小説 市民文芸作品入選集
特選

夏雲
正法寺町 髙井 豊

 山田のあぜでイノシシ避けの網張り作業中、その網につま先が引っかかり、足元がもつれた。あっ、と思った瞬間、空と山と青田の景色が揺れた。圃場整備のなされた山田のあぜは法面になっている。なんとしても法面を転げ落ちるのを防ごうと、とっさに片手をついた。ほとんど同時に、したたかに尻を打って、横倒しの体勢であぜ草の中に倒れ込んだ。身体の中でバキッという音を聞いたような気がした。
 目をつぶったまま、昭太はしばらく動けなかった。うーん、と言う自分の声とも思えぬ低いうなり声がもれた。身体は頑丈にできていると思っていたのだが、こんなうなり声が出るなんて。もうすぐ還暦の身、どうやら今度ばかりはどこかがやられたらしい。
 暑い夏の日、あぜ草の中に顔をうずめていると、上からの熱と下からの草いきれで気が遠くなりそうだった。うーん、と言う自分の声がもう一度耳の中に響いた。遠退きかけた意識を引き戻し、ようやく目を開けて空を見上げると、力強く盛り上がった積乱雲が見えた。真っ青な空に真っ白な力瘤がいくつもいくつも湧き上がっていた。その瘤こぶに、強すぎる太陽の光が当たり、雲の縁が金色に光っていた。
 思いもかけず神々しいものを見たようでじっと見ていると、不意にその大きな光る雲が両手を広げて、昭太目掛けて覆い被さってくるような気がした。
 ついてない。昭太は小さく舌打ちした。

 せっかく日曜だというのに、朝五時から枕元の携帯電話が鳴り響いた。幼なじみの忠からの電話は、いつだって人の都合などおかまいなしだ。
「昭ちゃん、とうとうやられたよ!」
 前置きなしの用件が寝室に飛び込んで来た。
 やかましい!何時だと思ってるんだ!いつか、一度でいいから怒鳴り返したいと思っているが、いつも不意打ちを食らってばかりで、すぐには頭も口もうまく回らない。忠の取り柄はよく働くことと元気な声だ。本人がそう言う。もう畑に出ているのだろう。
 減反田に作っていたさつまいもが一晩でごっそりやられているという。
「葉は生き生きと繁っているのに、掘ってみたら何もない。畝三本分全部空っぽ。信じられないよ!」
 忠の破れ鐘のような声が小さな電話機からあふれ出た。
 専業農家の忠は、メインの米の他に畑や減反田に野菜を作り、毎朝収穫したものを「朝採りきゅうり」や「朝採りオクラ」「朝採りナス」として直売所に出荷している。もうすぐさつまいもも「朝採りさつま」として出荷する予定なのだという。鮮度が命のいちごや青葉じゃあるまいし、朝採りさつまもないもんだとおかしい
が、何でもかんでも朝採りが好きな消費者のニーズなのだとか。一袋にきゅうりが五本、オクラ十本、いもは小ぶりのものを二、三個詰めて百円と、一年中コツコツ稼いでいるらしい。
「そりゃあ一頭だけの仕業じゃないね。家族連れだか、仲間と連れ立って来たんだ」
 昭太は、イノシシが大小八頭も連れ立って農道を横断していたという、妻が近所から仕入れて来たうわさ話を思い出しながら、朝の早すぎる電話を茶化した。
 昔に比べると近年は毎年暖冬で、山に餌がないわけでもないだろうに、田舎の小さな山がそれほど乱開発をしているわけでもないはずなのに、イノシシが里まで下りて来るようになった。
「イノシシ出没中」
「夜道に気をつけて」
 最近、地区のあちこちに看板が立っている。そして看板の数は少しずつ増えている。
「売り物だからね。ずいぶん気をつけてイノシシ避けの網まで張っていたのに」
 忠が怒りと愚痴をぶちまけた。
「こうなりゃ、猟友会の友造さんに頼んで鉄砲で撃ってもらうしかないね」
 昭太は冷蔵庫から出した麦茶を一気に飲んで目を覚まし、気合を入れた。忠が怒ると話が長くなる。
「冗談じゃないよ。友造さん八十だよ。近頃はいちだんと腰が曲がって、担いでいる鉄砲が地面に着きそうで、見てて怖いよ」
「わなに掛かったイノシシを撃つのはいいけど、ばったり出会ったらイノシシ撃つ前に突き倒されてしまうね」
