ふるさと
私は、小学生時代を兵庫県尼崎市ですごした。
尼崎は工業地帯で、四国や九州から仕事を求め、やって来る人が多かった。工業用水を多く汲み上げるため地盤沈下がひどい。
台風が来ると、毎年一・二回は床下浸水になった。どぶ川と道はひとつの川のようになり、広々したながめになる。家々は水の上に立っているみたいだ。私は、膝まで泥水につかりぶらぶら歩いた。ほうきにちりとり、げたにおもちゃと色々な物が浮いていた。時々泥水がうっすら赤くなった。池からあふれ出した金魚だ。つかもうとしたが、さっと逃げられた。
あくる日は、集団登校で六年生の男子が先頭に立ち、棒で地面を確かめながら進む。川と道の境に柵はなかったが通いなれた道で怖くなかった。探検隊みたいでわくわくどきどき。
でも、こんな時ばかりではなかった。忘れられない台風がある。窓から見る柳は怪物が長い髪を振り乱し、あばれているようだった。縁側の四枚続きのガラス戸は雨と風でびしびし鳴った。風はだんだん強まり、ガラス戸は内側にたわみ始め、私と弟は泣きながら戸を押さえていた。雨戸はなく、父は会社だった。
「手を離したらあかん」
後ろで母の声がした。手が痛い。くるくる回りながら風がガラス戸を押す。ガラスがワレル、ガラスがワレルと思いながら押さえていた。
とつぜん、ドンドン、ドンドン音がした。隣のおじさんが、ガラス戸に木を十文字に打っていた。雨と風で髪の毛はむちゃくちゃだ。
「もうだいじょうぶや」
おじさんの声。ガラスのむこうに全身ずぶぬれではだしのおじさんが立っていた。いつもむっつりしているおじさんがやさしい顔で笑った。戸はもうたわまない。とたんに、体の力がぬけ、私は足を投げ出しタンスにもたれていた。おじさんは、子供の泣き声で駆けつけ、助けてくれたのだ。おじさんを思い出すたび涙がにじむ。
私は、尼崎で色々な人から暖かな心をもらって育った。意地悪な子もいた。悲しいこともあった。でも、ふるさとを離れ、人恋しかったからだろうか、暖かな人が多かった。
私は父の転勤で六年生の夏休み、彦根にやって来た。でも、一年近く尼崎の天気やニュースが気になった。友達のことも思った。尼崎に心をおいてきたようだ。
彦根に来て、四十年余りたったある日、思いがけないニュースを目にした。アスベストである。私は、工場から一・五キロあたりに住んでいた。危険な期間、危険な場所にいた。大好きなふるさとで、楽しかった頃アスベストが私の体に蓄積していたかと思うと、まっ黒い不安がどっと押し寄せてきた。
地元の保健所、尼崎の保健所、病院に電話をかけた。暗い霧のなかを一人手さぐりで歩いているようだった。今、異常がなくてもアスベストを吸ってから五十年後の発病があるという。先のことはわからない。不安はふくらむばかりだった。体の芯から悲しみがわいてきた。尼崎での思い出はみんなぬりつぶされるのか。うらぎられたような気持ちになった。ふるさとへの熱い思いがさめていった。でも、失いたくなかった。かけがえのないふるさとを失いたくなかった。
空にむかってつんつんとたくさんのえんとつが立っていた。運動場に出ると隣の工場からゴムの燃える臭いがした。夕方、尼崎競艇場前の広場ははずれ券でうめつくされた。今思うと良い環境ではなかったが、モーターボートのエンジン音は力強く胸に響いた。煙のかかった月はきれいだった。多くの人達の生活は楽ではなかったようだが、生き生きしていた。
色々な思いと不安がいり交じった二週間がすぎたころ少し落ち着いた。台風の時のおじさんの笑顔。きれいな花だと言ったら薮椿をかかえきれないほど手折ってくれたK君。正しいちょうちょ結びを教えてくれた先生。知らないおじさんに注意されたこと。みんな私の宝物。アスベストなんかで消えない宝物だ。不安はあるけれど、良いことも悪いことも含めてのふるさとだと気づいた。
青い空に白い雲。青田に波がたつ。この地に来て、尼崎ですごした五倍近くの時が流れた。すきとおった空気。この自然にいだかれ私の体は浄化されてきたのではないかと思う。琵琶湖を見ていると、あわてふためいたことがうそのように心が穏やかになる。
――だいじょうぶ。だいじょうぶだよ――
心の片隅で声がした。これからも琵琶湖の風に吹かれ、ふるさとのぬくもりをいだいて生きていきたい。
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