花瓶
一週間後
十四年ぶりに花が入った花瓶は志穂を背中から見つめてくれている。けれども、その花の届け人は、あれからちょうど一週間経つというのにいっこうに現れてはくれなかった。ちょっと浮かれた気分になっていた。花が枯れない間に必ず来ますからというあの夜に耳にした最後のセリフが一週間ずっと志穂の体に心地よく絡み付いていた。
先週の土曜日、袋町の狭い路地に初雪が舞った夜だった。八時過ぎだったか黒のコートに身を包んだその男は色とりどりの華やかな花束を片手に店にやって来た。
「はじめてですが、いいですか?」
囁くような低くて甘い声はどこかで聞いたような気がした。
この三、四年、金曜日以外は閑古鳥が鳴くようになってしまった志穂の店に、その時も客は一人としていなかった。ひと昔前なら土曜日は金曜日に次いで客の入りが良かったものだが、この頃は土曜日の男たちは家庭の茶の間にすっかり奪われてしまっている。今夜は早く店を閉めようと思っていたところの来客だった。
「これ、よかったら飾ってもらえます?」
カウンターに無造作に置いた花束を指さして男は言った。花束をうっすらと包んでいた初雪は消え、水滴となってチカチカ光っていた。
「よろしいんですか? 誰かに差し上げるものとちがうんですか?」
「そのつもりだったんですが、今、すっぽかされ、ふられてきました」
止まり木の上で、男は悲劇のヒーローを演じるように両手を広げ天井を仰いだ。日本酒独特の甘酸っぱい匂いが少し漂っていた。
「それで、見知らぬ店で、やけ酒をあおりにきやったてわけですか?」
「まあ、そんなところです。というか、タクシー拾って家にまっすぐ帰ろうと思って路地を歩いてたらお店の灯りが目に入って、お店の名前に誘われて、ついふらっと……」
志穂がもう三十年やっている店の名前は、〈いそしぎ〉だ。
「ジャズ、好きなんですか?」
男のその質問は、まったく同じだった。十八年前に別の男の口から発せられたものと。志穂は十八年前と同じ答えをした。
「ええ、まあほんのちょっと……」
そして、志穂は壁の棚の上の花瓶の方を向いて、十四年ぶりに、その花瓶の中に花を入れたのだった。それまで頑なに操を守り通してきたような活けずの花瓶であったにもかかわらず、不思議なくらい抵抗がなかった。
男に背を向け花瓶に花を入れながら志穂は聞いてみた。
「あなた、おいくつ?」
「三十六です」
偶然が次から次へと重なる奇跡が長く生きているとあるらしい。三十六という年齢が花をいじる志穂の手を止めさせてしまう。
「一番いい時ですね」
「いえ、一番苦しい時です」
そんなやりとりも、十八年前に確か交わしたような気がしてくる。
「それにしても、素敵な花瓶ですね。信楽焼ですか?」
「ええ。焼き物に興味がおありですか?」
「いえ、僕はまったく。ただ水口に住んでる友だちが焼き物好きで、遊びに行くと、時々見せてくれるんで」
「そう」
「一見単純に見えるものほど実は奥が深いって、そいつは言うんですが、その火色の花瓶、そんなニュアンスがありますね」
「ニュアンスですか?」
「そう、ニュアンスです。正直なところ、よくわからないですけど」
男は舌を出してはにかんで笑った。花瓶が店にやって来たのは、確か十六年前だ。夕日に染まる琵琶湖をイメージして作ったと、その贈り主は志穂に言って手渡してきた。十六年前に使われた外来語はニュアンスではなくイメージだったとふと思い出し、思わず志穂の口元も緩んだ。
声も似ているが、似ているのはなんといってもその眼差しだと思った。新聞の書籍の広告記事や週刊誌で時々目にする帽子を被った詩人の中原中也の写真の目。憂いがあってシャイで、それでもまっすぐ前を見ていて、その奥にどこか野心のようなものが感じられるあんなふうな目だ。カウンターを挟んで、一メートル余り向こうにあるその眼差しが、胸の奥底にまで入り込んでくる。
目の前にいる男と眼差しが瓜二つだった男は、十八年前に同じようにふらりと店に現れた。男は三十六歳で、その時、志穂は四十二歳だった。男は独身で、その頃志穂には三年前に死んだ二つ年上の夫と高校生だった娘と中学生だった息子がいた。そもそも志穂が袋町でスナックを営む決心をしたのは夫が職を転々と替え何をやっても長続きしなかったことが一番の理由だったが、その頃、夫は確かタクシーの運転手を辞めたばかりで芹川近くの借家と銀座街のパチンコ屋を往復するのが日課になっていた。夫の甲斐性のなさにはあきれてはいたものの、気が向くと風呂掃除も洗い物もしてくれ、すくすくと立派に育った二人の子どももいて、十分に幸せだった。
二度、三度と店にやって来るようになり、胸に入り込んできた眼差しが奥底に居ついて宿るようになってしまった。「志穂さん、一度、外で食事しません?」と四度目に店に来た時、桐谷健介は誘ってきた。夕焼けの色に染まっていく琵琶湖を背にして唇を重ね合わせ、それからはもう急勾配の斜面を転がり落ちるように志穂は健介と深い仲になっていった。結婚して十八年目、店を始めて十二年目、志穂にとってはじめての出来事だった。どうしてこうなったのだろう? どうしてああなったのだろう? と、健介と付き合い続けていた四年の間もその後も、その理由をあれこれ探し続けたものだが、そんな問いかけに数学のようなひとつきりの正解は現れてこなかった。健介は陶芸家だった、いや正確には陶芸家になることを夢見て目指していた今でいうフリーターだった。
