報告を幕閣内で承認し、彦根藩家老の岡本半介殿に指揮を任せて愛麻呂様を急いで元服させ"直憲"と名乗らせた後に直弼様の死と直憲様の跡目相続を彦根藩から届けさせたのです。そして高松藩でも直弼様と親しかったョ胤様がご隠居されて、ョ聰様に藩主の座を譲られ姫様は藩主の正室という責任ある地位になられたのです。
 彦根藩はお取潰しを回避した為に表面的には安泰の時期を迎えましたが藩内では様々な思惑が渦巻き始めたのでした。特にこの事件で一気に表舞台に浮上した岡本半介殿は勤皇の志が高い方でした。この事が災いし直弼様より藩政から遠ざけられておられましたので、直弼様の側近の方々とは反目される事が目に見えていたのです。
 それでも幕閣の中心が、直弼様子飼いの老中で固められている間は彦根藩でも、表立った事件は起きませんでした。
 しかし文久二年(一八六二年)一月十五日に直弼様の意思を受け継いで公武合体などの政策を成功させ老中首座として幕政を握っていた安藤信正様が坂下門外で襲われ負傷され老中を罷免されます。この際に「井伊大老の横死を隠し、幕閣に虚偽の届け出をした」という項目も罷免の原因として挙げられました。
 これを受けて、井伊派の方々が幕閣から去っていかれ、彦根藩は改めて桜田門外の変の責任を問われ十万石の減封となりました。同時に藩内で大改革が行われたのです。
 八月二十七日。直憲様の藩主就任以来家老として藩政を支えてきた岡本半介殿は、長野主膳殿を捕らえて僅か三日で首を斬られたのです。十月二十七日には直弼様のもう一人の側近だった宇津木六之丞殿も斬首となりました。お二人とも武士としての切腹も許されない斬首という厳しいモノだったのです。直弼様の功績は彦根藩ですら否定してまったのです。

 一方高松藩邸では、家老の松崎渋右衛門がョ聰様に詰め寄りました。
「奥様のご実家はこの度の事件で大いに揺れております。世上では勤皇の声が響き始め勤皇の志士たちを処刑しまた暗殺された井伊大老の悪名ばかりが広がる一方。
 このまま井伊大老の娘を正室とされていては、我が藩にも被害が及ぶかもしれません」
 高松藩内ではこう思わなかった者が少なくないのも確かですが、誰もが羨む仲の良い藩主夫婦だけに「二人を引き裂くくらいならば、例えこの身を犠牲にしてでも守ってみせる」と純真な正義感に燃える藩士が若い世代を中心に広がっていました。渋右衛門の言葉はこんな方々の怒りすらも買うものだったのです。
 「藩の安泰の為には、奥様との離縁を!」
 「松崎の申し状は最もだが、義父上(直弼)の行われた事は間違っては居なかったと思う。そして妻に咎もないままに離縁するなど畜生にも劣る振舞いではないか。
 松崎は予に世間の笑い者となり、領民たちに後ろ指を指されながら生きろと申すのか?」
 渋右衛門は水戸藩から派遣された家臣であり、ご隠居様(ョ胤)の信頼を背負っていた自負があったので、ョ聰様が自分の言に反する筈がないと思っていたのかもしれません。ですから、ョ聰様の返答に虚を付かれる形となったのです。
 「困ったお人です、藩主など家臣の胸先三寸でいくらでも替えがあるのですぞ萬之助殿」
 家臣による藩主押し込めは、窮余の策として幕府からも認められていましたが、ここで口にするべきではありませんでした。それ以上に渋右衛門が口にした「萬之助」にョ聰様だけではなくその場に居合わせた全ての方々の表情を凍りつかせたのです。

 桜田門外の変で直弼様のすぐ後ろに居合わせながら何も知らずに救援に行けなかった高松藩士たちの不手際。
 世子の駕籠を引きちぎられる失態。
 そして、暴徒が言い放った「何じゃ、萬之助か」の言葉。
 直弼横死後に、彦根藩が代々受け持っていた京都守護職の職務が、同じ様に溜間で直弼の教育を受けながら、京に近い高松藩ではなく会津藩の松平容保に引き継がれたのはなぜか?
 高松藩には桜田門外での失態が静かにしかし確実に広がっていたのではないか?

