『歴女』を楽しむ
日曜夜の大河ドラマ『龍馬伝』を見るのが楽しみである。幕末動乱の時代を懸命に生きた人々の群像は、手の届きそうな曾祖父の時代なのでより身近に感じられる。 前回は武知半平太率いる土佐勤王党結成に至る上士、下士の苛烈な身分差別が引き金と成って藩内を揺るがせ、下士の憤懣を攘夷へと沸騰させていく過程が描かれていた。同時に藩主に期待をする彼の限界も語られて興味深い。 「神国日本を外敵に蹂躪されてもいいのか」
「万世一系の京の帝の勅許もなしに・・・」明快なスローガンは怒濤のように全国に拡がっていく。そして水戸浪士による桜田門外の大老暗殺と幕府瓦解のストーリーはよく知られている。しかし、その後の彦根藩の苦難の歴史は市民にさえあまり知られていない。 藩主を暗殺された家臣達への下問、処罰はどのようなものだったのだろう。隊列警護の家来達は手傷を負いながら、切腹、お家断絶、一家離散などの悲劇に見舞われたに違いない。
徳川四天王、譜代の筆頭、京都御所守衛など輝かしい役務を担った彦根藩がその後、大きく舵を切って倒幕の東征軍に加わり、会津にまで攻め上る話には驚かされてしまう。動乱混迷の時代に藩の存亡を賭けて選択を迫られた苦悩は計り知れないものだ。
一方、彦根藩士の家族、妻女たちはどのような運命を辿ったのだろうか。
この疑問に応える格好の企画が開国百五十年祭協賛の滋賀大経済学部のツアーにあった。以前から彦根市史の執筆や近代経済史のわかりやすい講義で学生や市民に定評のある教授が引率するのである。娘のような歳の准教授が隣席で話が弾む。総勢五十人ほどだ。
十万石減俸によって困窮の生活を強いられた彦根藩は、上級士族の妻女を筆頭に藩を挙げての子女達の出稼ぎを募った。
折しも明治政府は財政難の資金造りに官民一体の殖産事業を開始する。世界遺産にも登録された赤レンガ造りで名高い富岡製糸工場だ。当時のフランスやイタリアの先端技術、機械を導入、敷地内に建つコロニアル風の瀟洒な住宅は招聘した外国人技術者の住居である。工場の従業員には全国から子女が集められ、その三割が彦根藩の子女だったと言う。
彼女達は身の回りの僅かな荷物を背負って中仙道を越え一路富岡を目指した。しかし、その殆どが彦根に帰ることはできなかったのだ。換気が不十分な工場での集団作業、詰め込まれた寄宿舎、気管支炎や労咳が多発し、為す術もなく彼女たちは短い生涯を終えるのである。工場近くの寺の境内に子女達の墓標が累々と連なる。寺の過去帳には名前も定かでなく十四、五歳ぐらいだったろうと寺僧は語る。彦根からのツアーの学生や市民は言葉もなく、折り重なる墓石群に線香を手向け、ただ合掌するばかりである。
幼い頃、村には桑畑が拡がり、農家の納屋に桑の葉を蝕む蚕の姿が無数にあった。富岡の製糸業は彦根に伝えられたのである。
平田にあったという彦根製糸場はやがて近江絹糸、鐘紡などの繁栄をもたらすのである。バルブ業の隆盛もこれに連動するのである。家族の明治の時代を辿ると千本村の藍染め同業者から婿養子を迎えた祖母は紺屋や『江戸金』と呼ばれた駄菓子屋をしていた。店の壁に貼られた鮮やかな錦絵の人物の事をもっとよく知りたいと思ったものである。
近江のおばさんから「あんたは巳之助さんの子か?」なんて声をかけられた。曾祖父は巳之松でその先の人物の名である。
村の道でまりつきをして歌った数え歌は
「一かけ、二かけ、三かけて、四かけ五かけで橋をかけ、橋の欄干、腰おろし、遙か彼方を眺むれば、十七、八の姉さんが、片手に花持ち、線香持ち・・・」
この歌の先は明治十年の西南の役の西郷隆盛の割腹、その娘の墓参り話と続くのである。明治二十年生まれの祖母は笑顔を見せない人で樋口一葉に似た顔立ちだった。七人の子を産み二人の息子を先の大戦で戦死させている。
祖母の気丈な普段の顔と位牌の前で鳴咽する背を丸めた姿が記憶に焼き付いている。祖母の長女である叔母は先日、百歳で亡くなったが、若い頃、製糸工場で寄宿舎生活をしていたそうだ。給金日に祖母が殆ど全部の給金を持ち帰ったと恨めしそうに話していた。私の婚家先の先祖は文化十二年の生まれで富農の分家である。彦根藩に村の年貢米を差し出す百姓総代などの役回りをしていた。
明治になって年貢から地租に変わり田畑を等級づける膨大な地籍図が作成されたが、ちっぽけな湿田の耕作地さえ見逃さない精緻な地図や数値に目を見張らされる。遠い昔の事は専門家でないとわからない事が多いが百年、百五十年前の人々の証は手の届く所にある。地の利、年の功が効く。一線を退いて現地調査などで知った顔に出会うと嬉しくなる。世に言う『歴女』は若い女性をさすらしいが私もれっきとした『歴女』を自認している。
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