 友造さんは町役場を定年退職したあとも、土鳩やカラスやイノシシなどの鳥獣を追って、役所が定めた駆除期間に猟銃を担いで山に入る。時々友造さんがイノシシを仕留めたという話も聞くが見たことはない。農業の後継者はとうにいないが、猟銃を扱える人もなかなかいない。腰の曲がった友造さんは、誰に文句を言うでも
なく、ひとりで黙々と自分の役目を果たしている。
「町村合併で新しい市になったら、市の隅々まで手を差し伸べて一緒に発展しようという、市長の公約に期待したのに、はずれだね。地区地区で膝をまじえて市長と座談会なんて、最初はあんなに元気に動き回っていたのに、最近じゃ市長の姿も顔も見えないし、イノシシ被害の訴えだってちっとも届かない」
「まあねえ、町のはずれのこんな山あいの過疎地まで市と言われてもピンとこないねえ」
 平成の大合併で、米どころの山田町、温泉地を抱える花野町、漁業を基幹産業に据える白川町が合併して花野市になった。
ただ地続きだからという理由だけで、それぞれ性格の違う町をくっつけるには無理があったのに、政府のアメとムチと脅しに振り回され、すったもんだの末に合併した。
 合併してこの山田町に何かいいことがあったのか。町役場から市役所になったら、役所の敷居が高くなって首長との距離が遠くなっただけだ。市長の耳はずいぶん休みが多くなった。ひとしきりしゃべった忠は、ようやく怒りを収めてため息をついた。
「昭ちゃんもすぐに見回りに行った方がいいよ」
 忠の忠告が携帯電話の向こうから響いた。相変わらずまるで舅みたいだなと思う。
 昭太は勤め仕事の傍ら農業をしている。手間ひまかかる割りには、年々米の値段が下がり、半期のボーナス分にも満たない農業所得に納得はいかないが、わずかだが先祖から順送りに受け継いだ土地を捨てるわけにもいかず、役目済ましのように米だけを作っている。その姿勢が忠の目にはふまじめな百姓に映るらしく、昭太の仕事振りに何かと口を出す。
「昭ちゃん、米も野菜も命の源だよ」
 昭太から見れば、忠の言い分は少し大げさに聞こえる。定年を間近に控えて今はまだ勤め仕事が一番大事。昨夜も出張から帰って来たのは遅かった。たまの日曜くらいゆっくりしたいのが本音だ。しかし、舅のような忠の忠告と、すっかり目が覚めてしまっていまさら二度寝もできなくて、夕方に予定していた田の見回りを朝飯前に変更した。うっかり、忙しくて手が回らないとでも言おうものなら、忠の思うつぼにはまってしまう。忠は、昭ちゃん、田んぼ、手が回らなかったら俺に作らせてよ、と時々冗談まじりに言う。やれやれと思いながら、Tシャツ、短パンにゴム長靴をはいた。途中で出会うかもしれないマムシの用心に鎌を持つ。ネクタイの代りに首にタオルを巻くと、これで気持ちが百姓になる。長い間の習慣だ。
「おーい、ちょっと回って来るよ」
 返事を期待せずに妻に声をかけた。まだ六時前。パート勤めの妻にとってもたまの日曜だ。近頃はいなかも物騒だから、裏口に鍵をかけて出た。
 久しぶりに太陽が昇る前の野道を、散歩がてらにゆっくり歩いた。田の面に水さえしっかり張っていて、特別変わったことがなければ田回りはそれで終わりだ。兼業農家の宿命で、出勤前は気が急いていつも飛ぶように回り、あぜの端からざっとながめただけで終わる。時々田の中に稗や雑草が伸びているのを見つけても、見なかったことにする。
 所々に点在する耕作放棄地の、背丈ほどにも伸びた雑草は気になるところだが、他人の土地のことまで構ってはおれない。市長の言う、市の隅々まで手を差し伸べて一緒に発展の公約は、忠の言うとおり、花野市の隅っこに位置する山あいのここまで届いていない。
 自分の田にたどり着くと同時に昭太は、おおっ、と声を上げた。どこをどう回り込んで来たのか、あぜのあちこちに小さな足跡があった。突き崩されている所もあった。