 ョ聰様や高松藩士の方々にとって「萬之助」はそんな屈辱を思い出させる物でした。
 こんな空気を渋右衛門が感じない筈がありません。「しまった」と思いながらも詫びを入れたりすれば自らの意見すら引き下げるしかなくなります。もう押し切るしかなかったのです。
 「如何ですかな? 萬之助」
 怒りで刀を抜こうとする藩士が一人や二人ではなく、ョ聰様の返答次第ではお家騒動にまで発展しかねない緊張感が張り詰めました。
 「わかりました、松崎殿の仰る通りに致します」
 思いがけない突然の、しかし小さな震えるような声が部屋の中にゆっくりと広がりました。
 「奥様!」
 覚悟を決めて刀に手を添えていた藩士たちが急な発言者の存在を報せたのです。それと同時に「なりません」という強い声も方々から沸きあがりました。
 「私の実家がご迷惑をお掛けしているのは、間違いのない真実です。今ここまでして私や殿の事を思って下さる一同にどうして報えましょう。
 私の離縁でそれができるなら、喜んでお受けいたします」
 ョ聰様が何か口を開こうとなさるのを、ゆっくり左右に首を振って止めた姫様に、「ようご決心なさいました!」と叫び頭を擦り付けたのは渋右衛門でした。
 「なれば、早速に」と席を立ち、彦根藩に離縁の報せを走らせ、両藩で確定事項となったのでした。

 いつまでも来て欲しくはない時間ほど早くやってくるものです。
 姫様とョ聰様のお別れの瞬間はすぐにやって参りました。姫様が十三の時から五年の歳月を過ごした高松藩邸の大広間には、江戸詰の高松藩重臣が居並び、上座にはョ聰様とご隠居様が三つ指をつく姫様の姿を黙って見ておられました。
 「不束な奥であり、また実家の騒ぎでご迷惑をお掛け致し深くお詫び申し上げます。
 ご隠居様、殿様共々いつまでもご壮健に過ごされます事をお祈りいたしております。短い時間ではございましたがお世話になりました事お礼申し上げます」
 二度と上がらないのではないかと周囲が心配になる程に深く長い刻をかけて頭を下げた姫様が再び視線を上げたその表情には、もう高松藩の奥方としての顔はありませんでした。
 ョ聰様は「行くな」と何度も口から出そうとしていたのでしょう、その表情は深い苦悩が誰の目にも分る位に刻まれていたのです。
 しかし、この言葉を発してしまえばその後に待っているものも理解できました。
 ョ聰様の言葉を受けた姫様は、私たち彦根に関わる全てを送り届けた後に高松藩邸に残り、翌日にはその胸に短刀を迎え入れて自らの命を絶たれる他には道がなくなってしまうのです。
 姫様を想うが故に離れなければならない矛盾の中でその場に居る誰もが言葉一つなくしてしまったようでした。それでも姫様は涙一つ見せず、恨み言の一言も口に出さずに武家の作法に従って凛と最後まで井伊家の姫の立場に恥じない姿を見せたのです。
 もし、この時に姫様が例え一粒の涙でも流していたのでしたら、これから高松藩の運命も多少変わっていたのかもしれません。涙や恨み言が高松藩士の同情を誘い、同情する自らを許す事も、心を軽くする事もできたのでしょう。しかし姫様の姿には憐れみとは無縁であり、その為に高松藩士たちは仲睦まじい藩主夫婦を引き裂いた自分たちに悪意を感じ、その原因を作った水戸藩と松崎渋右衛門に責任を転嫁しなければ、いつまでも自分で自分の心を責め続ける事になるのです。
 小さく燻り始めた火種を誰もが気付かないままに姫様と私たちは彦根藩邸へと戻っていったのです。
 時に文久三年四月九日、新緑が芽吹きすくすくと伸びる成長の候を、慈しみあう一組の夫婦は木々の成長を共に楽しむ事もできなくなったのです。