健介と同じような目をしている目の前の男も、ひょっとして、何かになろうともがきがんばり夢を追いかけているのだろうか? そんなことをぼんやりと考えながら男を見ていたら、薄目に作ったグラスの水割りを飲みほして男はまっすぐに見返してきて言うのだった。
「このお店、気に入りました。また、来ていいですか?」
「どこが気に入ったの?」
「ママさんが素敵だからです」
「うまいわね」
「ホントですよ。ママさんのお名前、なんていうんですか?」
体中の血液が熱くなった。酒が入っての戯言だと思いつつも喜びが無邪気にスタッカートして体中を駆け巡っていく。そんな気分は十四年ぶりだった。もう二度と味わうことはないと思っていた。
また来ますから、と言って帰った気に入ったお客が二度と来ないことはよくあるし、慣れっこになってもいる。けれども、今回だけは違うような気がして、この一週間ずっと落ち着かない。化粧も入念にし、一番お気に入りの服を着て、店の扉が開く度に胸を高鳴らせている。
待つことと道連れのときめきと不安は、夏に六十歳になった志穂を可笑しいほどに女に戻らせてしまう。
「志穂さん、なんや今日はえらいきれいやなあ」
「目の錯覚とちがいますか?」
「ほんかあ、ワシももうトシやなあ」
摘まんだスルメを小皿のマヨネーズに何度も付けながら尚太郎が目を開けたり閉じたりしている。六十三歳の尚太郎は近くのH商店街の魚屋の大将である。
「いやショーちゃんの目が悪うなったんちゃうで。オレも今日は志穂さんがきれいに見えてしょうがないわ」
と、『煙が目にしみる』を歌いながら間奏の間にすっとマイク越しの声で割り込んできたのはもうすぐ六十五歳になる和菓子店の武雄だ。
尚太郎も武雄も常連客で、どちらの息子も店を継がずサラリーマンになっていて、どちらも飲み過ぎると店がなくなることの愚痴が出る。戦後すぐに創業している尚太郎や武雄の店と比較するのはおこがましいが、自分の店もあと何年続けることができるだろうと、二人が顔を見せるとついそんなことが頭をかすめてしまう近頃の志穂である。
袋町にスナックを開いてちょうど三十年になる。袋町も随分と変わった。路地を行き交う人も、止まり木に座る客も、その飲み方も、その酔い方も、カウンターを挟んでの会話も、何もかもが変わり果てた。まず何よりも独身の二十代はもちろんだが三十代、四十代の会社や役所の中堅どころが近頃さっぱりと顔を見せなくなった。どこもかしこも禁煙だらけになったこの十年だが、そのタバコと歩みを同じくするように酒のほうも世の中に禁酒の波が押し寄せてきているのではないかと思ってしまうほどだ。接待や宴会の締めにスナックへという流れが見られなくなってしまっている。仕事がらみの酒は消え、そして、仕事の仲間同士の酒というのも少なくなってきている気がする。職場の同僚三人、四人が肩を組んで入ってきて、職場の話、上司の話、家庭の話、野球の話、いい女の話でワイワイガヤガヤ盛り上がる、といったスナック特有の風景がカウンターの向こうに見られなくなってきている。三十代、四十代の男たちはまっすぐに家に帰り、家で妻や子といっしょにアットホームな夕食を食べているのだろうか。二十代の独身男たちは酒が嫌いなのだろうか、スナックで喋るくらいならケータイ片手にメールをするというのか。店を出した頃のことを思い出す度に今の有り様とつい比較してしまい、ため息がこぼれてしまう。パート感覚で週末の夜だけ手伝っていた叔母のスナックが、突然叔母が病死してしまったため、志穂が継ぐ形になったのは一九八十年代のはじめ、日本がバブルの景気に沸いていた頃だった。店の造作はそのままに店の名前だけを変えて、志穂は三十歳のママとしてデビューした。その頃、袋町の夜は賑やかだった。碁盤の目になっている細い路地という路地が、人で溢れていた。カラオケが流行り出した頃でもあり、どのスナックのカウンターにもマイクを握る男たちが群がっていた。あの頃、店の経営についてあれこれ思案した記憶がまるでない、夜の七時に店を開けさえしていれば客もお金もなんの苦労もなく転がり込んできた。
「今日は、あの娘( こ)、こうへんのか?」
尚太郎が尋ねたあの娘とは、三か月ほど前から週末にだけ来てもらっている滋賀大の学生、陽子である。
「基本的に金曜日だけのフライデーガールやもなんなあ」
志穂が答える前に武雄が言った。今夜は土曜日。
「ショーちゃん、陽子ちゃんがお気に入りかいな? 昔から若い娘好きやからなあ。でも、やめてよね、昔みたいに刃傷沙汰起こすんだけは」
尚太郎は吹き出すように笑いながらカウンターに顔をくっつける。
「もう、あんなエネルギーはないわ。しかし、今、あんな娘と恋愛できたら、それこそ最後の恋やなあ」
「最後の恋、おいらくの恋」
「タケさん、最後の恋っていう言葉はええけど、おいらくの恋っていうのは言葉の響きがちょっとさびしいな」
魚屋を営む傍ら地元のスポーツ少年団で野球の指導を長くやっていた尚太郎は体も引き締まっていて五分刈りの精悍な顔つきで若々しい。二十年ほど前のことになるが、この店にサザエさんみたいな奥さんが乗り込んできた。その頃店を手伝ってもらっていた細身で色白の二十代の女性と尚太郎が仲良くなってしまって、その秘密が奥さんの耳に入ってしまったためだった。奥さんはカウンターにあったビール瓶を振り回し、半狂乱になった。あの夜以来、尚太郎の浮気癖にはきれいにピリオドが打たれた、と一応見えるが本当のところはどうか……。
「そっちはどうなん? そうそう、未亡人になったふくよかなお客さん、その後、どうなん?」