 昭太の田と山の間にはちょっと広めの水路があって、いままでイノシシが来たことはなかった。泊まりの出張もあって忙しくもあったが、数日見回りをさぼっていた。その隙を突かれたのだ。
 山田の法面にくっきり残る、足跡や土の崩れを見上げると、人間世界に馴染んだメタボのイノシシが、夜な夜な法面を駆け上がり、駆け下り、田の水の中でやりたい放題転げまわってダイエットに励んでいる様子が伝わって来た。一頭だけの仕業ではない。家族連れか仲間と連れ立って来たのだ。今しがた忠に言った言葉が、そのままやまびこのように胸に返って来た。
「やられた!うちもやられた!」
 走って帰ってゴム長靴を脱ぎ捨て、息も絶え絶えに妻に叫び、忠に電話を入れた。
「そうか!やっぱりそっちにも来たか!」
 さっきとは打って変わって何だか嬉しそうな声がした。そして勇んでアドバイスをくれた。イノシシはミミズを食べるためにあぜや田畑を掘るのだ。それに沢蟹も食べる。稲の穂が出たらそれも食べる。雑食性だからたけのこやさつまいもだって食べるのだ。これ以上被害が広がらないように、さっそく手を打った方がいい、と。
 忠は、網より効果の期待できる電気柵を、今から残りのさつまいも畑に設置すると息巻いた。昭太は一瞬躊躇した。イノシシは憎いが、せっかくの日曜に思わぬ仕事ができた。それにまた余計な経費が掛かる。勢いで忠に電話したことを後悔した。
「昭ちゃん、自分の田んぼはぐるりと囲わらなくちゃだめだよ。ちょっとでも隙間があるとすぐに見つけて入り込むからね」
 昭太のためらいを見透かしたように忠は念を押す。うかうかしていると電気柵の設置を終えた忠が、昭太の仕事ぶりを見に来ないとも限らない。小さな会社ながら、勤め先では部長という肩書きを持っているのに、忠の前ではただの幼なじみだ。昭ちゃん、と呼ばれるたびに子供の頃の力関係を思い出し、何だか頭が上がらない。
 とりあえず日曜も開いている農協の資材センターに駆けつけ、イノシシ避けのための幅一・八メートル、長さ十八メートルの網五枚と支柱五十本を買った。金額はおよそ六万円。電気柵より安いとはいえ、わずかばかりの農業所得からすれば痛い出費だ。妻の顔がちらりと過ぎる。
「お宅もやられたんですかあ。どこもたいへんみたいですよお」
 資材センターのカウンターを挟んで、渋い顔で伝票を受け取っている昭太に女子職員が言った。言葉とは裏腹に声が弾んでいた。
「何しろ去年一年間で捕獲されたイノシシは、この山田町で六百頭、花野町で八百頭もいたらしいですから。それだけ捕獲してもまだ数が増えてるらしいですよ」
 若いのにずいぶんイノシシ慣れしたもの言いで、たいへんな数をさらりと言った。
「隣の青山市では二千頭も捕獲したらしいですよ」
「へえー、それだけの数のイノシシをどうやって処分したんだろう」
 青山市には昭太の勤め先がある。イノシシ被害も時々聞いたが、社屋の中ではうわさほどには現実味がなくて、いままで深く考えもしなかった。しかし目の前に数字を出されると仰天する。人間がのんきに寝ている間に、たいへんな数のイノシシが田畑や集落をうろつき回っているのだ。
「うーん。どうしたんでしょうねえ」
 彼女は、捕獲されたイノシシの末路までは興味はないようだった。それにしてもそれだけの数のイノシシを誰が捕まえて、それがいったいどこへ消えているのだろう。そのうちの何頭かは友造さんの手柄であることは間違いない。八十歳の攻めの友造さんと、六十前だというのに我が田を網で囲うだけという、守りの姿勢の自
分の姿を比べると何だか情けない。
 網代六万円は農協貯金から引き落とす。圃場整備の借入金の返済はようやく終わったが、他にも農機具のローンや農薬代、肥料代、産業用の無人ヘリコプターを使って農薬散布をする費用、たねもみ代など、細々したものの購入費が有無を言わさず定期的に引かれている。そのうえ新たにイノシシ対策の網代まで。貯金とは名ばかりの口座の残高は心細い限りだ。
「人間が野生のイノシシに勝てるはずないじゃない」
