随筆・評論 市民文芸作品入選集
入選

憧れのスタインウェイ
大薮町 西野 みどり

 H市の市民ホールには、ドイツ製のピアノの名器「スタインウェイ」があります。ピアノの構造は他のグランドピアノと変らないのに名器と言われるのは何故だろう。私はそのピアノを弾いてみたいと思いました。私がピアノを習ったのは小学生の頃の二年足らずの短い期間です。それから六十年のブランクは埋めようもありませんが、それでも弾いてみたいと言う想いはつのりました。そして折よく市が開催した「スタインウェイを弾く会」に思い切って参加申し込みをしたのです。腕に自信のある年配の方やピアノを勉強中の学生や子供に交じって舞台に上がることはかなり勇気のいる事でした。
 「自分で決めて自分で実行しなさい」子供の頃から聞かされていた母の口癖がその時私の背中を押しました。
 当日、その日のために猛練習したものの、心もとない指運びで「古時計」と言う曲を弾きました。よく調律された「スタインウェイ」の澄んだ音色が私を優しく包みました。名器の力でしょうか。その時私にピアノを習わせた今は亡き母のことがあふれるように思い出されたのです。
 私たち家族は、戦後満州(中国)から引き揚げてきました。親類の世話で父がやっと大阪に職を得たので、私たちは大阪の郊外の町に落ち着いたのでした。私は小学校三年生で弟は一年生でした。
 当時は戦後外地から帰国した者たちは「引揚者」と呼ばれ、何となく引け目を感じることがありました。しかし母は「引揚者」であることを学校でも家の近所でも隠したりしませんでした。そして私たち姉弟にも外地で暮らしたことを誇りに思い、のびのびと自分の力を発揮するように言い聞かせました。
 母の祖父は、明治の初期に満州の大連にビジネスチャンスがあると感じて渡満し、海産物を商い成功したそうです。母が子供の頃、大連港は軍港でもあり各国の戦艦が入港するため、文化も物資も欧米並みで、考え方も進歩的であったようです。そんな外地の裕福な家庭で育った母は大らかで物おじしない人でした。ですから大阪とは言え古い習慣の残る学校やPTAの在り方などに疑問を持ち、学校長やPTA会長と対立したようでした。おかげで私たち姉弟も批判的に見られることもあって、母のことを恨めしく思うこともありました。しかし多くの親たちは自分たちの言えなかったことを代弁してくれるこの大胆な転入者の母を好意的に応援してくれたようでした。
 昭和二十五年頃、小学校には「学芸会」と言うカリキュラムがあって、運動会と並んで子供たちはもちろん学校も親たちもかなり力を入れる行事がありました。当日、親たちは学芸会が開催される小学校の講堂に早くから詰めかけて、舞台の良く見える席を確保したものです。
 前年の学芸会では転校生である私たち姉弟はクラス単位で出る合唱の他に出る幕はありませんでした。母はその晴れ舞台に私たち姉弟を立たせて「引揚者」であることで消極的になることなく、自信を持って生きていってほしいと願ったのでしょう。
 当時子供が楽器を習うなどと言うことは珍しいことでした。母はどう工面したのか小さいサイズの子供用のバイオリンを手に入れてきました。そして、隣町の学芸大学の音楽科の先生に姉弟の指導を頼んだのでした。弟はバイオリンを私はピアノを習ったのですが、家にピアノのない私は、紙にピアノの鍵盤を書いたもので練習しました。
 土曜日の午後、バイオリンケースを持った姉弟のレッスンに通う姿はたちまち町の話題になりました。当時、坊主頭の男の子の中で、母は頭の怪我の予防のためにと弟の髪を伸ばさせていましたし、私は母が着物をリホームして作ったプリーツスカートなど身につけていましたので、私たち姉弟は学校でも目立つ存在でした。けれどいじめなどに合わなかったのは、母の余りにも毅然とした態度にみんなが呆気にとられていたのかも知れません。
 翌年の学芸会に私たち姉弟は、母が編んだお揃いの紺色のベレー帽をかぶって舞台に立ったのでした。弟は小さなバイオリンで「キラキラ星変奏曲」を弾き私は舞台に据えられたピアノで伴奏をしたのでした。私たちのパホーマンスは町に新しい風を吹き込んだようで、母も面目躍如としたものがあったようでした。その後、弟も私も練習の厳しさに負けてバイオリンもピアノもやめてしまいましたが、あの頃の母の自主的な考えと行動力は私の心の中に残っていたようです。
 私が今、市民文化ホールの舞台で憧れの「スタインウェイ」を弾くことが出来たことは幸せなことでした。今更母の口癖を懐かしく思い出しています。



( 評 )

 「引揚者」の時代背景と世相を描き、世間の目を撥ね除けた毅然とした母の姿が浮かび上がる。その母の教育が、現在の自分にどう反映されているかをさらに掘り下げて描けば、作品に深みが出ると思う。


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