Tさんと新聞
「おはようさん」
朝一番、世界の日本のできごとの新聞を届けるTさんのかん高い声が、朝もやの中からとび出してきた。
今年七十一歳を迎えたTさん、祖父の代から新聞店を営んでいる。Tさんは、三代目で二○○戸の配達を受け持つ。
彼女は、朝三時に起床し家族の朝食を慌ただしく作り自分は、コーヒーと食パンの軽食で済ませ配達に出る。十分に体力を消耗したあとの食事は、とてもおいしいので時間をかけてたべるのが日課であると聞く。調理に時間を要する煮物や焼き魚は前夜に作りあくる朝、食前にもう一度加熱するようだ。
生涯で忘れられないのは、冬季の子育て中の配達であったと・・・。五十年前は、降雪量も多く除雪車の出動もない田舎道、子供を背負い脇に抱えた新聞はとても重く感じられたと、当時を思い出すように語ったのを覚えている。早朝のため人の足跡もなく靴の中に雪が入るが、自分の体より先ず早く購読者に届けなくてはと気持ちは急き立てられる。生活のかかっている新聞である。ためらう事なく雪の中を進むが、でも雪の抵抗に会い足は進まず時間がどんどん進んでゆくのがわかり悲しかったと・・・
昼近くになり寒さと空腹で背中の子供は愚図り出し、この時ばかりは新聞店に生まれた事を恨めしく思ったと述懐していた。
新聞店の裏側の苦労を知ってから読み終えた新聞を包装紙がわりに使う事を、少々ためらっている私である。
師走、毎朝配達で慣れた道である。対向車をよけすぎほんの少しの油断が災いした。凍結していた車道でバイクが転倒。彼女は、足を複雑骨折し三ヶ月病院生活を強いられた。
金属に足を引張られ身動きできずベッドに横たわる彼女を見舞った際「五十五年も頑張ったから神様が与えて下さった休養よ、ゆっくり治しなさいよ」と励ましと労いの言葉をかけたのが昨日のように思い出される。「でもこんな所にいるより早く家にいにたいわ」とベッドに横たわる身でありながら、男世帯の家族を案じているのであろう。治療に専念できない彼女が哀れに思われ泪が出た。
病室を出る時の彼女の温かい手と憂いを秘めた瞳が忘れられない。
バイク事故に遭遇して以後バイク恐怖症となり、新聞配達はアルバイトに任せ集金に専念し家業を手伝っていた。永年の疲労も加わったのであろう。七十二歳の若さで黄泉に旅立ったTさん。
家が近かったせいか、二歳違いの彼女と私は姉妹のように何でも相談でき、秘め事を決して他人に口外することはせず安心できる存在であった。子供の事で共通の悩みがある彼女と私は、道で出合うと必ず立ち話を始め、「人間、生きるという事は何と厳しく悲しい事か」というのが解決しないいつもの結論であった。でも私には、心のもやを一時でも吐き出し身が軽くなった思いであった。
月一回の休刊日は、購読者にとっては物足りない一日であったが彼女には、休養日。でも旅行に出掛けることもなく家族の食事を作ることで一日を終えていた。
新聞配達を辞めたら遠方へ旅をしようと約束していたが実現することはなく儚い夢に終る。彼女の心の内はわからないが、安穏とした日を送ることも少なく、人生を娯しむ時間もなかったのではないだろうか。
競争のはげしい新聞業界。購読者を獲得するのに過大な景品提供や購読料を無料にする等、あの手この手で迫ってくる。しかし、彼女は、怯む事なく新興住宅地に入居者が決まると聞くと一足先に勧誘に出かけ購読者を獲得していた。「一人の購読者も失った事がないの」と豪語していた彼女、「田舎の人は、何代にも亘る永いおつき合いの人ばかりでうれしいわ」と常に感謝の気持ちは忘れなかった。
仕事に対する情熱と責任感も強く、彼女だから年中早朝勤務という厳しい条件の新聞店を守る事ができたのだとつくづく思う。
人とのご縁を大切にし仕事柄、良い意味での八方美人にさせたのであろう。喜怒哀楽にはほど遠いどんな時でも彼女には、笑顔があった。
彼女が届けてくれた新聞は、一日一日の歴史を記録してくれる。私は、一日に何度も読み直し、社会の仕組や出来事を知る欠かせない情報源であった。又、沢山の知識を吸収することができ知ることは、楽しみであり心を豊かにしてくれ、言魂の大切さも学んだ。
「ありがとう、Tさん」
彼女が亡くなり新聞配達は、息子がしている。
今朝も朝もやの中から「すみ子さん」と甲高い
声がとび出してくる気配がする。
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