「時々来てくれやってな、来やる度に、胸がドキドキする」
「あい変わらずかわいいなあ、タケさんは。うちにはあんまり顔見せはらへんけど、確かにきれいな人や」
武雄が胸を弾ませている四十代の女性を志穂は見たことはないが、H商店街近くに住み、高校の教師をしていて、昨年夫を肺癌で亡くしたとのこと。夫を亡くしてから法事のためのお菓子を武雄の店に求めにやって来るようになり、武雄はその都度、女性への賛辞の言葉を水割りのグラスといっしょにカウンターの上に並べている。尚太郎と違って武雄は昔から熟女が好みだ。
「あんなきれいな人とやったら、何もかも捨ててもええなあ」
「おいおいタケさん、だいじょうぶかいな」
尚太郎と武雄がやって来ると、店は楽しくなる。この二人のやりとりは昔から少しも変わらない気がする。二人とも、酒が好きで、食べることが好きで、女が好きで、そしてジャズが好きだ。特に武雄は若い頃、和菓子屋を継ぐかプロのギタリストになるかの二者択一に悩んだ時期もあったほどの、ジャズギター好きだ。髪がかなり薄くなってしまった武雄は少々メタボ気味だが指先だけは今も惚れ惚れするほど長くきれいだ。志穂が店を開いた頃からずっと武雄はギターの生演奏をやってくれ、武雄の黒いギターはいつも壁に掛かっている。
「あれっ! あの花瓶に花が入ってる!」
武雄が心底から驚いたような声を上げた。
「あの花瓶はママの青春……」
意味ありげな笑みを浮かべて武雄が志穂を見つめてきた。当時、尚太郎は何も知らなかったが、花瓶の贈り主の桐谷健介とのことを、武雄は薄々気づいていたようなのだ。志穂はいっぺんに頬が赤く染まってしまったのに気づいた。火照った顔のやり場に困りながら、こんなことは何年ぶりだろうと思う。
「なんや、なんや、ワシだけが知らん話かいな」
尚太郎が少年のようにむくれて口をとんがらす。
たまらなくなってくるりと二人に背を向けると、カスミソウに包まれた真っ赤なバラの花びらは一週間前となんら変わることなく艶やかで美しく、花瓶はなんだか苦笑しているようでも、あきれているようでもあった。
二週間後
陽子の声は上質のベルベットみたいだ。華やかで艶があって煌めいていて、エレガントでありながらキュートだ。武雄が奏でるギターの音に、乗っかって、酔いしれ、遊んで、子猫みたいに絡みついていく。高校時代にサラ・ボーンのCDを聞いて覚えたという『ラヴァース・コンチェルト』を軽やかに歌い上げる陽子に、カウンターにずらりと並んだ幾つもの目が釘付けになっている。
顔が動く度に長い髪が揺れて化粧気のない頬に被さったり離れたりする。陽子はスリムなジーンズにざっくりとした真っ赤なVネックのセーターを着ていて、肘まで袖を捲り上げた華奢な腕がマイクを持っている姿が、可愛くりりしい。
志穂は歌う陽子を見ていると、たまらなく愛しくなる。近江八幡に嫁いだ長女の二人の子、つまりは孫は二人ともまだ小学生だが、大学生の陽子にも孫に相対する時の心持ちと似通ったものを抱いてしまう。「わたし、ジャズシンガーになりたいんです」と、その大きな瞳をキラキラ輝かせて三か月前の月のきれいな夜に突然店に現れた陽子。「週末だけ働かせてください。一生懸命働きますから、時々、お客さんの前で歌わせてください」と言ってきて、その夜からカウンターの中に立つようになり、その夜から武雄のギターの伴奏で歌うようになった。ちょうど志穂の三分の一の年齢、今二十歳の陽子は滋賀大の軽音楽のサークルに入っていて、経済学の勉強よりもジャズの方に気持ちは完全に傾いているようだ。「ひょっとしたら、この店から、はじめてプロのジャズシンガーが育っていくかもしれんで」と武雄は真顔で時々そんなことを言う。この三十年の間に、店には四、五人のプロの女性ジャズシンガーが客として来店したことがあって、彼女らの歌声を耳にしてきたが、それらと比較しても陽子はまったく遜色ないと志穂は確かに思う。愛しいと思うと同時に、その成長を見守っていきたいとも、この頃思うようになっていきている。
この年になってようやく本音の本音でもって女としてではなくひとりの人間として相対する同性を、つまりは同じカウンターの中に立つ女性を見ることができるようになったと思う志穂だった。なんとかそんなふうに無理なくなれてきたのは五年位前からだろうか。この三十年の間に、短くて一日きり長くて八年、ざっと二十人位の女性にカウンターのヘルプを頼んできたが、その二十人のほとんどに大なり小なり、同じ女であることからくる感情をぶつけてしまうところがどうしてもあった。もちろんそれは露骨な形ではなく、常に胸にしまおうと意識していたことであって、年を重ねるにつれより小さくより弱くなってきていたが、でもその根本のところの湧き上がってくる感情はなかなか変わらなかった。きれいな女性が入って自分より客受けがいいと嫉妬し、喋りがうまい女性が入って客と盛り上がっていると嫉妬し、胸に、脚に、髪に、目に、声に、知性に、優しさに、気配りに、甘え上手に、そして、若さにも……やはり同じ女として嫉妬していた。人気者が店に来てくれれば経営者としては喜ぶべきはずなのに、人気者が癪に障った。四十、四十五になっても、自分の年齢の半分の二十代の女性を向こうに回しやっぱりどこかでつい張り合ってしまっていた。人を使う器の大きさが自分にはないのだと思った。スナックのママにはつくづく向いていないと思った。女性が辞めていくと自己嫌悪に陥ってしばらく一人きりできりもりし、それに疲れるとまた新しい女性に来てもらい、またうまくいかなくなってまた辞めていき、するとまた自己嫌悪して、といった塩梅の情けないばかりの繰り返し。