 離婚後に江戸の藩邸から彦根に戻った姫様は、幾日もお部屋に籠もったままで皆も心配いたしました。
 ところが、急にお部屋から出て参られた姫様の姿に今度は驚きの声を上げたのです。
 髪を切り、男装をした姫様は、馬屋に繋がれている直憲様の馬を一頭引き出させて、表御殿裏から黒門を結ぶ馬場で馬に跨って走らせたのです。が、直弼様から茶道の手ほどきを受けていても馬術を学ぶ事が無かった姫様が簡単に乗りこなせるモノでもありません。
 姫様は何度も馬から落ち、その度に立ち上がって跨り、再び振り落とされそれでも跨っていく。
 そんな様子を見て周囲が何度も止めようとしますが、小柄で温厚な方が出すとは思えないくらいの強い力で突き飛ばして、また馬の背に跨っていったのです。
 抜けるように白い肌に無残な擦り傷が遠慮もなく増えて、そこから赤い血が染み出し、残酷なようで目が離せなくなる引力を持った場面が展開されていきました。
 見惚れている私の前で大きな音と共にまた姫様が馬から落ちで苦痛に顔を歪め、そしてついに気を失われたのです。
 その翌日も翌々日も、気を失うまで馬に挑む姫様を止められる者は誰も居ませんでした。
 ただ、姫様の増やす傷が見ている者全てが負う見えない傷となり、皆、姫様の目に触れない所では大粒の涙を流さない時がなかったのです。ある者は水戸を恨み、ある者は高松公の不甲斐なさを憎んでいました。ですから姫様に新しい縁組を望む声が日に日に大きくなって行くのは当然だったのかもしれません。
 腐っても鯛とは上手く例えたモノです。直弼様の横死で武士の名誉を失墜させたとは言え彦根藩の姫ならば、高松藩ほどの名家で無いにしても縁談の話に困る事は無かったのです。
 当初は弟君の直憲様も、姫様がすぐに良い相手を選ぶだろうと高をくくって家臣を通じて縁談を持ち込んだのですが、姫様が一度も首を縦に振られなかったので、ついには自ら姫様の下を訪れる様になっていったのです。私たちは、直憲様がお越しになられると「ご縁談の話」と噂するようになりましたが、どのお話にも姫様が耳を傾けず、とうとう直憲様を追い出す為に薙刀〔なぎなた〕の稽古を始められるまでになったのでした。

 姫様の毎日とは無縁と言わんばかりに日本は大きく変わってゆき、ついには明治維新を迎えて江戸幕府が無くなってしまいました。岡本半介殿を通じて早くから勤皇の意思を掲げた彦根藩は、明治新政府に重用される存在となり、幕府崩壊後も従来通りの藩の運営を任されていたのでした。
 明治二年(一八六九年)。高松藩でついに大きな事件が起きたと姫様の許に報せが届きました。
 鳥羽伏見の戦いに敗れるまで幕府に従っていた高松藩が、新政府に許される為に「徳川慶喜追討に参軍する」という条件が課せられました。
 これは、他藩でも大差はなくそれ程に大変な条件では無かったのですが、高松藩がこの程度の処分で済まされた理由は松崎渋右衛門の存在が大きかったのです。
 早くから勤皇の意を明らかにし、藩主ョ聰の正室だった井伊直弼の娘を藩から追い出した功績は高く評価され、水戸藩から冑と紅白の縮緬を恩賞として受け取っていたくらいでした。この後に高松藩内の騒動から四年間の投獄生活を送りましたが、新政府によって出獄が許され、高松藩執政職兼会計農政長の地位についていたのでした。
 (これからの高松藩は己の差配で決まる)
 自らに与えられた立場の高さから渋右衛門はそんな野望を持っていたようです。
 (聞けば新政府では先ごろの版籍奉還に続き、数年後には廃藩置県によって藩主が引き継いだ県知事を追い出して政府から新たな知事を派遣すると聞いた。
 我が藩でこの松崎以上に政府から信頼を得る者は無いのならば、高松県知事は他に候補が居ないだろう。彦根の者を追い出して以来、ョ聰やら藩士やらは口に出さずに責めておったが、あのままなら藩の存続すらあやうかったのだ。
 まさかあの後で彦根藩が勤皇の意を示して鳥羽伏見では勤皇派の彦根藩と佐幕派の高松藩で戦う形になろうとは夢にも思わなんだ、これでは恨みを買った分だけ割を食った気分だ。
 だが、まぁいい廃藩置県さえ行われればョ聰の地位も関係ないのだ)
 そんな声が今にも聞こえてきそうです。
 九月八日、高松城内に新政府の命で設置された軍務局で政務を行っていた渋右衛門が、いつものように夕刻に軍務局を出て桜の馬場にさしかかると、その周囲を十四名の武士が囲んだのです。
 「松崎、お前は五年前に殿と奥方様のお若く仲睦まじい夫婦を、まるで生木を裂くように離縁させ、己は水戸藩より褒美を受けて私服を肥やした。その罪許すまじ!」
 一人が渋右衛門めがけて斬り掛かったのを合図に十四本の刀が渋右衛門の身を何度も切り裂いたそうです。
 文久三年の姫様の姿を目にして以来ずっと自分たちを責めてそして晴れる暇を知らなかった高松藩士たちの心は、大きな暴力を生み出してしまったのです。これが姫様を不幸のどん底に叩き落した桜田門外の変で十八名の暴徒が行った行為と何ら変わりが無いのですが、無残な物と化した渋右衛門を目の前に「これでゆっくり眠れる」と呟いた者も居たのかも知れません。
"君のため 国のためには惜しからじ あだに散りなん命なりせば"
 事件の後に発見された渋右衛門の辞世にはいつその命を失っても構わないという覚悟が記されていました。
 一方で栄華を望みながらも、他方では武士としての潔さを持ち続けた人物だったのです。
 この報せを受けた姫様のお気持ちは、その表情に表れずとも想像に難くありません。
 (父を失った凶刃が、私の為にまた繰り返された。父や長野・宇津木そして松崎も何故殺されなければならなかったのでしょう?
 こんな想いをするくらいなら、貧しくとも埋木舎で静かに暮らしたかった。愛する人と共に肩を寄せ合って平凡に生涯を終えたかった。兄さま…)
 高松の事件は、然とョ聰様のお顔を様に思い出させます。それは一度や二度では済まされませんでした。
 松崎渋右衛門暗殺事件は、勤皇派の渋右衛門を佐幕派の藩士が殺害する形だった為に、新政府に反発したと誤解を受ける危険を感じたョ聰様は「乱心のうえ自害」との届けを新政府に提出してしまったのです。
 この嘘はすぐに発覚し、弾正台によって取調べが行われました。そして殺害に直接関わった十四名の内の八名が獄死、三名が斬首、ョ聰様は閉門四十日、他にも九十名近くの関係者が罰せられたのでした。
 明治四年の廃藩置県で、高松藩が高松県になりながらもすぐに香川県となった背景には、こういった出来事が影響を受けているのです。同じ様に新政府の高官たちが作り上げた井伊直弼様の悪名によって、彦根藩も彦根県になりながらもすぐ長浜県に改名となったのです。

