ステッキ
太い黒色のステッキ、父の遺品である。外出するときには、たとえ近くのたばこ屋に行くときであっても、かならずそれを手にしていたものである。
船乗りであった父は、二、三ヶ月、ときには半年近くも家を留守にし、帰ってきても、しばらくするとまた出て行く、の繰り返しであった。幼かった私にも、それは寂しいことであった。
父もそのことを察していたのだろう。こまめに便りをよこしてくれた。一枚の古い絵葉書が残っている。それには、
『オトウサンハ、イマリオデジャネイロトイフトコロニイマス。ココハトテモアツイデスガ、ゲンキデイルカラアンシンシテクダサイ。シッカリベンキョウスルノデスヨ。オカアサンノイヒツケヲヨクマモッテオリコウニシテイマスカ。ソノウチ、オミヤゲヲタクサンモッテカへリマスカラマッテイテクダサイネ』
などと、優しい言葉が連ねてある。
だが、家での父はなかなかの暴君であった。気に入らないことがあると、じきに声を荒げる。手こそ出さないものの、母をはじめ私たちは、機嫌を損ねないようずいぶん気を使ったものである。
母は、
「長い航海で苦労なさってきたのだから、思うようにさせてあげようね」
といつも言っていた。
父は、航海中の運動不足を取り戻そうとするかのように、あちらこちらと歩き回ったものである。京都の北白川に住んでいたので、八瀬、大原には何回も、比叡山にもよく登った。そのときは私と弟、ときには母もお供しなければならなかった。宿題があるからなどと断ろうものなら、途端に機嫌が悪くなったものである。
そんなときの父は、小太りの体にニッカーボッカーを着用し、若禿を隠すためか、ハンチングをかぶり、ステッキを手にしていた。まるで土建屋の親方のようだと、母は陰では嫌っていた。
その暴君に、母が文句を言ったのである。私が小学校四年、弟が二年のときのことである。大原の寂光院からの帰り道、弟が道端にしゃがみ込んでしまった。いくら叱っても宥〔なだ〕めても動こうとしない。致し方なく父は、弟を背負って歩きだした。晩秋の夕暮れ時なのに、汗びっしょりになっている。どうにか家に帰りついたのだが、弟は夕飯も食べず寝てしまった。
母は涙声で、
「あなた、可哀想とは思わないのですか。まだ小さいのに。これから連れ出すときは、少しは考えてください」
父は渋い顔をしていたが、なにも言わなかった。
太平洋戦争がはじまると、敵の潜水艦の攻撃による船舶の被害が続発した。父が乗組んでいた船も、昭和十七年にベトナム南部の沖で撃沈された。幸い命は助かったものの、一年余りを現地で過ごさなければならなかった。
ようやく帰国できたのだが、三ヶ月ほどするとまた乗船命令がきた。その頃になると海はますます危険となり、船団を組んでも絶対安全とはいえなかった。母をはじめ、私たちは悲壮な覚悟で見送ったものである。
それから十日ほどたったある晩、玄関でコトンと小さな音がした。出てみると、立てかけてあった父のステッキが倒れている。母は裸足で土間に飛び降りて拾い上げ、しばらくの間握り締めていた。そしてそのまま仏壇の前に座り込み、一心に南無阿弥陀仏を唱えだした。
やがて戦争が終り、おかげで父は命拾いをした。それまでには、もう駄目だと観念したことが何度もあったという。そのせいか、帰ってきてから一年ほどは、夜中にうなされたり、飛び起きたりすることが再三なので、母はずいぶん心配したものである。
あの大戦で、戦没した船員の数は約六万二千人、率にすると四十六パーセント。これは、陸海軍軍人のそれよりはるかに高いという。父がよく生き残れたものだと慄然とする。
戦後、父は船乗りを辞めた。それからというもの、閑をみつけてはあちこちの寺に参るようになった。私を誘ったこともあったが、素気無く断ったものである。
あの頃の私には、父はなんとなくうとましい存在であり、ときには言い争ったこともあった。そのことが、今でも心の片隅にしこりとなって残っている。なぜ優しく接することができなかったのだろう。何かを伝えたかったであろう父の胸の内を、なぜ聞いてやれなかったのだろう。
ステッキをつきながら出かけてゆく、父の寂しそうな後ろ姿が目に浮かぶことがある。 |