そんな狭い心に五十代も半ばに入った頃からやっとのことでピリオドが打てるようになった。けれども因果なもので、そうなってからは、なかなか素敵な女性が現れてはくれなかった。そして、そんな中、奇跡のように現れきたのが陽子というわけだ。
「へー、そうなんですか? いそしぎって、鳥の名前なんですか。中学生の頃ラジオではじめて曲を耳にした時から、いったいどういう意味なのかなあって思ってて、ずっとそのままになってて」
「実はね、正直に内幕をバラすと、わたしは最初、ジャズバーっていうか、ジャズのスナックにしようなんてこれっぽっちも思ってなかったんよ。高校生の時、今の三番町スクエアの辺りはアーケードの市場になってて、その市場の入り口に木造二階建ての映画館があって、その映画館で土曜日の午後の学校の帰りに、生まれてはじめてひとりきりで見た映画が『いそしぎ』で、もう信じられないくらいに泣いて泣いて、わたしはその映画のタイトルからお店の名前を決めたんやけど、お店をオープンしたら、やって来る人みんなジャズの店だと思ってドアを開けたみたいで、それで、日が経つにつれ、どんどんほんまもんのジャズのお店になっていったっていうか……」
「ママさん、その映画、どういう映画だったんですか?」
「ひとことで言うと、まあ、不倫のメロドラマかな。エリザベス・テイラーとリチャード・バートンが主演」
「エリザベス・テイラーって、クレオパトラを演じた人でしょう?」
「そうそう。エリザベス・テイラーは『いそしぎ』で共演したリチャード・バートンと二度結婚してるんよ」
「同じ相手と二度ですか?」
「信じられない!」
はじめてやって来た陽子との面接は、そんな調子だった。話の最後に「今日から動く?」と尋ねたら、陽子は間髪入れず「ありがとうございます!」と威勢のいい声とともに頭をペコンと大きく下げた。
武雄がギターで『いそしぎ』のメロディを奏で始めた。ギターの柔らかく哀愁を帯びた音色が狭い店内を包み込んでしまう。ギターの音は響き続け、そこに陽子の言葉が被さる。
「次は、ママさんに捧げます。ママさんがセブンティーンの頃に見たという映画『いそしぎ』のテーマ、このお店のテーマソングでもあります『シャドウ・オブ・ユア・スマイル』。タケさん、日本語訳お願いします」
フラれた武雄がギターを爪弾きながら頷いて笑顔で答える。
「あなたの笑顔の面影」
そうなんだ、日本語に訳せば笑顔の面影なんだと、改めて志穂は思った。十四年間、ずっと、花瓶の贈り主の笑顔を思い続けてきて、そして、この二週間はずっと花束の贈り主の笑顔を思い続けてきた。花瓶の中の花は、枯れてしまったものは捨て、残っているのはもう四分の一。バラの花ももうない。
陽子がうんと大人っぽい声を出して、どこまでもロマンティックに歌い始めた。でも正直言って、まだこの歌は陽子にはミスマッチだと、素人ながらにも思えてしまう。
カウンターだけの店で、そのカウンターにも八人しか座れないが、尚太郎と二人連れの市役所の職員と陽子が連れてきた五人の大学の友達でカウンターはいっぱいで店は満席状態である。武雄と陽子は、カウンター横に作られた二メートル四方位の狭いスペースで体をくっつけ合うようにして演奏し歌っている。土曜日が満席になるのは実に久しぶりだ。今夜の陽子はあくまで客として大学生として友達を引き連れて来てくれている。
陽子の歌声が背伸び気味の『いそしぎ』からリラックスしたアップテンポの『君の瞳に恋してる』に変わった時だった。店のドアが開いた。花束が見えた。
二週間の時は流れて、ついに、とうとう、待ち侘びた男がまた花束を抱えて現れたのだった。
一か月後
新しい年になった。新春を迎えた店の花瓶には色とりどりの花が満開である。この二、三日は店を開ける時に水を変え、店を閉める時にもまた水を変えている。水を変えている時、鼻歌を口ずさんでいる自分に志穂は気づき苦笑してしまう。
恋をしている。間違いなくそう思う。会っていない時も四六時中、相手のことを考えている。そして、暇があったら鏡を見ている。
皺、弛み、浮腫み、染み、黒子、白髪、加齢臭……と六十歳という年齢からくるところのあらゆるマイナスの部分に溜め息をつくと同時に、でも、まだ歯もきれいで肌も白く乳房の形もいいし腹も出はいないと、六十歳という年齢の割にはいいんじゃないかと思える部分を探し出しては鏡の中に笑みを浮かべる。もちろん客観的に見ればマイナスの部分が断然多いにもかかわらず、見つけ出す二つ三つきりしかないプラスの部分がすべてのマイナスをいっきに帳消しにしてしまう魔法の中に身を置いてしまうのが恋だった。
恋をしたので、いろんなことが変わってきていることに気づく。バカみたいだが、この頃新しい下着ばかりを身につけている。化粧も念入りになり、体の中で一番自信のある胸元を強調した服ばかりを着て、踵の高い靴を穿いている。さらに、目に耳に鼻に入ってくるこの世界のすべてのものに対してすっかり敏感になっている自分に気づく志穂だった。
開店前の掃除が随分と入念になっている。一度拭いたはずのカウンターを再び拭いてしまうなんてことがザラになってきている。
恋することは不思議だ。