 「姉上、お話があるのですが…」
 薙刀を振り下ろした姫様に声を掛けたのは直憲様でした。
 「お断りします」と姫様が強く叫ぶと直憲様は「まだ、何も言っていません」と弱い声で不平を漏らされたのです。
 「直憲君が誰にも介さず話をする時は再婚話に違いありません。
 この通り髪も切り、出戻りで年増となった女に再婚話など迷惑なだけ、お断りするように!」
 「しかし…」と口篭る直憲様の後ろから、その肩にそっと手を当てて横に動かした男性が優しく「それは困りましたね」と呟きました。
 「僕の妻はあなたしか居ない。と心に決めていたのに」
 この男性の声に姫様はハッとなってその顔をご覧になり手にしていた薙刀が地に落ちたのです。
 「兄さま…」
 「四十路を前にして『兄さま』でもないと思うが…」
 男性は恥ずかしそうに頭を掻きながら姫様に手を差し伸べられました。
 「九年ぶりだ」
 「兄さま…ョ聰さま…」
 信じられない。言葉に出なくてもそんな表情が読めてしまうくらいに驚きと戸惑いの中に姫様は放り込まれたのでしょう。
 「九年前のあの時、これから兄さまが居られなくても『この身体の一部は兄さまとの思い出で出来上がっているから、兄さまはいつも側に居てくれる大丈夫!』と自分自身を納得させようとしました。
 でも、締め付けられる胸の苦しみは、眠る事を許さず、眠ると優しい笑顔が目の前に映し出されて、喜びのあまりに起き上がると静かな空間が残酷な現実に引き戻したのです。ですから眠る為に気を失うまで馬に乗り薙刀を振りました。
 いつしか眠れるようにはなりましたが、今度は兄さまの笑顔を夢でも見る事すら叶わなくなっていたのです。
 今は目の前にあなたが居る。これは私が望んでいた本当の気持ち、『姫』と私を見つめて下さる優しい眼差し、少し老けたお顔が夢でも幻でもないと教えてくれます」
 涙で視界が閉ざされていく姫様は、戸惑いの表情と笑顔が混ざり自らの感情が抑えられなくなっていたようです。そんな姫様を両手の中に抱き締めたョ聰様…
 「僕のところにもう一度来て欲しかったんだが、嫌われたかな?」
 「意地悪、返事は分かっていらっしゃるでしょ?」
 高松藩邸を出た時から姫様が無理矢理押し込めていた想いが一気に噴出し、ふわっと包まれた温もりの中で大声を出していつまでも止まらないのではないか? と私たちが心配になるくらいに泣き続けられたのです。
 「"僕"なんて変な言葉ですね」
 落ち着いた姫様の第一声に「昨今の流行だそうだ、姫に笑われないように使ってみたのだが変だったな」と返されたョ聰様。お二人の間に深く掘られた離別の年月は、もうどこにも見つける事が出来ませんでした。
 「今度こそ、高松城から瀬戸内海を眺めよう」
 姫様は頬を赤らめながら「はい」と小さくしかしはっきりした言葉で返事を返されたのです。
 「姉上」と直憲様が私を姫様に手渡されました。
 姫様はぷっと吹き出して私を手に取たれたのです。
 「幼い時は、『ョ聰殿がお可哀相だ』と言って私から手鏡を取った直憲君が、こんなに小さな手鏡を渡して下さるのですか?」
 「あれは、幼い頃の…
 そして姉上は九年前にお戻りになってから鏡を覗かれる事がありませんでしたので、とっさに持ち帰られた婚礼調度の雛型の鏡しか思いつきませんでした。今は顔全体を映し出さない方が良いのではないですか?」
 落とさない様にそっと私に両手を添えた姫様の右目を映すと、また涙が一筋頬へと流れ出す瞬間を捕らえていたのです。
 明治五年七月十日、姫様が復縁し名を"千代"と改められた。との記録が残っています。
 姫様がお名前から"弥"の字を抜かれた理由を知る手掛かりはありませんが、もしかしたら"弥"に含まれる「物事がたくさん重なる」という意味から「もう不幸な事が重ならない様に」との願いが籠もっていたのでしたら、今度こそョ聰様との末永い生活を誰よりも望んだ姫様の決意が伝わってきます。
 復縁にあたって、私たちが再び姫様と一緒に参る事はなく、井伊家に残されたのです。

