随筆・評論 市民文芸作品入選集
入選

後からの一声
中藪一丁目 中村 速男

 京都のYさんは私の一期先輩であった。弟の家と近いせいで親しくしてもらっていた。この話は、一昨年大文字の送り火の日に、弟の家でYさんが語ってくれたものである。それから一年足らずの間に、二人とも相次いでこの世を去ってしまった。

     後ろからの一声

「バカモノ伏せろ」後ろからの怒鳴り声。私が千葉県にあった、印旛航空機乗員養成所の生徒であったときのことであるから、もう六十何年も前のことなのに、今でも忘れることができない。
 昭和二十年七月四日だったと思う。昼食のため食堂に集合したとき、空襲警報のサイレンが鳴った。硫黄島から長距離戦闘機P が来襲するようになってからはこのようなことは再三で、ときには警報の出ないうちに襲われることもあった。「こんな時間に殺生な」「畜生ヤンキーめ、食い物の恨みは恐いぞ」などと、皆口々にぼやきながら退避壕へと走った。
 私も続こうとしたのだが、帽子を忘れたことに気付いた。慌てて引き返したが見当たらない。無帽で外には出られないし、何よりも大切な官給品である。「失いました」では済まない。うろうろ探しているうちに、机の下に見つけたときにはほっとした。そのため空襲のことを一瞬忘れていた。ハット気付いて飛び出したときには、皆より大分遅れていたのである。
 そのときには、敵の数機が上空を旋回していた。一刻も早く退避壕へと走っていると、いきなり後ろから「バカモノ伏せろ」と怒鳴られた。頭を抱えて突っ伏した次の瞬間、ズシンというような激しい音がして、身体が地面に叩きつけられた。

 急にあたりが静かになった。耳がガーンと鳴って暫くは何も聞こえない。どうやら怪我はしていないようだ。目の前を何人かが口々に叫びながら走ってゆく。私も立ちあがってよろめきながら後を追った。そこで目したのは、同級生たちのなんとも無残な姿であった。ロケット弾が退避壕を直撃したのである。きな臭いような異臭があたりに漂っていた。
「担架担架早くしろ」「スコップはこれだけしか無いのか」叫び交わす人たち。私はその場でうろうろするばかり。すると、「生徒はあっちへ行きなさい」女の人の声がする。医務室の看護婦さんである。いつもは笑顔を絶やさず、生徒たちからは「おばさん、おばさん」と慕われていた人なのに、そのときはなんとも言えない怖い顔をしていた。
 逃れるようにしてその場を離れたが、膝ががくがくして立っていられない。地面に手と膝をつくと激しく嘔吐した。涙と鼻水を垂らしながら声を上げて泣いた。そんな私を、もうひとりの私が冷たい目で眺めている。
 そのときの犠牲者は即死五人。重傷後死亡が二人。うちS君は意識不明のままその日の夕方、もう一人は、優等生のT君であった。彼は一晩中苦しみぬいて、翌早朝息絶えた。皆十六歳から十八歳。もう二ヶ月足らずで終戦というときに、なんとも痛ましいことである。
 それにしても、あのとき私の後ろから「バカモノ伏せろ」と怒鳴ってくれたのは誰なのだろうか。あのことが無ければ、私はこうしてのうのうと生きてはいなかったであろう。
 戦後十数年たったとき、始めての同期会が開催された。出席者全員、あのときのことは絶対に忘れることができないと、涙ながらに黙祷を捧げた。私は、誰かに後ろから怒鳴られたおかげで命拾いしたことを話したのだが、誰も信用してくれなかった。「そんなことがあったのか。ひょっとすると、君の空耳だったのではないかい」と言う人もあったが、たしかに私は聞いた。
「バカモノ伏せろ」の怒鳴り声を。

 それからも同期会が何回か開催されたが、そのことを口にする気にはなれなかった。今となっては、その人を探しようもない。せめてものご恩返しは、一日一日を生かされていることに感謝の気持を持って過ごすことなのではないかと思っている。


( 評 )
 戦争中における知人の体験談を聞いて、その厳しい現実が描かれている。生死を分けた出来事であるだけに、筆者の感懐をもう少し書き込んでほしかったと思う。

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