 農繁期以外は滅多に使わない軽トラックの荷台に積んで帰った網の束を見るなり、妻はけんもほろろに言い捨てた。骨折り損の農業をやめれば身体も生活も楽になるのに、と正論を言う。女は嫁ぐ時、家も土地も捨てることができるのだろうが、男はそうはいかない。家を守れ、土地を守れは親の無言の遺言なのだ。
「やられっぱなしじゃ悔しいじゃないか」 
 誘うように言ってみたが、妻が手伝ってくれる様子はない。女がこの歳で日に焼けると後がたいへんなのよ、が口癖だ。最近は田植えと稲刈り以外は滅多に外仕事に出ない。そのくせ米一俵分より高い美白化粧水とやらを使っている。両親を見送り、子どもたちに学費の仕送りが終わった数年前から、妻はパートで稼いだ金で高い化粧品を買うようになった。年齢に逆らい始めた妻に反論する勇気は昭太にはない。
 昼食後、ぜひとも急ぐ仕事でもないと言い聞かせ、一人で網張り作業に出た。勤め仕事は毎日クーラーの効いた室内でのデスクワークだ。たまの休みに外仕事をすると、ずいぶん身体がなまっているのがわかる。農作業はよい運動になる。そう自分を励ましながら、じりじりと照り付ける太陽の下、麦わら帽子だけを味方にまずは支柱を二十本、適当に間隔をあけて、あぜに木槌で打ち込んだ。それから網を広げて支柱に括りつけていく。十八メートルの長さの網を、ねじれないように、もつれないようにあぜに広げながら引いて行った。汗が全身の毛穴から噴き出して流れた。顔の汗を拭くたびに首のタオルがぐっしょりぬれた。それほどの力仕事ではないけれど、思ったより網は重くて扱いにくい。アシスタントが必要だったと後悔した。
 突然の転倒で受けた全身のひずみの衝撃が治まると、右の手首と尻のあたりがうずき出した。外仕事に興味を示さない妻が、帰りの遅い昭太の異変に気がついて、様子を見に来るのを待っていると日が暮れてしまう。それにマムシの多い土地柄、いつ出くわすとも限らない。昭太はそろそろと起き上がり、イノシシ避けの支柱を杖代わりに、ようやくのことで家まで帰り着いた。
 農業所得で建てた家ではない。勤め仕事の収入でローンを組んで建てた小さな家だ。母屋の裏の、プラスチックの波板で作った小屋に中古の農機具類を入れている。同じ地区内に、忠が農業所得だけで建てた大きな家と小屋がそびえ立っている。子供の頃ガキ大将だった忠は、大人になると大型機械を入れ、人を雇い、自作地の他にあちこちに借りた小作地も合わせて、何町もの田畑と向き合って採算を取る才覚と情熱を見せた。家を見るたびに昭太は、自分は名刺の大きさほどのサラリーマンだ、とふっと思う。
「どうしたの!」
 顔や服に泥や草をつけた、敗残兵のような昭太の姿に妻は頓狂な声を上げた。
「ちょっとすべってね」
 要点をどうまとめて話したものか、何かに八つ当たりしたい苛立ちを抑えていると、片言ずつしか出てこない。
「怪我しなかった?」
 クーラーをつけてお茶を飲んでいたらしい妻は、一緒に作業に出なかった気まずさをわずかに見せて言った。
「すべった時にとっさに手を着いたから、大したことはない」
 右の手首を左手で隠しながら少し胸を張ったが、痛みと不安はだんだん大きくなっていた。バキッという音を身体の中で捉えてからもうずいぶんになる。網を張り損ねたことも腹立たしいが、首に巻いたタオルを外した途端、明日からの勤め仕事の方が気にかかる。本社から社長が来ることになっているのだ。粗相がないように資料を準備しなければならない。こんな大事な時に、と思うと、宮仕えをしたことのない忠の早朝の電話を恨みたくなる。
「もう歳なんだから気をつけてよ。ズボンもずいぶん汚れてるじゃない」
 定年が見え始めたころから、妻はしきりにもう歳なんだから、と言い出した。それでも外仕事を手伝うそぶりは見せない。百姓はしなくていいから。プロポーズする時、昭太は確かにそう言った。妻はその言葉を手放さない。
「尻を少し打った」
 支柱にすがって裏口に立っている自分の姿が、本当に歳をとったように感じた。