クリスマス前の土曜日に男はようやく現れたが、あいにく店は満席で、男には帰ってもらった。けれども、その時志穂は男の連絡先を聞き、そして、「今日のお詫びに、今度食事をおごらせて」と大胆にも言った。その誘いの言葉は瞬時の躊躇いもなく口から飛び出した。少し驚いたような顔になった男と見つめ合った。男ははにかんだ笑顔を浮かべて「喜んで!」と言った。背にした店のドアの向こう側から陽子が客達の手拍子といっしょに歌う『君の瞳に恋してる』がずっと零れ出るように溢れ出るように聞こえてきていた。
そして、暮れも押し詰まった日曜日、久しぶりに着物を着た志穂は男と食事をした。琵琶湖の畔にある、一品一品が実にゆっくりと出てくる和食の創作料理の店で、和室で向い合って、志穂は男を飽きることなく見つめ続けていたものだ。
志穂が六十歳になって十四年ぶりに恋をした男の名は、星野輝久。輝久はF自動車の彦根市内の営業所に勤務しているという。「でも、こんな年になって恥ずかしいんですが、地に足が着いていないっていうか、休みの日には下手な小説を書いていて、そっちでいつの日にか成功したいっていう夢がどうしても捨てきれなくて、仕事に全力投球していない宙ぶらりんの甲斐性なしの男なんです」と話す輝久を見つめながら、志穂は、やっぱり私の勘は当たったと思った。「大学が東京で、大学出てからもしばらく東京にいたもんですから、話し方が違うってよく言われますが、生まれも育ちも滋賀県米原です。まあ都落ちしてふるさとに逃げて帰ってきて、いつのまにやらこんないい年になってしまったっていうのに、結婚もせずにふらふらと生きてます。滋賀県ってやっぱりほら近江商人の土地柄っていうか質素倹約、道楽を慎んで、みんなちゃんと家庭を持って毎日こつこつ努力してお金儲けに精を出すっていうか、そういうしっかりしたまっとうな生き方をしてないと後ろ指さされるような感じがあるでしょう、だから自分なんか……」。
輝久の話を聞きながら、胸が締め付けられ、志穂は本当に体の芯が痛くなるのを感じた。その感情は桐谷健介と出会った頃に抱いたものとまったく同じだった。それは今店にいる陽子をわが子のように見守っていてやりたいと思う感情とは異質なものだ。見守っていてやりたいというより、近づいて手を差し伸べ、この胸の中にぎゅっと抱え込み、自分のできる限りの支援をしてやりたい、たとえどんなことでもしてやりたい、と思えてしまう。それはこの世であくまで私だけがしてやりたいと思う。自分の中にある人を愛しむ気持ちのすべてを注ぎ込みたい。そして、星野輝久を自分だけのものにしたいーー。
何かになることを夢見てもがいている年下のヤワな男に惹かれてしまう、そんな困った一つの癖を、花瓶の贈り主、作り手である桐谷健介は花瓶とともに志穂に残してくれたらしかった。スナックを始めて一体何人の客、何人の男と出会ってきただろう。三十年の間に見てきた数えきれない男の種類の中で、自分が行き着いたゴールの困った一つの好み、タイプだった。ちなみにそのタイプは長年連れ添った亡き夫の中には微塵もないものだった。
「近江を舞台にして、近江に生きる人たちを主人公にして、物語を紡ぎ出したいんですね。名もなき普通の男と女が近江の地で生きている、琵琶湖を見つめながら暮らしている、最近、平凡さっていうか、人が土地とともに暮らす日常みたいなものに吸い寄せられていて、だから、なんていうのかなあ、平凡な日常の中に咲いた一輪の花みたいなもの、近江という器の中に咲かせたいわけです」
デザートが運ばれてきた頃になると、星野輝久は瞳を輝かせて小説について熱く話していた。小説の話になった途端に輝久の目が真剣なものになった。そして饒舌になった。そういう目の前の男が心地よかった。志穂はただ頷き、聞いているだけで幸せな気分に包まれた。そして、自分でも信じられないような甘えた声を出していた。
「ねえ……」
「なんですか?」
「あなたが小説家になれるよう、わたし、そばで応援してていい?」
怖いぐらいに鋭く光っていた輝久の瞳がルノアールの絵画のように甘く柔らかなタッチに包まれた。
「志穂さんに応援してもらえるのは、最高にうれしいです」
「ほんとう?」
「はい。志穂さんって文句なしに素敵な大人の女性って感じします」
「うれしい!」
陽子でも出さないような女子高校生みたいなはしゃいだ声を出してしまい、志穂は思わず赤面してしまった。自分は六十歳、目の前の輝久は三十六歳。ちょうど二回り二十四歳の年の差。なのに、輝久を前にして、そんなことはきれいに忘れてしまった自分がいる。それにしても、輝久は一体自分のことを女としてどう思っているのだろう? でも、それは聞くまい、と志穂は痛い胸に強く言い聞かせる。
「週末以外はお客さんはほとんどこうへんし、二、三人が来やったとしてもまあ九時以降かな、そやから会社が終わっていつでも気軽に寄ってくれたらいいよ。書斎代りにお店のカウンター使ってくれていいし。使ってください。お金なんかもちろんいらへんよ。でも、一つだけお願い聞いてくれる?」
「なんですか?」
「時々でいいさかい、また、お花、持ってきてくれる?」
「喜んで!」
元気な声といっしょに見せられたその輝久の笑顔をこの胸の中に迎え入れたくなる志穂だった。「ねえ、あなたのその、喜んで! って言葉、それってよく言うん?」「大学の時に居酒屋でバイトしてたんで、それでつい」「そうなん、ねえ、もう一回言ってみて」「喜んで!」……交わし合う些細なやりとりにもスタッカートがついた。気持ちが弾む。体が弾む。言葉が弾む。
