随筆・評論 市民文芸作品入選集
入選

いとま乞い
大藪町 雨森 昭夫

 暮れも押し詰まった十二月二十一日、同じ町内に住む友人O氏の突然の訃報が飛び込んできた。
 まさかあのO氏が…。彼とはゴルフ、お酒を通じての二十年来の友人である。つい半年前、一緒にゴルフを楽しみ、酒を酌み交わしたはずなのに、信じられない。
 享年六十七。私よりも十歳も若い、あまりにも早い別れである。
 彼は無類のゴルフ好きで、いつも練習場で一日中、千球近い球を打ち込んでいた。六十歳を過ぎてからめきめき頭角を現し、シングルハンディの腕前になった。それほど体格が優れているわけでもない。むしろ小柄の部類だが、彼の飛距離は群を抜いていた。
 ゴルフコンペで「ドラコン」という一番遠くに飛ばした者に与えられる賞がある。ゴルファーの醍醐味であるこの賞を、彼はたびたび獲得していた。
 ゴルフコンペの最近の十試合の平均スコアーが86、ベストスコアー77という素晴らしい成績を残している。私など四十年以上ゴルフをしていても未だに100を切れない腕とは格段の相違である。
 学区内のゴルフ愛好者による「金城ゴルフ同好会」が発足して十三年、今年五十四回を迎えるまでになったのは、発足当初からの彼の尽力によるものであり、長い間、同好会の会長を務め、現在五十名近い会員のリーダー格であった。
 昨年六月にコンペの参加予約をしておきながら、彼は急にキャンセル。私が、「Oさん、不参加なんて残念やな」と言ったら、「いや一寸、都合が悪くなってね」と言う。ゴルフ好きの彼がよほどのことでない限り、キャンセルをする筈がない。何かの事情があってのことだろうとは思っていたが、このとき検査で、すでに癌が発見されていたのである。
 胃癌なら早期に手術すれば、また回復してゴルフが出来るだろうと思っていたが、聞くところによると他にも癌が転移していて、手術の施しようがないとのこと。つい最近まで、あれほど熱心に練習し、毎日一時間近くウォーキングをしていた彼が「まさか」である。それからわずか半年余りでの訃報となった。
 若い頃は少年野球の指導を熱心にしていたスポーツマンで、ゴルフと酒をこよなく愛した愛すべき友人であった。ゴルフの後での宴会では時間のたつのも忘れ、よく飲んだものである。酒も強く、私と違って彼の酔っぱらった姿など見たことがない。
 彼は酒もさることながら、たばこをよく吸っていた。私はたばこが嫌いなので彼の「たばこ」がいつも気になっていた。このような癌という病気になったのも「たばこ」が原因していたのかもしれない。今となっては喧嘩をしてでも「たばこ」を取り上げておくべきであったと後悔している。

  死去の二十日前のこと、ゴルフ練習場のロビーで、友人のT氏とコーヒーを飲みながら雑談していた時、後ろを振り向いたら息子さんに連れられて、O氏が立っている。私が、「体の調子はどうですか?」と、声をかけたら彼は「二十キロも痩せてしもうた」と言う。練習でもするのかと思ったらその様子でもない。数分立ち話をして「これから息子と行くところがあるから」と言って立ち去った。
 抗癌剤の影響か、毛糸の帽子を被った彼の顔があたかも「菩薩」のような、やさしい慈悲の顔に映った。また半面、なぜか淋しげな様子も気になった。もう二度と手にすることのない「ゴルフ」への惜別の思いがあったに違いない。
 私がその時、その場所にいるのを彼が知るはずがない。かりに一時間、時間が前後していたらもう永久に彼に会うことはなかった。ただ、練習場に来れば、ゴルフ仲間の誰かに会えると思って来たのだろう。
 帰宅して夕食の晩酌の盃を手にした時、別れ際に見た彼の面影が頭に浮かび、私は妻に、「今日、練習場でOさんに出会った。その時の様子がいつもと違う、きっと『いとま乞い』に来たのに違いない」と言った。その言葉が、二十日後に、まさに現実のものとなった。
 人生での『いとま乞い』とは、生前にごく親しい人、知人に別れを告げること。必ずしも自分の「死」を覚悟して、別れの挨拶をするものではない。結果としてそれが永久の別れとなるのである。運命とか、因縁というものでは計り知れない『何か』がそうさせるのであろう。

 斎場の入り口に置かれた彼の愛用のゴルフクラブ、親しみのある遺影が、多くの参列者の涙を誘った。


( 評 )
 ゴルフ練習場ロビーに癌を患うO氏の立ち姿があった。その二十日後に訃報。斎場の入り口に、遺影とともに愛用 のゴルフクラブがあった。あんなに元気だった人が。生身の人間の哀しさ。転結が整い文章もよく推敲されている。

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