繋がる
歩いている途中で気が変わり、町なかをさけ、路地裏から観音山への登り道へさしかかると、傾斜がきつくつま先に力が入る。
冬枯れた両側の桜並木は、上空で梢どうしがお辞儀をするかのように接している。
喘ぎあえぎ平坦な尾根道に達すると、やれやれ「ホッ」と一息。
左手に西陽をうけた孟宗竹の篁が、葉擦れの乾いた音を奏でている。
その先の左に曲がった上りの斜面には、クヌギの木立が数株、落ち葉の上に長い縞模様の影を落としている。
さらに緩やかな起伏を北に進むと、仰角の高みに恰好の東屋がある。私は散歩の途中ここに立ち寄り、古木を半割にした長椅子に腰かけて、独りぼんやりと過ごすのが、なにより好きだ。
「何でかなぁ?ここへ来たくなるのは」。
雑木林を抜けて上がってくる風は、麓の寺で焚いているのであろう、落ち葉の焦げた匂いを運んでくる。小鳥の囀りや遠くの民家の犬の声のほかに、時折、足元の落ち葉が音をたてて風に舞う。西側の木の間からは遠く琵琶湖がみえる。沖に立つ白波や、対岸の比良山系までがうっすらと望める。
と、梢を掠めて西へ三、四羽、鳩が飛び抜けたかと思うと、時を告げるお城の鐘が、長い余韻をのこして響いてくる……。
着実に時を刻んで季節が巡るなか、幾度かここに来たくなるのだった。見慣れたこの光景に浸っていると、緊張が緩んで、不意に遠い日の回想が泛んできたりするのだ。
腺病質だった私は、何度も風邪をひき四十度を超える高熱に苦しんだ。母が額に氷嚢をのせてくれるのさえ、煩わしくて厭うた。
その時いつも、庭の植え込みの垂柳と黒松が指差ししながら、苦しむ私を楽しむように、体を揺すって哄笑するのだ。その声が、洞穴の木魂のように反響しながら迫ってきて、耳一杯に広がったかと思うと目が覚めて、汗まみれの体を拭いてもらって着替えるのだった。
また小学校の放課後、ガキ大将と数人の仲間で、「釘刺し陣取り」「メンコ」「べーゴマ」に飽きるとこの山へ登って、柴栗や、ブナや、胡桃の実を食べたあと、ターザンゴッコでひと時を過ごし、熊笹や落ち葉の上を、竹ソリで滑って遊んだ折にも、すぐに疲れて仲間から逸れ、堆い落ち葉に寝転がっていたなあ。
「おい!どうしたんや?」「すぐ行く」。
なかなか起き上がれないのだが、火葬場近くの松に集まって鳴く、カラスの声を聞くと怖くなり、こっそり戻るのだった。
その頃はこの山際までと、となりの神社の森と、少し先の朝鮮人街道の松並木と、その下の一郭にあった水車小屋と鯉の養魚場の他は、浜まで全面田圃だったのだ。
それでも猶此処へ来ると、体の中に精気が蘇えってくる様な気がしたのだった。
もう数年前にもなろうか、日吉大社の広大な神域に佇んで、大木の懐に身を寄せ、小さな流れに耳を傾けていると、日頃の屈託に疲れた心が、徐々に洗われる想いがしたことも思い出される。
森林浴は、木々がフィトンチッドという化学物質をだし、細菌などの発生を抑制するので、人体にもよい効果があるとされるが、それだけではなかったのである。
分子生物学者・村上和雄著「遺伝子からのメッセージ」(朝日文庫)によれば、地球上に生物が登場してから約三八億年、これまで生息したおよそ一億種類の生き物のうち、今では約二○○万種類が生きているが、その生き物の遺伝子の基本原理がみな同じなのだという。
私たちは、母の胎内で十月十日胎児として過ごした後生れてくる。母の胎内で過ごす間に、三十八億年にわたる生物の進化の歴史の再現を行う。個体発生は系統発生を繰返すというが、魚類、鳥類、爬虫類などの進化の歴史を忠実にたどるので、生れた時には地球生命三十八億歳。一人だけの命ではないのだ。
大腸菌、カビ、植物、動物、ヒト、生きとし生けるものは、すべて同じ遺伝暗号(DNA) を使っている。また身体を構成する材料も、全生物共通だ。(二十種のアミノ酸)
それを基盤に身体を組み立てるのだが、そのときに体内で必要なエネルギー源は、全生物共通してAТP(アデノシン・トリフォスフェイト)を使っているという。
すべての生き物が、同じ親から生れた兄弟姉妹のようなものなのだと言えなくもない。
それが地球・空気・水を共有し、言わば、大自然の包容力によって、みんな繋がっているのだ。
人生に躓ずいたとき、思い屈したとき、森や林の懐に憩うのも、大切な事の一つかも知れない。
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