慶びのハーモニー
春と呼ぶには、まだまだ頬をなでる風が冷たい昭和四十九年四月一日、二人目の出産予定日が四日過ぎていた。第二子は、予定日の早まることが多いときくが、昨夜までその兆しがないことが、気がかりだった。そしてこの日は、娘が三年保育で入園する日でもあった。娘にとって共働きの妻が、産前休暇でずっと家にいてくれることは、ことのほか大きな喜びだったに違いない。とは言え、入園式に母親がいないことは、心もとなかったであろう。私は赤ちゃんがえりをしないか、などと、あれやこれや心配が尽きなかった。
入園式がせまってくると、娘はうれしさをかくせないのか、毎日のように真新しい帽子と通園スモックに、鞄と草履袋を身につけた。そして妻の前に立って姿勢を正すと、大声で「先生おはようございます」と復唱した。
家を出る時間となって娘をうながすと、顔がこわばっている。それを見た妻がやさしく娘の手をとって、大きなお腹にふれさせた。
「いってらっしゃい大丈夫。がんばろうね」
「いってらっしゃい」の言葉には、たがいの無事を祈り、再び会えることを願う約束や、さまざまな想いがこめられている。娘は《いってきまぁーす》と力のない声でこたえた。
とっ、にわかに妻が腹痛を訴えた。いざとなると頭が混乱して、動悸が胸をかきまぜる。早くから心の準備をしていたはずが、自分を見失ってしまった。病院に連絡すると「大丈夫ですよ。あわてずゆっくりおいでくださいね」といわれた。医療に携わる人たちの何げないひと言は、弱いものに大きな力をあたえてくれるものだ。すこし穏やかになれた。
二階の病室では、すでにふとんが敷かれて妻を待っていた。携帯電話のない頃なので、もし出産のきざしが数分おくれ、私が出かけたあとだったら・・と考えると妻はひとりで途方にくれるしかない。いまの世の中、何のかのといわれているが、とても便利になった。
病院の受け入れを見きわめて、保育園に向かうと、園は親子でにぎわった。名簿を眺めていると、若い女の先生がかけ寄ってこられた。このときのために練習してきたのだと、娘にあいさつをうながす。ところが私とつないだ手は、力がはいって汗ばんでいる。下を向いたまま、蚊の鳴くような声だった。
「いいね。ちゃんとあいさつ、できたなぁ」
精一杯のほめことばに、娘はうなずいたが、名札をつけてもらうのがやっとだった。教室に入ると父親は私だけ、だれも見ていないのに、若いお母さんたちの視線がまぶしい。
入園式会場で親は壁際に並び、中央では親と引き離された園児の泣き声が、渦巻いていた。娘は隣の子と何やら話しこんでいたが、私に気づくと微笑み返した。《あぁ、これで我が家の入園式は終わったなぁ》と感じながら窓の外を見やると、木々の芽吹きに春をのせた風の声が、聞こえてくるようだった。
病室に戻ってくると、娘はいきいきとして、入園式の一部始終を妻に話した。医師から、出産は夕方ころでしょうと告げられて、娘と親戚のあいさつ周りをすませることにした。
午後四時、息はずませながら病室に戻ってくると妻がいない。分べん室の前をうろうろして、看護師さんをさがすが姿が見えない。あまりに静かで、何かの手がかりを得なければと、あせるばかりだった。もしかして・・不安が胸をよぎる。すると廊下の奥の方から、カン高い看護師さんの声が追いかけてきた。
「外村さんのご主人ですかぁー。産まれはりました。さっきから探してたんですよ」
先ほど脳裏をかすめた不安は、すぐ消え去ったものの、まだ聞くことが残っている。
「あのー・・。それでぇー・・」
「男のお子さんやわ、見てきはったら。二人とも元気にしてはる。心配いらないですよ」
聞き終わらないうちから、体中に張りめぐらされた緊張の糸が、ことごとく、ときほぐされ、全身の力が抜けていくのがわかった。
娘が誕生した時は、一昼夜の陣痛が妻を苦しめ、先生から、子どもの命をあきらめることも迫られた。出生の慶びと命の重さをかみしめたが、二人目を授かることをためらったこともある。でもこの時はちがう。たとえようのない感動が、体いっぱいにこみあげた。《うれしい》という感情が心の奥深いところから、とめどなく沸き返ってはあふれつづけた。たまらなくなって娘を強く抱きしめた。
結婚前は子宝に恵まれるのは自然で、出産は母子ともに元気ならそれで十分、と考えていた。不妊治療で悩む知人もいる。にもかかわらず、一人目が女の子だからできれば男の子を、と願ったこともある。子どもは授かりものなのに、なんともぜいたくな話である。
「よかった。がんばったなぁ。母親になるのは、大変なことなんやから・・お疲れさん」
妻は笑顔を見せた。人は少しでも幸せなことがあれば、豊かな心になれる。子どもの入園と誕生、二つが奏でる慶びのハーモニーは、この日ずうっと絶えることはなかった。
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