市民文芸作品入選集
随筆・評論
入選

いのちへの畏敬
佐和山町 松本 澄子

 朝食の後片づけを済ませ、ほどよい疲労を覚えた後の一杯のコーヒーを飲みながらいつものように新聞を広げた。死亡欄に目を落とした瞬間、体が震えた。
 H・Mさん死亡  七十一歳
 人工透析を三十二年間続けて、平成十八年長寿賞を受けました。国政調査員として昭和六十三年、国務大臣より表彰され立派な妻でしたと遺族の話。
 やはりM子さんだったんだあ。高校の同窓会名簿で彼女の住所・氏名は知っていた。
 近くのスーパーへ買い物に行く途中の少し離れた佐和山の近くに彼女の住むマンションの屋上は見える。初めて出会ったのは、五、六年前スーパーの開店すぐで、客の少なかった食品売場、目と目が会い何処かで見覚えのある目だなあとの思いが一瞬、頭をよぎった。
 間違いない、M子さんだ。彼女のチャーミングポイントでもある憂いを含んだ大きな瞳。
 学生時代の彼女は、身長も高くスポーツ万能の健康体であったのを記憶している。
 高校三年間、共に汽車で通学、中学校は違ったが汽車の待ち時間や車中で話す機会も多く、数少ない親友の一人であった。
 彼女が病身であることは、一目でわかった。顔は、表情もなく全身うすく縮み、六月であるのにセーターを着、僅かな食品をかごに乗せたカートに上半身を凭〔もた〕れるように歩く姿はまるで老婆、とても
 「M子さんじゃない」
 と確かめるのが怖く声は出なかった。後に彼女の腎臓病という病名を知り理解できたが。
 腎臓病は、青白い艶のない顔が特徴であり、冷えが大敵であると聞く。皮膚の温度が下がると腎臓を流れる血液の量も減少するので、夏季でも厚着で保温に努めていたことがわかった。彼女だって私だと気づいていた筈、でも別人のように痛々しい姿に変わってしまった自分を学友に知られるのが嫌だったのだろう。
 その後、食品売場で数回すれ違ったが、決してふり向くことはしなかった。
 私も言葉をかけない方が彼女に対する愛情、親切だと配慮し、そのまま数年の月日が流れた。

 以前、宇和島徳洲会病院を舞台にした臓器売買事件と病気腎移植問題が発覚したのを機に社会では、生体移植に大きな注目が集まった。臓器移植法が一九九七年十月に施行され今年十二年になるが、臓器移植法自体には、死体から臓器を摘出することが移植医療の適正な実施とされている。
 人工透析を三十二年間受けていた彼女、移植手術を受けたが失敗したのであろうか、それとも慢性腎炎の場合、血液型等、条件の一致する提供者が現れなかったのであろうか。
 どちらにしても彼女の体のことを知るよしもないが、腎臓は、体の洗濯工場と云われる程、大切な臓器。
 週何日かベッドに体を横たえ、動脈に注射針を突きさした状態で数時間、体の掃除を行う。そのくり返しの気の遠くなるような三十二年間は、声なき悲鳴を上げ忍の一字で堪えたのであろう。
 昔ならとっくに失っていた筈の命。日本の女性の平均寿命にこそ届かなかったが、七十一年の命は、人工透析という医学の助けを借り救われ、病と共存の身に人生を楽しむことはむつかしかったであろう。しかし、彼女は生活のリズムを懸命に整え、ひたすら生への執念と命への畏敬、これが彼女の養生の全てであったと思う。
 人は、誰もが健やかに人生を享受し、生き抜き病気や苦痛に妨げられず、静かに終焉を迎えたいとの思いが強い。でも彼女の人生の半分は、腎臓病を引受けた身、安静が第一の薬と云われながらも尚、国政調査員として立派に社会参加、社会奉仕に努めそして、家族の食を支え続け存分に生きたと私は思いたい。
 昨年の七月は、連日の猛暑、健常者でも厳しい暑さであり、その上病がせめ続け体力的にも限界であったのであろう。夏を越すことはできず黄泉に旅立ってしまった。
 喪われた命は、二度と戻ってこないことを知りながら、どうして
 「M子さんじゃない」
 と学生時代の呼び名で声をかけ励まし、勇気づける優しさが私にはなかったのであろうか。悔やまれて仕方がない。

 今朝は、亡き彼女の住んでいたマンションの屋上を残された家族を春の陽光が包むように優しかった。


( 評 )
 誰にでもある「あの時、声をかけておけばよかった」という思いがよく伝わってくる。M子さんのことに焦点を絞って書かれていることもよい。それだけに、題名の付け方が今ひとつ分かりづらく、その点が惜しまれる。

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