随筆・評論 市民文芸作品入選集
入選

「今」 やるべきこと、できること
日夏町 赤木 章嗣

 今から約三十年前、あと少しで社会人になるという大学三年の時、学生生活の区切りとして、私は「今この時にしかできないことを何かやっておきたい」と考え、学生には時間はあるがお金がないという観点から、できるだけお金をかけないで旅行してみようと思いつきました。行き先は私が以前から行きたかった東北地方。当時、学割と冬季割引で交通費(当時の国鉄周遊券)が半額近くになる冬が狙い目で、寝袋を携え駅の待合室を利用する計画を立てました。
 実際に行ってみたところ、幸い私が拠点とした青森駅の待合室は二十四時間開いており、非常に過ごし易い場所でした。更に、出会った人の好意により、青函連絡船で津軽海峡を越え、函館・札幌まで無料で足を伸ばすことも出来ました。札幌駅では夜遅くに待合室を追い出され、マイナス二十度の極寒の中、このまま眠ったら凍死するのではないかと思いながら地下鉄の踊り場のシャッターの前で眠った事を思い出します。結局、約一ヶ月間で一日の平均生活費は約三百円。当時としてもかなり厳しい生活でしたが、多くの人との出会いや新しい体験などを通じて充実した時を過ごすことが出来、私の大学生活の中で最も印象に残るイベントとなりました。この旅行から、テーマを選び手探りで挑戦していく面白さ、新しいものを発見するという楽しさを見つけ出すことができたのです。
 社会人になってからも、私は「今、この時」を大切に、精一杯生きてきたつもりです。私が就職した会社は創業間もない小さい会社でしたが、非常に活力があり毎日が挑戦の連続。「創業期の会社を如何にして成長させるか」が大きなテーマであり、社員全員が一丸となって寝食を忘れて働きました。その時は仕事をやっているというのではなくて、新しいものにチャレンジし、熱意と情熱と執念で嬉々として夢を追いかけているという感覚でした。今では会社の規模は大きくなり、その内容も充実してきています。これは、創業当初の私たちの努力であり、私には「その時やれる限りを尽くし、自分たちの力で会社を育て上げた」という充足感と誇りがあります。
 こういった自分自身の体験から、子供達には「今しか出来ない事をやれ、難しい事にも失敗を恐れず精一杯チャレンジしろ」と機会がある度に話をしています。結果がどうあれ、そういった気力溢れる行動・体験を通じて得た充実感・達成感などは、必ず後の人生に活きてくると私は信じています。
 しかしながら、年齢を重ねる毎に私は急激に気力の衰えを感じるようになってきました。それは、今まで全力で走り続けた反動なのかもしれません。そして私にもやがて「定年」がやってきます。仕事面では漸く一息つけるようになってきましたので、「私から仕事を取ったら、一体何が残るのか」と悩まなくて済むように、私は仕事以外にも自分の興味がある事に積極的に参加し、活動範囲を広げ始めました。「『定年』という着陸地点に向けてソフトランディング(軟着陸)できるように準備を行うこと」、その事を意識するようにしたのです。
 ここまで考えて、私は他にもっと大きな問題があることに気が付きました。私は着陸の準備をすればいいのかもしれませんが、妻は今まで飛び立つことすらできずに我慢していたのではないかということです。私が「その時やれる限りを尽くした」と感じた充実感を、妻は今までに感じたことがあったのでしょうか。私が全力で夢を追い続けた結果として、妻に家事や子育ての負担がかかっていたはずです。そう考えると妻に申し訳なく、私は胸を締め付けられるような思いがします。常に私や子供達のことを優先して考え、或いは私の両親にも気遣い、やりたいことが沢山あっても随分我慢してきたのではないでしょうか。「何とかしてあげたい。」これが今の私の率直な気持ちです。
 三人の子供も大きくなり末の息子が今年から大学生、妻もやっと時間的に少し余裕が出てきているようで、最近は様々なサークル活動に参加するようになってきています。妻がそういった活動の中から新しいものを発見し、それに打ち込み、充実した時の流れを感じてくれるようになれば嬉しい限りであり、妻の新たな活動を私は全面的に応援し、協力していこうと思っています。
 また、妻も私も芸術が好きですので、これをキーワードにすれば妻とは多くの共通の話題を持つことが可能です。或る時は別々に活動し、或る時は夫婦一緒に色んな所に行き見聞を広めるようにしていけば、更に充実した時間を過ごせるのではないでしょうか。妻のことを思いやること、私のソフトランディングの糸口も、どうやらそのあたりにあるような気がします。


( 評 )
 学生時代の倹約旅行、創業間もない小さな会社での挑戦の日々、いつも「今、この時」を大切に生きてきた筆者は、今日までの来し方を振り返り、妻への感謝の念に辿りつく。定年に軟着陸するために、妻を思いやることから始めよう、と決意するに至った過程が、気負わず淡々と綴られた文章に好感が持てる。

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