随筆・評論 市民文芸作品入選集
入選

平田川雑記
平田町 三宅 友三郎

 お彼岸が過ぎると厳しい冬の寒さも、ようやく身のまわりからうすらいで来たようである。すると今年もまた平田川沿いの道筋に、あの温もりのある春の息吹が、どことなくやってきた気配も感じる。当たり前の話である。いくら年を取ってぼけても、暖かいことの方がずっとよい。そして今日は天気も良いのに釣られたように、いつも散歩コースの道順としている北平田橋のたもとから、左岸沿いの道にゆっくりと足を踏み入れてみた。そして下へ七本目の桜の木の所まで来たときである。今年もまた早咲きの花を咲かせている枝に出くわしたのだった。
 しかし突然こんなことを言いだして、まだ三月なのにもうお前もそこまでボケてしまったかと、知人ならずとも他人様はそう言って苦笑するだろう。その通りである。ひととき彦根の町の中でも、平田川はずいぶんとよごれた川のようにも言われていた。しかしこの平田川の川縁にも、流れの景観を美しくしたいという篤志家の方たちにより植えられた桜の苗木が、いまではすっかり毎年美しい花を咲かせるまでに成長して並んでいる。そして昨年の春のことである。もう平田川の桜並木もそろそろ花を咲かしているだろうかと、散歩気分でまたいつものように左岸の道に足先を向けてみたのだった。ところがその時はまだ花は一輪も咲いてはおらず、桃色をした小さな蕾ばかりが並んでいるのが、せっかちな老人の目に入るばかりであった。もちろんその事は少々予測もしていたが、やはりおのれの勝手さも忘れて気が抜けたものである。
 ところが北平田橋のたもとから、七本目の桜の木の下まで来たときである。ふと仰いで見た中の一枝に、すでに固まって花びらを開いているのを見つけたのだった。もっとももう蕾も並んでいたのだから、一部の枝の花が早咲きしていても当たり前だろう。としかしその時のわたしの心境はどうしたものか、よく確かめもせずいささか勝手な方向に向いていたような気がする。そして他に用事もあったから、やはり桜の花も全部の枝が満開のときが一番美しいと、早とちりに決めつけてその桜の木から離れてしまった。
 そして間もなく花も満開になり、散歩道も自動車が通らなければ事故に気を配ることもなく、ゆっくりと花見をしながら歩ける時が来たのだった。そうなると流れの中に嘴の先が黄色い水鳥の泳いでいる姿もまた見かける。そして川辺にいる鳥といえば白鷺ぐらいしか知らないわたしだったが、鳥類の図鑑で調べてみると、嘴の先の黄色であるのはカルガモということも分かった。そればかりかカモ類といえば単純に冬の鳥だとばかり思っていたのが、この鳥は季節に関係なく日本にも住みついていると紹介されている事も知った。だからこの平田川の流れの中でも、時には何羽かの雛を連れて泳いでいる姿も見かけるようにもなった、そのありさまもまた見られる。
 ところがである。桜の花も満開の時期が過ぎ、花びらもすっかり散ってしまって、入れ替わりのように青い若葉の新芽が出だしたころである。わたしはまたこの平田川に沿う散歩道に足を踏み入れてみてあっと驚いた。あの最初に見た枝の桜の花だけが、まだ散らずに満開のまま残っていたのである。驚いたというより、今度はその木の下で足を止めると、しげしげとその咲いている枝の花を見つめてみたのだった。そしてそこで初めてそれが造花であることに、気がついたのであった。いたずらにも程がある。わたしは全くそのとき本当にしてやられたと思ったが、いささかそんな自分にも恥ずかしくなり、あわててまわりを見回すばかりであった。
 ところでこの平田川のふちには、一体何本の桜の木が植えられているのだろうか。とそんな御節介な気持ちになり、すっかり緑の葉に覆われた初夏のころ、一本一本と数えているうちに思いのほか幾種類もあることにも驚いた。全部で百本あったがその一本一本に、篤志家の方達の名前のかわりであろうか、桜の木の種類名が木札に書かれてぶら下げられていた。
 紅しだれ、譜賢象、一葉、越の彼岸、松月、紅華、駿河匂い、紅しだれ、鬱金、大山桜、千里香、数珠掛桜、思川、手弱女、楊貴妃、御車返し、関山、八重紅しだれ、花笠、白妙、十月桜、緑衣黄、福禄寿、などなどである。しかしそれにしても沢山の名前があるものである。本当にこんなに沢山桜の木の種類があるのだろうか。いやそれどころか恥知らずにもというより、わたしなどはまったく数種類の名前しかいまだに知らない。そして無能ついでに強情も手伝って百科辞典を開いてみれば、またそのいくつかの、同じ名前以上の文字が目に入ってきたのだった。


( 評 )
 いつもの散歩コースである平田川の、カルガモの様子や桜並木の情景が綴られている。作品全体を流れる朴訥とした語り口が、内容とマッチしている。造花の桜に騙されたエピソードなど織り交ぜながら、地域の住民として、筆者の平田川に対する愛着と暖かい眼差しが伝わってくる。

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