想い出の通学路
昭和五年私は出生地の小学校へ入学、通学距離三キロでメインの路は「二つ」あった。
その一つは「松街道」と呼ばれ、両側の土手に高さ七メートルに及ぶ大きな松の木が延々と植っていて木の中には多数の雀や鳥が住みついていた。風に靡く松風の音、いろんな鳴き声の蝉時雨、更には土手の草叢に鳴く多くの虫の音など爽やかな自然のコーラスを聞きながらの通学だった。
時折り、夕暮れどき篠竹に刺した南瓜、茄子の端片などを持って轡虫や兜虫を祖母に教えられながら捕りにいった。
また松街道は木の繁りで夏は涼しく、冬は冷たい北風や吹雪を和らげてくれ、森の中を歩いているようで、マントに雪が溜まることは無かった。
当時、自動車は一台も通らず、在所のお医者さんが運転するサイドカーにたまに出会う程度だった。
大八車や荷物を運ぶ馬車馬とは時々出会った。荷物がないときは友達と荷台に乗せて貰ったこともある。松街道は、まさに絵になる路だった。
もう一つの通学路は、私の村と通学順路に当る隣の村とを結ぶ一直線の連絡道路で、田んぼの真中にあった。この道路は田んぼの土を掘り起し造られたもので、道路沿いの小川はその副産物であることを祖母から聞いたことがある。路面を高くするためか、小川も処々水深一メートル程深い所もあり、鮒、鰌、ザリガニなど一杯いて手掴みで捕れた。
でもこの道、地盤がゆるいためか盛り土が少ないためか、二日も雨が降り続いたりするとぬかるみや水溜り箇所が多く、兎飛びしながらの通学だった。特に田植どき水を張った田んぼには雲が映っていて、何だか空を飛び跳ねているようだった。
学校からの帰り途、田んぼの畔でおにぎりを食べているご夫婦らしいお百姓さんをよく見かけた。飴をもらったこともある。
またこの小川は源氏蛍が多く蛍のシーズンになると日暮を待って毎夕のように妹を連れて蛍狩り、いつも篭一杯に持ち帰り、その灯りで二人揃って学習し祖母からも誉められた。
何しろ当時は、電燈普及の初期で一戸一灯時代、ロウソクやカンテラの灯りが主体で、蛍は自然の無償の恵みで有難し、有難しだった。
然し世の中、有為無常というか……、松街道の松は、昭和九年の室戸台風の余波で約半分が根こそぎ倒れ無惨だったが、残った松も戦時中に軍用機のオイル用として松根油の採集するため、総て掘り起され供出された。路幅は広くなったが風情のない只の路に姿を変えてしまった。
田んぼの中の路も戦後、農地整備事業とかで、小川は埋められ土手の猫柳・楢・アヤメなどの草木も根っこから抉りとられ、田んぼの畔の雑木も諸悪の根源かのように伐採され、川という川もすべてコンクリで張り固められ、蛇行形の川は一直線状に張り替えられ、どの川もが抱えていた沼も殆ど埋め立てられ、それまで住んでいた魚介類も蛍も総て死滅した。
河川の蛇行と沼は、自然の神からの贈りもので、人間で云えば「淋巴腺」のように病原菌の駆除、浄化、抗体能力の強化などの機能を備えた大切な臓器といえる。従って琵琶湖の浄化も河川の浄化と一体的、総合的に推し進められるべきだと私は思う。
毀した自然は元へは戻らない。
毀された自然の怒り、報いが気になる。
自然美あふれた豊かな故郷を念じつつ、目じるしとなる一本の木もない、見渡す限りの田んぼの稲株を仄かに照らす月明り、杖を頼りに想い出の田んぼの通学路を、ゆっくり、ゆっくり静かに歩き帰って来る。
寂寞たる想いを抑え消しつつ……。
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