川の流れのように ―義母の介護から実母へ―
十一年前、義母から始まった在宅介護は実母に変わった今も続く。―怒らない、待つ―の日々。男が介護を始めると周囲が見えなくなり孤独に陥りやすい。自分と被介護者の日常生活と隣近所、地域とのつながりにはどう対処するか、男性介護者が直面することである。
山陰で一人住まいをしていた義母の様子がおかしいと近所の方から通報があり引き取った。認知症への知識がない当時毎日が怒りの連続だった。いなくなったといっては勤務先にまで電話がかかってくる。徘徊がひどくなり幾つも錠を取りつけた。それでも壊したり、中窓に椅子を持ち出して外に出る。冷凍庫の中身を食べる。梅酒で酔っ払う。今はこんな行為の背景を考えることが出来る。対処の方法も考えられる。何も知らない当時は妻と二人で右往左往の毎日であった。こんな日常の中で妻にガンが発覚。二年間の闘病の末あっというまに逝ってしまった。この二年間は自分の仕事、妻の看病、義母の世話、毎日がこの繰り返しであった。ヘルパーさんの助けがなかったらとても出来なかったろう。妻の亡き後義母は施設でお世話になっている。月に一度は見舞うが、認知症が進行し返って慈愛に満ちた優しい顔になり、八十七歳になった今も元気でいる。施設のお陰と感謝する毎日である。
或る新聞の取材を受けた。―いずれ介護する、そう考える小宮さんはボランティアなどで介護を経験することを勧めています。小宮さん自身リタイア後にグループホームで働いた経験があり、それが認知症の母、津がさん(九十一歳)の介護に役立っているからです。―グループホームでは日常生活のケア、献立てから食材の買出しと食事作り、入浴の介助、薬の服用から管理、入れ歯の洗浄口腔ケア、下の世話まで全てを学ぶことが出来た。更に高齢者、認知症の人に対して“怒らない、待つ”ということを学んだ。「自分の息子や娘もしてくれんことを男のあんたにこんなことしてもろうてすまんなあ」この一言が励みになった。今も胸に響いてくる。
そんな矢先、認知症の始まった母を引き取ることになった。住み慣れた家と土地を離れ、慣れぬ家と変った環境に昼夜関係なく不安からくるせん妄が始まり、夜通し起きてうわ言のようにしゃべり続ける。失禁も出る。家中歩き廻る。ゆっくり寝ることが出来ない。しかし怒るな怒るな、笑え笑えと自分に言い聞かせ励ます毎日、とうとう仕事を辞め母の人生に寄り添う決心をした。高齢故日常動作はかなり鈍くなっているが、内臓は比較的健康だ。食べ物に好き嫌いはなく、何でもおいしいおいしいと喜んで食べてくれる。が共に生活を始めてびっくりした事は、目が殆ど見えない事だった。両眼共極度の白内障。早速眼科で手術、一日おいて眼帯を外したらびっくりする位よく見える様になった。髪の毛一本、埃一すじまで拾って歩く。そんなことしていらん!!とイライラする。が怒るな怒るな笑え笑えと言い聞かせる。しかし目が見える様になって安心出来るのか生活に落ち着きが出てきた。或る日風呂から上がって衣類を着せていた時、すまんなあ息子のあんたにこんなことしもろうてと礼を言ってくれた。いやあどういたしましてと答えた途端、もう着ることも忘れて大笑い。母がこんなに大笑いしたのは初めてだった。認知症になっても頓知のきく母はよく笑わしてくれる。近頃は一人留守番をしてくれる様になった。母の記憶年齢は十五、六歳の女学校時代が背景となっており毎日夕方になるとお父さんは、お母さんはどこへいったが始まる。それに合わせて今近所の○○さんへ用足しに行っている、もうじき帰って来るみたいや―ああそうかで終わる。毎日同じことが繰り返される。
四人に一人は男性介護者となり都市部では三割を越えるとも言われている。男性の介護実態はどんな状況にあるか、痛ましい事件が報道さる度、どうして助けを求めることが出来なかったのかと口惜しい思いにかられる。
幸い私達は暖かいご近所に恵まれ、地域の催しに積極的に参加している。皆さんが笑顔で迎えて下さり、母も笑顔で話が出来る様になった。私もボランティアに参加したりして気分転換をはかっている。母が落ち着いて生活出来る様になったお陰だ。自分一人ではここまで出来ない。まわりの方達の暖かい励ましとご協力のお陰と感謝している。母の歩調に合わせた二人三脚、あと何年という区切りはない。ないが故に一日一日を大切にしてやりたい。ある限りの命を大切にしてやりたい。そして地域の輪に入り、認知症になっても安心して暮らせる社会になる様祈ってやまない。
―川の流れのように―
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