私の原点
昨年、名古屋のF美術館から突然連絡をもらった。若手の日本画家が、自分の作品とともに、私が住職をしている真如寺の『地獄絵図』の写真をパネルにして展示したいと言っているとのこと。なんでも、自分の創作活動の「原点」となったものを自分の今の作品の隣りに並べたいということであった。
多賀の地にある真如寺は、国の重要文化財である平安時代の阿弥陀如来坐像が何よりの一等の宝なのであるが、お正月と多賀祭りの日に限って本堂の入り口に掛けている江戸時代の十幅の『地獄絵図』 が人気の点では勝っていると言っても過言でない。それは、この世で悪いことをして地獄に堕ちた者が、初七日、二七日、三七日、四七日 …… 一周忌、三回忌までの毎日毎日、地獄の大王に命じられて火炙り、釜茹で、八つ裂き、針の山登り等々の刑を次々に受けていく様を描いたものであり、日本各地のお寺に幾つか存在しているようで、あの太宰治の小説の中にも幼い頃に青森県のあるお寺の『地獄絵図』を見てとても恐い思いをしたことが綴られている。
愛知県に育った三十代後半の画家K氏は、五歳の頃、祖父に連れられて私が住み暮らす多賀町の多賀大社に初詣に来て、その時、真如寺に立ち寄り『地獄絵図』を目にしたという。その地獄の有り様を描いた十幅の絵を前にした時、五歳だったK氏は何かに取り付かれたかのようにその傍からなかなか離れることができなくなった。そして、その帰りに、祖父に絵の具が欲しいとねだり、絵の具を買ってもらったそうだ。自分の画家としての原点は真如寺の『地獄絵図』だと、K氏は振り返る。私は頂いた招待状を握りしめ、妻子を連れて名古屋までK氏の絵を見に行った。私の体よりも遥かに大きなK氏の描いた桜の花の大作を前にして、私自身が物心ついた頃からずっと見てきている『地獄絵図』がこの日本画の原点、出発点となっていると思うと、とても感慨深いものがあった。
K氏の絵画を見た帰りの新幹線で、三つの座席の真ん中で疲れてすやすやと眠っている六歳の息子の寝顔と、窓際の席に座って流れ去る都会の夜のイルミネーションを名残惜しそうに眺めている妻の横顔を見ながら、私の原点はどこにあるのだろう? と、そんなことをぼんやりと考えていた。五十歳を過ぎてから、半世紀生きてきて、ふとよく思う。自分はなんのために生きているのか? 何を目指して、何をしようと、何を胸に抱いて残りの人生を生きようとしているのだろうかと。そして、こうして心に浮かんだことを言葉にしているわけだが、一体なんのために自分は文章を書いているのだろうかと……。
私は小学生の頃、とにかく本を読むことが嫌いだった。活字を読み進めることが難行苦行に感じられ、本を読むことが自分からは遠い遠い別世界の行為に感じられた。
まったく本を読もうとしない息子に対して母親があせった。豊かな読書をする子は豊かな心を持つ子になる……といった思いを母は持っていたようだが、それ故、このままではわが子はろくな人間になれないと心配したのだろう、さまざまな本を手渡された覚えがある。そして、母は三十六巻位の世界の名作全集を購入してきて、私の勉強部屋の本棚に上から下までギッシリとズラリと並べてくれた。それでも、私はいっこうに本を読もうとはしなかった。
ある雨の日の休日のことだった。外でみんなと野球をしたくてもできない雨降り。私は小学二年生だった。母は縁側で寝そべってボケーとしていた私のそばに座り一冊の本を声に出して読み始めた。自分で読まないならもう読んで聞かせるしかないと思ったのだろう。幼く貧しい少年が主人公の物語。母の朗読が進むにつれ、私は次第に物語の中に引き込まれていった。そして、朗読している母の声が涙声になってきていることに気づいた。さらに、その母の涙声にまるで引っ張られるようにして、自分の目からも涙が流れ落ちてきた。
それは、私が、生まれてはじめて、本の世界と接して涙を流した瞬間だった。涙というものは、しかられた時や悔しい時や喧嘩をした時以外にも出てくるんだという発見を、幼いながらにも私はその時確かにしたように思う。また、物語って、本って、けっこうドキドキ、ワクワクして素敵じゃないかと、感動していたようにも思う。私が物語に小説に、本に文章に魅せられたのはまさにこの時だ。
私は次第に本を読むことが好きになっていった。そして、子どもの私を大人の母を泣かせた文章なるものを、自分自身でも作り上げてみたい、文章を書くことを一生続けていきたい、書くことを生きている証としたい、そんな思いが心の中に渦巻くようになっていったのだった。それは、間違いなく私の原点だ。
いつしか新幹線は岐阜羽島を過ぎていて、K氏によって確認させられた原点とともに、ふるさと近江へと夜の帳の中を向かっていた。
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