「シャワー浴びたら湿布貼ってあげようか」
 妻の言葉に尻はともかく、手首の腫れと痛みは湿布だけでは済まないような気がしたが、すべったくらいで病院に行くのも癪な気がした。しかし、杖代りの支柱を離すと打ち身の辛さでよろけそうになった。裏口から家に上がり、そろりそろりと移動した。
「病院に行くなら急がなくちゃ。山田整形、日曜だけど当直の先生がいるでしょう」
 妻の勘はおそろしく鋭い。尻の打ち身よりも、隠したはずの手首の異常を見破ったのかも知れない。時計を見ながら、早くシャワーを浴びるように急き立てた。
「初診でレントゲン検査なんかもすると、時間外だし結構かかるわよねえ」
 あわただしく着替えの下着をそろえて手渡す妻の言葉がちくりと尖る。
 網代のことはまだ言っていない。米作りをやめて食べる分だけを買えば、夫婦ふたり分なら今日の網代程度で事足りる。第一けがをすることもない。自家消費米の残りを出荷するが、わずかな田を耕している兼業農家の出荷量など高が知れている。米代から経費を引けば端から人件費は出ない。網代と治療費、今日一日の出費を正直に報告すると、家計の足を引っ張る農業に怒りを持っている妻に、それ見たことか、と言われるのが落ちだ。
 結局、病院でレントゲン写真を取って手首の骨が折れているのを確認し、指だけを出して手の甲から肘まで包帯でぐるぐる巻きにされて二万三千円を支払った。災難でしたねえ、と言う看護師の言葉に送られて病院を出たのは六時に近かった。付き添って来た妻の眉間に縦筋ができているのがちらりと見えた。
「障害共済が下りるかどうか農協に聞いてみるよ」
 何とか今日の掛かりを取り戻す方法はないものかと考えた時、若い頃のようにはいきませんよ、と五十を過ぎた頃から勧められて毎年掛けている障害共済を思い出した。
「すべって転んで骨を折ったって、そんなひとり相撲に障害共済が下りるかしら。水稲共済だって毎年掛けるばかりで、台風で稲が倒れたって、旱魃にやられたって、滅多なことでは下りないんだから」
「聞いてみなきゃわからないよ。イノシシ対策だってりっぱな農作業だと思うよ」
何だか気疲れして、今から帰って夕飯の支度をしたくないという妻の希望で、スーパーに寄って鮨のパックと惣菜を買った。三千円を支払った。

 手首を骨折したことなど、こちらから人に話したことはない。勤め先の同僚にだって「ちょっと」と言ってあるだけだ。身体に負担はかかるけど、手首さえ固定していれば、指先は動くのだからパソコンを打つのに不自由はしない。社長を迎える準備はある程度までは部下を使ってやればいい。通勤の車の運転だって何とかできる。問題は右手で箸がにぎれないことと、これからしばらくの間の農作業だ。治るまで一ヶ月かかると医者は言ったが、米農家にとって夏場の一ヶ月は氣ぜわしい。
 もう少ししたら穂肥の時期が来る。昭太はこの作業をあきらめることにした。米の収量が多少減っても仕方がない。日に日に伸びるあぜ草だって、少々見苦しいが目をつぶれば済むことだ。片手間仕事で適期の手入れが行き届かなくて、田んぼの品位が低いのはいつものことだ。
 肥料を担いだことも、草刈機を使ったこともない妻に頼んで、張り損ねた網だけはくるくる巻いて片付けてもらった。
「しばらく世間体が悪いわねえ」
 農作業の手抜きの計画を聞いた妻は開口一番そう言った。
「そんなこといちいち気にしなくていいさ。どうせ端からもうけのない兼業なんだ。少々手を抜いたって家で食べる分が収穫できればそれで十分だ。混じりっ気なしの新米百パーセントを食べられるのは生産者だけの特権なんだから。それだけでいいじゃないか」
「それはそうね」 
 農協に問い合わせて障害共済が下りることを確認したことで、妻の機嫌は少し治まった。
 こちらから話さなくても包帯を巻いた姿で田回りをしていれば、ぽつりぽつりと人の目に付く。忠がうわさを聞きつけて駆けつけたのは翌週の日曜だった。
