惜別
病室の窓の外では満開に桜の花が咲いていた中で末期癌だった父が静かに息を引き取ってからちょうど一年が経ちました。その父の一周忌に捧げる形で、七十五歳になる母が生まれてはじめて出版した歌集のタイトルは『惜春』といいますが、私以上に母にとって、桜の花も、行く春も、名残の調べを奏でるものとなってしまっているようです。
その名残の桜が開花してゆき散りゆく中、人より随分と遅い結婚をし遅くできた私の息子は保育園を卒園し小学校に入学しました。
六歳の息子と五十一歳の私は、ここのところいつも二人いっしょに彦根駅前にある散髪屋さんに行き、二人並んで散髪をしてもらっています。私はあの大リーグの松井選手のニューヨークのヤンキースタジアムにも足を運んだことがあるというおじいちゃんに髪を切ってもらっているのですが、息子はボストンメガネをかけた二十代の若いおにいちゃんにやってもらっていて、仕上げにはワックスをつけてもらい髪を立ててもらい、「イケメン」に変身していました。
息子はそのおにいちゃんが大好きでした。息子が毎週通っているピアノ教室も彦根駅前にあって、ピアノ教室まで歩いている途中散髪屋さんの前を通っていて、その度店内を覗き込んで「おにいちゃん、働いてやった」とか「こっち見てやった」とか、妻の耳元で囁いていたそうです。
そのおにいちゃんが、先月行った際、「実はあともう二週間位で、このお店をやめるんです」と言ってきました。そしてこれまで通り、おにいちゃんはお店の外まで出てきて息子に手を振ってくれ、息子もこれまで通り後ろ向きに歩きながらおにいちゃんに笑顔で手を振り続けました。
車に乗り家まで走り、家に着いて夕食をとり、フロに入って、少しゆっくりした頃から、息子はまるで元気がなくなってきました。じわじわじわじわと、おにいちゃんがお店をやめてしまうこと、おにいちゃんと別れなくてはならないこと、おにいちゃんとはもう永遠に会えないかもしれないということの意味が、ボディーブローのように六歳の息子のハートに浸透してきたようなのです。いつしか涙ぐんでしまっている息子がいました。「今度、ピアノ教室に行った時、おにいちゃんがお店の外に出てきやったら、どこに行くのか聞いたらいいやんか」と私が言うと、「でも、もし出てきやらなかったら、どうするん?」と息子は真剣です。「そしたら、今度行った時、おじいちゃんにどこ行かはったんって聞いたげる」「もし遠くのお店に行かはっても、そのお店に連れて行ってくれる?」「米原から能登川まで位の間やったらな」「京都とかやったら?」「それは無理や」……眠りにつくまでそんなやりとりは続きました。
息子が次のピアノ教室に行った時、おにいちゃんは息子の姿を見ると、外に飛び出してきてくれたそうです。息子はきばって「どこに行くん?」と尋ねたといいます。すると、おにいちゃんは「愛媛」と答えたそうです。妻によると、おにいちゃんは愛媛の実家の散髪屋さんに帰られるとのこと。息子はその日、おにいちゃんがその場で走り書きしてくれた紙切れを宝物のように持って帰ってきました。紙切れには、おにいちゃんが帰る愛媛は松山の住所と散髪屋さんの名前が書いてありました。
昨春の父の葬儀に続いて、息子にとっては人生二度目の人との別れになりました。息子のせつない胸のうちを思うと、言葉にならないものがあります。
彦根城が梅の花に包まれた頃、おにいちゃんは松山に旅立ち、桜の蕾がふくらんできた頃、息子は卒園式を迎え、二年にわたりお世話になった保育士の方々と人生三度目の別れを経験しました。
それにしても、息子はこれから先、いったい幾つの別れを経験していくのでしょうか?年齢を重ねていくということ、長く生きていくということは、幾つもの別れを経験していくことに他ならないように、五十歳を過ぎてから、私はつくづくと思うようになりました。友との別れ、恩師との別れ、学校との別れ、恋した異性との別れ、家族との別れ、ふるさととの別れ、夢との別れ……歩いてきた自分の五十年のこれまでのささやかな人生だけを少し振り返ってみても、これから息子が味わうことになるであろう未来の別れの数々が想像されてきます。
それが避けられないものであるなら、一つ別れを経験する度に、強くなりたくましくなり、優しくなり、心が豊かになる、素敵な別れと出会う度により素敵な人間になれると、そう思いたいし、そう信じたいです。
「今度の家族旅行は松山にしよう」と、息子と言い合っています。この夏きっと、おにいちゃんの散髪屋さんの鏡に、私と息子が並んで座る姿が映っています。
|