随筆・評論 市民文芸作品入選集
入選

自動車学校とテッセン
後三条町 三宅 春代

 「外は柔い初冬の陽ざしがさす気持ちの良い朝なのになあ」と思いながら、自動車学校へ通じる道を歩き出した。高齢者運転講習の通知を受け取った時から、十一月二十七日のこの日を迎えるのを憂鬱な気分で過ごしてきたものである。携帯すべき免許証、講習の通知書、印鑑、講習料代金等を前日から確認したり、服装を運転し易い物を選んだり、私なりに気をつかってきたのだ。
 岡町の新神社を過ぎると、高さ十米位はあろうか。大きな「彦根自動車学校」の立看板があり、上に赤い矢印で指示されている道を曲る。「三年前に講習を受けた時は、こんなに立派な看板があったかしらん」と内心思いながら進むと、自動車学校の敷地側のフェンスに沿ってテッセンが植えられ、そこに一輪、紫の花が小さいながらに鮮やかに咲いている。「えっ、今頃咲くなんて、狂い咲きかな」と思いながらなんとなく嬉しくなって立ち止まって触れてみた。既にまわりのテッセンは茎も葉も枯れかかっているというのに。
  「あんた、私にエールを送ってくれるの」と呟きながら時間に余裕もあって、ひとしきり触れ眺めていた。
 自動車学校の道沿いのテッセンは花の最盛期の春から夏にかけて、庄堺公園のバラやあやめ等と共に話題になっている事は知っていたが、観る機会もなくすんでいて今、こうして高齢者運転講習受講の為出かけた先で、一輪季節はずれの花に出会うとは、と内心苦笑いもこみあげながら学校の建物に入った。

 今から三十三年前になる。当時私は鈴鹿山脈の麓、源流から流れる犬上川沿いのへき地に職場があり通勤していた。春は新緑の芽ぶき、夏は生い茂った濃緑の山々、色づき始める秋の紅葉、冬は峰々に白い雪を戴き、自然は飽きさせない美しさで楽しませてくれるが冬季の雪道での通勤は大変であった。
 彦根の家を出た時は雨だったのに、多賀へ入ると霙に変わり、峠を越すと雪になり積もりかけている。当時バイクで通勤していた私は雪になると、一日三本しか通わぬバスにョる。バスに乗る為には一時間半程早く家を出ねばならず、空模様が怪しくなると、夜もオチオチ眠れなかったものである。
 「思いきって車の免許を取ろう」当時絶えず頭の中を占めていたが、なかなか踏み切れぬまま打過ぎていた。家族は夫を始め息子達も大反対、そうであろう。人一倍運動神経は鈍く、おまけにメカに弱い私を知っているので心配するのも当然だ。しかしこの反対をまともに受けていたら、何時迄も車には乗れない。なんとかなるだろうと、自分なりに決意。家族に内緒で、自動車学校へ入学の申込みをし、手続きをすませてきた。
 そこ迄はよかったが、いざ実技になると全くお手あげ。他の受講生の何倍もの歳月と費用をかけ、身心共にすり減らし体重五キロを減らして免許証を取得した時は、自分の新車を貸して教えてくれた後輩や「今、やめたら一生免許は取れん、頑張れ」と励ましてくれた同僚に、免許証を見せて一人一人に「おかげさまで」と礼にまわったものだった。
 最初は全くオドオドと運転。後方に車が連なると脇に寄って先に行ってもらう、通勤の「国道306号線が八時過ぎに渋滞するのは、先頭をあんたが走っているからや」と言われた運転振りであったが、たいした事故もなく過ごしてきた。
 退職してからも何より間に合ったのは、実家の高齢の母の入浴や世話に通うことができたことだ。「免許をとっておいたおかげで親孝行ができるね」と友人は言ってくれた言葉に改めて実感をもったものだ。買物、送り迎え、雨の日や荷物の多い日などは車のおかげとしみじみ思う。
 車も始めは息子達の希望で普通車を購入したが、それぞれ自分の車を持つようになって、私の車として軽自動車、スズキの白いフロンテから、現在のシルバー色のダイハツのミラーで四台目になる。多分この車で私の車と運転とのかかわりは最後になるだろう。
 あの三十余年前、この歳になる迄運転するなんて夢にも思わなかったのに、と歳月の流れの早さと暮らしのかかわりを改めて思う。

 危惧していた講習もなんとか正午かっきりに終了した。受講者十九名のうち女性は私の他に、かつてダンプの運転もやったというベテランのドライバーと二人。一同ヤレヤレというムードのなか散会した。
 再び秋空の陽だまりのなかへ出ると、何ともいえぬ開放感が快い。「テッセンちゃん、ありがとう、終った、終った」と花に口づけをして、すんだ秋空に紅葉が鮮やかに映える千鳥が丘公園を廻り道をして帰途についた。


( 評 )

 高齢者運転講習受講のため自動車学校を訪ね、季節はずれに咲いたテッセンからールをもらう作者。運転歴とともに「自分史」も読み取れる素直な文章である。


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