母の肖像画
母はその年の夏、私に深い悔いや悲しみを残さないように、やさしいエンディングソングを歌っていてくれたのかも知れません。
私の部屋の北向きの窓の横にパステルで描いた二十号ほどの母の肖像画が掛けてあります。私が自分で描いた絵なのですが、部屋に入って行ったときなど、ふっと母の視線を感じることがあるのです。そのたびに私は「今日は元気よ」とか「あの時はごめんね」とか母に声をかけるようになりました。
当時、九十一歳の母は、養護老人ホームに入所して六年がたっていました。認知症もあり、足も不自由で、ホームでの母は日中、車椅子でホールのテーブルの前に座り、自分から何か意思を伝えることはなく、ただ静かに時間の過ぎるのを待っているようでした。
私が訪ねて行くと、自分がこの娘の母親であったことを思い出すようで、ぼぉっとした老婆の顔から、いたずらっぽい笑いを浮かべた母の顔になるのでした。その瞬間、私はたまらなく嬉しい気持ちになりました。私が訪ねると母がこんなに生き生きするのなら私はもっとたびたび母を訪ねてやりたいのですが、家には九十五歳の義母を抱えていて思うように外出できません。母はその私の立場も分かってくれていたように思うのです。
この絵を描いた夏は猛暑で、義母が体調をくずし、私はホームにいる母を訪ねる回数が減っていました。何とかそのことをつぐないたくて、秋の市の美術展に向けて、母の肖像画を描くことを思い立ちました。そうすれば描いている間は、母と過ごした日々や母が私に託した思いを感じることが出来ます。母を訪ねられなくても母を思うことが出来ます。
母の肖像画を描くのなら、現在の、ずいぶんやせ細って頬骨もとがり、髪も少なくなってしまった母ではなく、絵の中では、頬もふくっらとさせて、白髪の髪を形よくまとめてやりましょう。ホームでは動きやすいようにジャージーを着ていますが、絵の中では、昔、母が好きだった明るい紫色のセーターを着せ、アルパカの膝掛けを優雅にかけさせてやりましょう。私は心に浮かぶ一番幸せそうな母を描こうと思いました。
その夏、もう一つ母と親密に過ごせる機会が訪れました。母の入所しているホームで「逆ディサービス」と言って、ホームが借りている近郊の田舎家で入所者とその家族が一日ゆっくりすごす企画が始まったのです。
私も母をホームの外へ連れ出して、二人だけでゆっくり一日をすごしたいと思ったことが何度もありましたが、一人では車椅子の母を外に連れ出す自信がありませんでした。
当日用意された家は古い農家ですが、バリアフリーに改造されて明るくて清潔でした。庭には草花も植えられ、普通の家庭のような雰囲気です。田畑を吹き渡ってくる風は気持ちよく、久しぶりにひろびろとした畳の部屋に足を伸ばして座った母はすっかりくつろいで、穏やかな表情になっていました。何時もは、せかせか帰りを急ぐ私ですが、この日ばかりは母に寄り添ってゆったり過ごそうと、心身共に母のペースに合わせました。
認知症の深まった母はもう、ほとんど言葉が出なくなっていたのですが、手をつないで童謡などを歌うと楽しそうに聞いていて「知っているよ」と言いたげに少し口元を動かしたりしていました。
昼寝の時間は枕を並べて風通しのよい座敷に横になりました。こうして母と並んで寝るのは何年ぶりでしょう。きっと母も遠い昔、一つの蚊帳で家族がみんな一緒に寝た日のことを思い出していたことでしょう。
夕方、母と別れるのは辛かったのですが、久々に母と娘の心を通わせるゆったりとした時間を過ごせたと満ち足りた気持ちでした。
今、私の部屋に掛けられている「窓辺に座る母」と題した絵は市の秋の美術展に出品して入選することが出来ました。構図も彩色も未熟なものでしたが、私の母への精一杯の思いが塗り込められていたからだと思います。
その年、秋の深まったある朝、、母は老衰であっけなく逝ってしまいました。
私がホームに駆けつけた時、母は静かに「人生の物語をすべて読み終えて、今それを閉じたのよ」と言うように、朝の明るい光を受けて美しい死に顔をしていました。
思えば悲しいことも多くあった母の晩年でしたが、私の部屋の母の肖像画はそんな思いを払拭して凛とすましています。気のせいか時には微笑さえたたえているのです。
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