ふうせんかずら
小学四年生だった。もうすぐ夏休みという暑い日。
「オイ。スズキ」
教壇から先生の声。スズキ君は先生の前に立った。きをつけをしている。
坊主頭で長身。先生と背丈はかわらない。ランニングシャツと半ズボン。やせているだけでなく、服装のせいもあって、腕と足がとても長く見える。直立不動。棒のようだ。
「おまえは給食費を何か月もなんで払わんのや」と言うなり、先生はスズキ君のほほを平手で打った。スズキ君は動かなかった。きをつけのまま前を見ていた。
何か分からないものが私の心で生まれ、ドドッと突き上げてきた。
―スズキ君が悪いのとちがう。なんでスズキ君をたたくんや。お母さんに言うたらええのに。先生は弱虫や。そやからスズキ君をたたくんや
―怒りは心の中で言葉になり、爆発した。私は、生れて初めて怒りを知った。
泣きそうになった。こえらて、じっと前を見ていた。スズキ君は、何も言わず、下を向いて席に戻った。泣いているかもしれない。でも、後の席のスズキ君を見ることはできなかった。
教室は水を打ったようになった。先生は、いつものようにホームルームを始めた。悔しさと悲しみが混ざり、落ちつかないまま放課後になった。
私は、気になり、学校の帰りスズキ君の家に行った。五軒長屋のまん中のはずだ。いつだったか、スズキ君が入っていくのを見たことがある。玄関のガラス戸は開けたままで、裏庭が見えた。誰もいないようだ。
その時、スズキ君が四才ぐらいの女の子と手をつなぎ、帰って来るのが見えた。私は、とっさに隠れた。二人は、家の前にしゃがみ、話し始めた。スズキ君は、優しい顔で女の子に話しかけている。妹のようだ。妹は、屈託のない顔で笑っていた。
いいお兄さんなんだと思った。泣きたいぐらい辛いだろうに……。私だったら、部屋の隅でシクシク泣いているだろう。学校にも行かなくなるかもしれない。お母さんは、どうしているのだろう。家庭のことは分からないけれど、二人の様子を見て、ほんの少し気持が軽くなった。スズキ君って、強いと思った。
帰り道、スズキ君の家の裏庭に出た。三畳程で、雑草が茂っている。そこに、星を散りばめたように、小さな小さな白い花が咲いていた。そのなかに、緑の小さな風船がたくさんなっている。葉と同じ色なので近くで見ないと見落しそうだ。ひとつを取って、手のひらにのせた。かわいい。一目で好きになった。何年も経って、ふうせんかずらだと知った。
五十年も昔のことである。今なら、考えられないことだ。教室でのひとつの出来事として終らないだろう。
ニュースで、給食費を払えるのに払わない親がいると報じていた。払えない家庭があるとも報じていた。いっそ、無料にしてはどうかという意見もある。
今であれば、スズキ君はあんな辛い目に会わなくて済んだのではないか。でも、時代のせいだけとは思いたくない。教師としての心があったらと思う。
今までの担任の先生は、接し方は違ってもいい先生ばかりだった。顔も名前も覚えている。会えるなら、一度会いたい。でも、四年生の担任は名前が思い出せない。小柄で眼鏡を掛けた怖い先生だった。いくら記憶をたどっても思い出せない。無意識のうちに拒んでいるのかもしれない。
ふうせんかずらを見ると、あの日を思い出す。沈黙の教室。心の中でしか言えなかった私。先生を許せない気持ち。今、思うと、スズキ君の思いは私の相像をはるかに越えていたのではないか。小学四年生だった。そんなに強くなかったのではないかと、思えてきた。
今、スズキ君はどのような人生を送っているのだろう。平凡で幸せ。それとも、成功しているかもしれない。会うこともないだろう、会っていても分からないだろう。
悲しい記憶なのに、ふうせんかずらが好きで、今年も又、私は種をまいている。風に揺れるふうせんかずらを見たくて……。
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