その食事の後すぐに新しい年はやってきて、仕事始めの一日を終えた輝久は約束通り花束を持って、待ってましたとばかり店に来てくれた。そして、他に誰もいないカウンターに鞄から取り出した小型の銀色のパソコンを置いて、一人の客が入って来るまでの一時間半位の間、キーを叩いていた。小説の話をしていた時以上の真摯な怖い目つきでもって。
「おなか、へってない? 何か作ろうか?」
そう声を掛けた後、まるで新妻のセリフみたいだと可笑しくなり舌を出し、話しかけたい気持ちを堪え邪魔しないように口には固いチャックをし、エロール・ガーナーのピアノオンリーのジャズのCDをボリュームを落として流し続けた。
もらった花束を花瓶に入れながら、食器棚を掃除しながら、ウィスキーの瓶を拭きながら、ちらちら輝久を見た。その横顔はたまなく男らしかった。その異性の中に一つきりでもいいから心から尊敬する部分があればその異性を愛することができると、あるテレビ番組の中で大学の先生が言っていたことを思い出す。志穂は文句なしに小説に向かう輝久を愛しく思っていた。何かに夢中になる男を自分が好ましく思うのは、自分自身にそういうものがないからかもしれないと思う志穂だった。
その次の日の夜も、輝久は仕事を終えるとわが家にまっすぐに帰るように志穂が待つ店にやって来た。そしてコーヒーを飲みながら同じように銀色のパソコンを開いてキーを叩いた。志穂は今度はウェス・モンゴメリーのギターのCDをかけた。七時半頃から九時過ぎまで輝久はパソコンに向かい続けた。「進んでる?」と尋ねると「ここ、いいです。自分の部屋よりいいです」と返ってきた。「じゃあ、平日は毎日くれば?」と言うと「喜んで!」とまた例のセリフが威勢よく返ってきた。その夜、輝久が帰ってから入れ替わるようにして武雄がひょっこり顔を出した。武雄がギターを膝の上に載せてちびちび水割りを飲み出すと、店の電話が鳴った。志穂が出ると電話はプツリと切れた。実は新しい年になってから、二日に一度の割合で志穂が出るとすぐに切れる電話が繰り返されてかかってきていた。
「いややわ、もう、イタズラ電話」
受話器を投げ捨てるように置いた志穂に武雄がギターをポロンと奏でて言った。
「ひょっとして、花瓶の主が嫉妬の炎を燃やしてるんちゃうか?」
「武雄さん、おかしなこと言わんといてよ」
武雄に背を向けて、輝久からの花を見て、その花を包み込む桐谷健介からの花瓶を見た。今の自分を見たら、健介はどんな顔をするだろうか? そう思ったものの、花瓶の中に健介の面影はもうまったく浮かんでこない志穂だった。
週末は来ないだろうと思っていたが、今夜は金曜日だというのに、カウンターがほとんどいっぱいになった十一時頃に、輝久がやって来た。この頃すっかり店のレギュラーとなってしまった武雄のギター伴奏に陽子が歌うフライデー・ナイト・ライブの最中だった。
「いいん? パソコンなんてとてもできる状況じゃないけど」
「いいんです。今夜は飲みに来ましたから」
陽子は白のコットンのパンツに真っ黒のTシャツ一枚の姿で『クライ・ミー・ア・リバー』をしっとりと歌い上げていた。イミテーションであろう淡いブルーの小指の爪位の大きさの石がキラキラ光り、その上の陽子の二つの大きな目はそれ以上に煌めいている。二十歳という若さは、それだけでもう立派な宝石だとつくづく思う。
輝久は入り口のカウンターの一つきり空いてあった止まり木に腰を下ろした。はじめて来た時と同じように日本酒の匂いがしていた。
「どこかで飲んできたん?」
「ちょっとそこのおでん屋さんで。俺、おでん好きなんです」
「そう」
じゃあまた家で作って持ってきてあげると、言いそうになるのをぐっと堪える。輝久の左隣では三十代のカップルが陽子の歌声に耳を傾けながら、時折見つめ合い囁き合う。その三十代のカップルは市内の中学校の先生だ。男は社会で女は英語の先生。先生たちの隣りにもまたカップルでこちらは銀行員の二十代の二人。陽子がライブをやるようになって金曜日の志穂の店にはカップルが多くなった。やっぱりジャズボーカルは男と女のための音楽なのかもしれなかった。銀行員のカップルの隣に陽子ファンのH商店街のヤモメ男が二人、そして一番端に尚太郎がでーんと座り店の定員八人となり、ここのところずっと金曜日はギターの武雄と陽子が座る止まり木はまずない。歌い終わった陽子と武雄がマイク越しに喋る。
「タケさん、『クライ・ミー・ア・リバー』って流れる川のように私のために泣きなさいって歌でしょう?」
「自分を捨てた相手への恨みがこもってるんやろうね、そのくらい泣いてくれないと許してあげないって」
「けっこうヘビーですね」
「そう、陽子ちゃん、まだそんな経験ないんやろ?」
二人の掛け合いに、カウンターから尚太郎が大声で突っ込む。
「陽子ちゃん、経験したくなったら、いつでも言いや!」
みんながドッと笑う中、陽子が舌を出してアカンベーをする。
「あの二人、プロの方ですか?」
輝久が聞いてきた。ギターもボーカルも二人ともアマチュアだと答えると、「信じられないですね」と輝久は驚いた様子だった。
「ねえ、それより、これ……」
志穂は輝久の方に茶封筒を滑らせた。
「何ですか?」
「あなた、この前言ってたでしょう? 自費出版したいって。自由に使ってくれていいから」
茶封筒の中には二百万余りの金額が印字されてある銀行の通帳とカードが入っている。輝久は封筒の中を覗いてさっき以上に驚いた複雑な顔になった。
「ママ、氷がないでえ!」