 姫様が再びョ聰様の元に嫁がれてから、幾年月が流れたでしょうか?彦根に残された私たちにも姫様は時々お顔を見せて下さり、その度にお倖せな様子を話して下さいました。
 初めてお会いした時に比べればお顔に皺も増えていったものの、その笑顔は段々柔らかく優しくなっていったのです。
 やがては姫様にお目に掛かる日もなくなり、風の便りで亡くなられたと知ったのでした。
 この後、姫様夫婦を引き裂いた時代にも勝る激動の時代が世の中を被いますが、私たちはまた時代に取り残されてしまい、「変わり行く時代の中で忘れ去られてしまいそうな姫様のお話を私たちが伝え残す」と決意しました。
 昭和四十一年八月十五日、彦根市と高松市は弥千代様とョ聰様の縁を故事として姉妹城都市として三度目の結びを経験する事になったのです。

 そして、私たちは…
 毎年春になると彦根城博物館で『雛と雛道具』が展示されます。そこには井伊直弼が最愛の娘であった弥千代の婚礼のために揃えた調度品の雛形である雛道具を八十点以上観る事ができるのです。高松藩に嫁いだ弥千代様の雛道具が彦根に保管されている不思議さ。
 私たちは、その存在を皆様に観ていただく事が姫様の物語を伝えている役になっているのです。
 平成二十年には弥千代様がョ聰様に嫁いで百五十年を迎えたのでした。

 


( 評 )
 『鬼の姫』の「鬼」とは彦根藩祖である直政と同様に「井伊の赤鬼」と言われた直弼のことであるが、史実にもたれすぎた感がある。タイトルを「鬼」の「姫」とするなら、直弼の鬼ぶりについて独自の掘り下げが欲しいところだ。離縁以降の弥千代姫がよく描けているだけに、直弼と姫との親子関係に絞るか、あるいは夫となった松平頼聡との夫婦模様に焦点を定めてもよかったと思う。

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