「昭ちゃん、災難だったねえ。俺があんな電話したから、悪かったねえ」
 忠はよく日に焼けた太い指でしきりに頭を掻いて詫びの言葉を言った。
「それは関係ないよ」
 忠の電話とイノシシに追いまくられた一日を思い出す。痛みはまだ残っているが、笑ってごまかすしかない。
「これ、お見舞い。我が家の進物はみんなこれだ。俺と嫁さんが丹精込めて作ったもの。どれも今朝採ったものばかりだから新鮮だよ。食べてよ」
 昭太の気持ちを意に介する風もなく、直売所に納めた帰りなのか、作業着姿の忠は玄関先でうやうやしくダンボール箱を差し出した。五本入りのきゅうり五袋。十本入りのオクラが三袋。トマトが十個。進物用のダンボール箱に体裁よく詰められたそれらは、どれも丸々と太っていて色艶もいい。
「まあ」
 何かにつけて忠の態度が差し出がましいと非難している妻の目が輝いた。ただでもらえるりっぱな野菜は、女にとって魅力のようだ。
「どうぞ、上がってください」
 現金にも声を弾ませる妻の言葉に、いや、汚れているからここで、と忠は上がり框に腰を下ろして妻が出した麦茶を飲んだ。
「昭ちゃん、そのうち暇を見つけてあぜ草刈ってやるよ。それにもうすぐ穂肥だろ。それもまかせてよ。その代りちゃんと日当もらうから」
 忠の申し出に、妻の顔が破顔一笑になった。この時ばかりは妻は経費の計算をしなかったようだ。
 忠が帰ってしばらくした頃、時々うわさ話には上がるけど滅多に会わない友造さんが来た。
「あんた、イノシシ避けの網張りをしてて骨折したらしいね。災難だったね。私もずいぶん頑張ってるけど、何しろ数が多くてとても手が回らんもんでね」
 律義な友造さんは、さも申し訳ないとでもいうように低い声でぶつぶつと言った。
「敵打ちと言っちゃあ何だが、これ、食べてみらんね。猪肉。力が出るよ。冷凍してあるけどなるべく早目に食べた方がいいね。食べ慣れんうちは豚汁みたいにぐつぐつ煮込んで食べる方がいいね」
 ビニール袋を幾重にも重ねた小さな固まりが差し出された。立っているだけなのに友造さんは傾いている。腰も背中も曲がっている。
「長い間鉄砲握らせてもらってきたけど、いよいよ来月の誕生日で返納しようと思ってね。これ、最後に少しずつおすそ分け」
 傾きながら友造さんは、昭太の胸に固まりを押し付けた。
「あんた、勤め仕事と百姓仕事と、忙しいのによう頑張ってるじゃないね。いつも感心して見てきたよ。もうすぐ定年らしいが、辛抱したね。私は昔、役場勤めと百姓仕事が、両立できずにとうとう小作に出してしまったよ」
「昔は、今よりもっと百姓仕事はたいへんでしたから、仕方ありませんよ」
 思いもかけず友造さんにほめられて胸がいっぱいになった。面映い思いとともに、何だかのどのあたりにごくりと唾がつかえて下がらない。
 数年前から農業をやめる潮時をずっと迷ってきた。トラクター、コンバイン、田植え機など、農機具類の買い替え時が来ている。大きな金額だ。勤め仕事でもらった退職金を、年に数回しか使わない農機具代に当てて、この先も農業を続けるのか、それともこの際、金のかかる農業をきっぱりやめて身軽になるか。
 昭ちゃん、百姓は片手間仕事でやるとつらいけど、本気でやったら楽しいよ。いろいろあるけど楽しいよ。忠の口癖だ。
 あんた、えらいよ。友造さんが、またほめた。


( 評 )
 近年、各地で問題になっている農業の鳥獣被害(日常的な出来事)を、小説の題材にまで昇華したことが大いに評価される作品である。人間が野良仕事に出なくなったことで猪や鹿が人里に出没しやすくなり、栄養価の高い農作物を食べて増殖するという負の循環。小説は人物像と人間の関係を描くものだが、兼業で農業を営む主人公とその妻や、専業農家である幼なじみの造形に成功したことで、現代の農村と農家の実態が手に取るように伝わってくる。

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