また尚太郎の大声がする。そんな他愛無い言葉なのに二組のカップルは何故だか笑う。恋している人たちは箸がこけても楽しいようだ。志穂も笑いながら尚太郎の元へと走る。「氷がきた。ア、イースね」とダシャレを言う尚太郎に氷を差し出してから、輝久の方に目をやると、カウンターの上の茶封筒はなくなっていた。
三か月後
梅の香りが店内にはほのかに漂っている。花瓶の中から春の到来を告げている梅は、輝久が住み暮らす米原の家の庭に咲いている白梅のひと枝である。
志穂の通帳を手にした輝久はすぐに自費出版の契約をした。自分の本を出せるということがよっぽどうれしかったのか、契約を結んだという日の夜、喜びを満面に表して店に入ってきた。輝久は百万だけを通帳から下ろしたようで志穂に通帳を返してきた。二百万近く支払ったようだが、残りは自分の甲斐性でなんとかなったということだ。「お金は必ずお返しします」と輝久は力説したが、志穂は「出世払いでけっこうよ」と言った。お金など本当にどうでもいいのだった、百万円というお金がどうでもいいものに感じられた、輝久が自分のことをずっと好きでいてくれさえすればそれで良かった。三十三歳になる志穂の息子は今だに独身で大阪のビール会社の社宅暮らしだが、その実の息子には一万円すら渡したことがないというのに、出会って間もない赤の他人に百万円使われることになんら抵抗を感じない今の自分の感覚が不思議だった。けれどもこの感覚に包まれたのははじめてのことではない、十八年前に健介と出会った頃にもまったく同じようなことをしている志穂だった。健介には三百万円は貢いでしまっていて、そのお金は結局戻ってこなかった。
二月になって、輝久は週に二回は店のカウンターでアルコールなしでパソコンに向かい、そして、金曜日の夜にも必ずやって来て一週間の疲れを癒すように水割り片手に陽子のライブに耳を傾けるようになった。それで、陽子と輝久もカウンターを挟んで言葉を交わすようになった。
「志穂さん、あのいつもカウンターの端っこに座るスーツの男の人、ちょっとシンキクサイっていうか、湿度高いっていうか、わたし、ああいうタイプって苦手やわ」
開店準備をしている時、陽子は輝久の話をしてきた。
「まあ陽子ちゃんとは十六もトシが離れてるしね」
「へえー、あの人、三十六なんや。で、独身なんですか?」
「そう」
「なんか昭和の匂いがするっていうか、音楽で言えば中島みゆきとか尾崎豊みたいっていうか……」
そんな陽子の輝久評には吹き出すように笑ってしまった。自分が大好きな異性の酷評も、さすがに僅か二十歳の娘の口から発せられると、そのあどけない可愛さ故に逆に愉快な気分になってしまう。
「陽子ちゃん、ああいう男の人、彼氏にどう?」
「カンベンしてください。わたし、あの男の人ならまだ尚太郎さんのほうがいい。尚太郎さんって、イタリアのチョイ悪オヤジって感じで、キュートやし」
「へー、ショーちゃん! 今度ショーちゃんに言っとくわ。ショーちゃん、陽子ちゃんの大ファンやから」
そんな会話を交わした夜、陽子のライブの最中、志穂は輝久に小声で聞いてみた。
「ねえ、陽子ちゃんみたいに、若くてキラキラしてる女の子、あなた、どうなん?」
少し間があって、それから輝久はにっこりと笑って言うのだった。
「俺、年下って基本的にダメなんです」
「どうして?」
「話しが噛み合わないっていうか、リズムが自分と違うっていうか……」
陽子の輝久評を耳にしていただけに、笑いが込み上げてくる志穂だった。その笑いの奥で、目の前の大好きな男が今マイクを握りジャズを歌っている天使のような女の子と恋に陥ることは絶対ないという安心感のようなものが横たわっていることを志穂は意識していた。
そして、三月初めのなごり雪の夜だ、誰も来そうにもない店を閉めようとしていたところへ、武雄と尚太郎の二人がつるんで、かなり酔っぱらって入ってきた。店に入ってくるなり、尚太郎が、
「最後の恋も、もう終わりや!」
と大声を上げた。どうしたの? と尋ねると、カウンターにうつ伏した尚太郎に代わって武雄がこう言った。
「ショーちゃん、昨日の晩、彦根駅前の中華料理の店であった高校の同窓会に行ってきたそうなんやけど、その帰りに、陽子ちゃんといつもライブの時にカウンターの隅っこに座ってる男がピッタリ寄り添って仲良く歩いてるのを見たって言うんや。人違いちゃうかって言うんやけどな」
「あほか、大好きな陽子ちゃんのこと、見間違うわけないわ」
志穂は平静を装うのに懸命だった。血の気が引いていき、めまいがしてくらくらしてきた。
「人違いちゃうとしたら、駅のところで偶然二人は出会って、ただ歩いてただけちゃうかって思うんやけどな」
肩に手をやってそう慰める武雄を振り払いまた尚太郎が大声を出す。
「もうそれを願うしかないなあ!」
尚太郎はさらに残念そうに言った。
「あの子と二回食事したんやけどな……」
「えっ! ショーちゃん、一体いつのまにそんなアプローチしてたんや」
「鮨とチャンポン食べた」
「チャンポンってまたムードがないなあ」
「あの子、カレーチャンポン大とライスをペロリと全部きれいに食べよったわ」
「いっしょにメシ食っただけかいな?」
「当たり前やん、指一本触れてないで」
「まあ、それなら傷も浅いがな」
武雄が黙って聞いていた志穂をまっすぐに見てきた。
「志穂さん、どう思う?」
志穂は武雄に動揺を察せられないようにと必死だった。勘のいい武雄にはこれまでも十分に警戒していた。自分があの男、輝久に恋心を抱いていることを一切口にせずして勘付かれる人間がいるとしたら、それはまずもって武雄しかいない。
