家族の力
私は、どちらかというと寝つきは良い方で、寝つけないからと、「羊の数」を数えたことがない。若い頃からテレビを見ながら眠るのが習慣だった。生活リズムが夜型の妻は、ときにテレビをつけたまま寝入ってしまう私に、翌朝、時折り小言を言うので喧嘩になる。
それは、今から二十四年前、四十一歳の八月の夜のことだった。その日はとくに早く、午後八時には、蒲団に入ってテレビを見ていた。さて寝ようかな、と思ったその時、突然テレビ画面がぼやけて、まぶたの裏に強い圧迫感を感じた。煙が沁みたかのように、両眼を開けていられない。
「これは、一体なんだっ。なんなんだっ。」
そのうち、全身に動悸が起きて、大きく激しく揺さぶられた。冷や汗が、首筋から背中から、わきの下から噴き出してくる。こんなことは、これまで経験したことがない。私の身体のどこかで変調を来たしている。と、思う間もなく左胸に、まるで風船の空気が漏れてしぼむような、痛烈な痛みが走った。不安とあせりがいっそう恐怖心を掻き立てた。確かな意識の中で、「もしかして・・」と「いやっ、まさか・・」がめまぐるしく交錯していた。
隣の部屋では、妻が十三歳の長女、十歳の長男とふざけていた。妻を呼ぼうにも、喉の渇きで声が届かない。この先どうなるのか、不安と恐怖で身体中の力が、少しずつなえていく。手探りで、やっと掴んだ枕元の目覚し時計を、入り口めがけて投げつけた。妻が物音に気づいて、
「お父さぁーん、呼んだぁー」と顔を覗かせた。
「・・あかん。なんか、おかしい・・。ひょっとして・・このまま・死ぬかも・・」やっとの想いで伝えて、握手を求めた。妻はその手を強く握り返して、すぐに部屋の灯りをつけたが、蛍光灯の光が眩しい。
「何いうてんの、人が、そんな簡単に死ぬかいな。落ち着いてな、救急車を呼ぶよ」
私の脈をとる指先がこきざみに震えている。十数分前と目の前の私が、余りに違いすぎて、心の動揺を隠せないでいる。妻もきっと「もしかしたら・・」と「いや、まさか・・・」の心の葛藤があったに違いない。
「いやっ・・、救急車は待って・・声が出にくいから・・、この手の平を裏返したら、呼んで・・」
はっきりしていた私の意識が、かえって救急車の手配をためらわせた。
「我慢する、そんなアホな、何言うてるん。」
「わかってる。・・それより、早よう二人をここに・・」
いま、どんなことをしても、二人の子どもに、伝えておかなければならない、幾つかの言葉がある。たとい一言でもと、私が何かを口走ろうとするのを、冷静に遮った。
妻に促されて、私の傍にきた子ども達は、目の前で一体何が起きているのか、何をどうすればいいのか、現実を直視できないでいた。
「お父さん、どうしたん!」
「お父さん、大丈夫か」
「・・・あのなぁー・・」
「何も言うわんで、ええよ。」
「・・うん、わかった・・ごめん・・ごめんなぁ・・」
「わかってる。無理せんと、身体を休めてな」
私は、何かを必死に伝えようとするが、咄嗟〔とっさ〕に言葉が出てこない。その後、三人が私に一生懸命呼びかける声は、途絶えたことはなかった。いま、この三人と別れる訳にはいかない。生きたい、生き続けたい。諦めてはならないと、何度も心の中で叫び続けた。すると今度は、枕の下に頭が沈み込むような不安が襲ってきた。はっきりしたものが見えた訳ではない。広くて深い真っ暗な闇から、何本ものクモの糸のようなものが、私の身体を縛って、引きずり下ろそうとする。私は引きずられてなるかと、必死に三人の声にしがみついた。この時、別の私が、暗闇の奥から見上げると、ゆっくり大きく、浮き沈みする私の背中が見えた。
それからどれほどの時が経っただろう。冷や汗は徐々に引いて、動悸も治まってきた。安堵した三人を見ながら、両手の平を、握ったり、開いたりして、自力の回復を確かめた。やがて、いつもの気分と落ち着きを取り戻してきた。
「良かったわぁ。お父さん、もう大丈夫や。顔色もよくなってきたよ。脈も普通やし、大変やったなぁ」
「疲れてたんやろう、もう大丈夫やから。明日病院でちゃんと診てもらおうな」
「うん。ありがとう。皆に心配かけてすまなかった」
子ども達は、涙の乾いた笑顔で頷いた。
こうして光と影の中にあった私の恐怖は、家族の渾身の力で断ち切られ、その愛と絆が『家族の力』となって、私を生還させてくれた。
翌日、様々な検査の結果、幸い緊急を要するデータは見つからなかったが、私の体験は、臨死体験の一つだと医師から告げられた。
昨今、近親者による、相次ぐ人命軽視の事件を耳にする度悲しくなる。私自身、ニトロや緊急連絡先の携帯など、生命の尊さ、健康のありがたさを改めて認識した。あの日のことは、無意識だった朝の目覚めを感謝し、悔いのない『日々是充実』した人生を送るよう、私に警鐘が鳴らされたものだと考えている。 |