「陽子ちゃんには星野さんはちょっと合わないと思いますけど……」
他人事のようにそっけなく志穂が言うと、
「あいつ星野っていうんか」
と、武雄は志穂をまた覗き込むように見てきた。というより、志穂にはそんな具合に見られているような気がして仕方ないのだった。
「尚太郎さん、もし見間違いじゃなくて本当に陽子ちゃんと星野さんだったとしても、きっと武雄さんが言うように、たまたま出会っていっしょに歩いてただけと違いますか? 陽子ちゃんは男女問わず誰とでも楽しく喋る子ですから」
志穂が尚太郎に対してそんなふうに投げかける言葉は、そのまま自分自身に向けて言っているも同然だった。星野輝久が陽子を好きになるはずがない、今、輝久の心の中を占めているのは陽子ではなく絶対に自分だと、志穂は思う。輝久が自分に指一本触れてこないのは、輝久のシャイな性格がそうさせていて、それに、自分にあこがれ心から慕っているからこそ指一本触れられないのだ、簡単に求めてはきやしないのだと、改めて自分に言い聞かせる。
翌日の金曜日、志穂は店にやって来た陽子と輝久に事の真相を聞き出したくてたまらなかったが、その沸き上がる思いをすべて押さえに押さえた。尚太郎と武雄もその辺はさすがに大人でこれまでとなんら変わらない態度と言動で陽子に接していた。そして、陽子も、輝久も、何一つとして違いはなかった。陽子はいつも通り太陽のようで、輝久はいつも通り月のようで。
輝久は帰り際、いつもの通り店の外に出てきて見送る志穂をまたあの中原中也のような目でもって見つめてきた。
「志穂さん、これ、出版する本の初校のゲラです。読んでください」
出版社のロゴが入った白い大きな封筒を差し出して、さらに、気まずそうな、戸惑うような、甘えるような顔つきになってこう言うのだった。
「あのう、出版社が新聞各紙に広告打つなら、あと八十万払ってほしいって言うんですけど」
やっぱり輝久は子どもの陽子ではなく断固として大人の私なのだ、そう確信する志穂。私のことを好きだからこそ、私に何でも甘えてくる、私を頼ってくる、それに輝久は情に厚い男だ、他の女と付き合いながら、私と親しくし続けるなんて非道のプレイボーイになれるわけがない……。
「そう、広告打ってもらえば。明日、また通帳、持ってくるし、気にせずに使って」
輝久の顔が月影の袋町の露地の上でパッと明るくなる。
「喜んで!」
輝久のいつもの得意の言葉に志穂の胸はまたときめくのだった。
こうなったらもう、輝久をとことん信じてみよう、輝久をとことん好きになろう、花瓶の中の白梅を穴が開くほど見ながら、志穂は決心する。今、別に自分が失ってしまうものなど、何一つとしてないのだから。
五か月後
四月。陽子がニューヨークに行った。経済学部の三回生にならず、一年休学して、ジャズの本場のニューヨークで武者修行するという。「日本食のレストランでウエイトレスでもしながらジャズボーカルの学校でレッスンを受けます」とやっぱり太陽のような瞳を輝かせて陽子は言って、最後のライブの最後に『いそしぎ』を歌ったのだった。
同じく四月。輝久が彦根店から大津店に転勤した。同じ県内とはいえ、大津は遠い、南の果てだ。三月の終わりまで一週間に最低三度は来ていた輝久が、四月に入り一週間に一度になり、やがて二週間に一度になり、この五月になっては、まだ一度として顔を出さない。志穂がメールをすると一応すぐに返事は来るものの、そこに志穂の胸をときめかせてくれるフレーズは見当たらない。輝久の本は五月の連休明けに完成した。その本も輝久から直接手渡されず、郵送されてきたのだった。輝久を思う気持ちが次第次第に薄れていく。「お金は必ずお返しします。店にもこれからもずっと来ますから」とやっぱり月のような瞳を曇らせて輝久は言って、大津店に向かったのだった。
「結局、あの二人には何もなかったやんなあ」
武雄がしみじみとまるで十年前を振り返るように言う。
「ワシは一体あの日の夜、何を見たんやろう?
見間違えてたとしたら、ワシもほんまにモウロクしたもんや」
尚太郎はそう言いながら、相変わらず大好物のスルメをマヨネーズをたっぷりと付けて口に運ぶ。
「ねえ、志穂さん。あの星野って男、どことなく花瓶の人に似てなかった?」
意味ありげな笑みを浮かべる武雄に、志穂は何も答えず同じように意味ありげな笑みを浮かべる。
「でも、陽子ちゃんがいてくれた半年ほどの間、なんやしらんけど若返った華やいだ気分になってたな。ワシはギター弾けたし、ショーちゃんは恋をできたしな」
武雄がギターを膝の上に置いて、『いそしぎ』のメロディを爪弾く。そのギターの音色を耳にしながら、志穂は呟くように言った。
「若い人は旅立って、袋町に残されたのは年寄りだけね」
店の棚の上の花瓶は、五か月ぶりに元の状態に戻った。花瓶には花はない。花瓶だけがある。
ただ、花瓶の横には真新しい一冊の本がある、『近江』と題された中編小説集である。
そして、もう一つ、花瓶のまわりに変化があった。花瓶の少し上の壁に一枚の絵ハガキがピンで留められてある。空から撮影されたニューヨークの摩天楼の夜景。一センチ位の写真のない白いスペースに真っ赤なペンで一行、こう書いてある。
−−愛と、未来と、〈いそしぎ〉に乾杯!
〈了〉
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