粥
女ばかりの親しいグループで、町の料理屋へ年一回の食事会に行った。
あまり年齢の違わない者同志で、三十三年続いている。料理よりも、話の方が美味しい。時間は瞬く間に過ぎてそろそろという時、サービスですと粥が出された。
いつの間にか戦時中に引き戻されていた。
戦況は、益ます厳しさを増して、夜だけ粥を啜ることになったあの頃に……。
醤油も、塩も、種油も、衣料品も一切が配給制度となり、チケットがなければ買うことができなかった。醤油の配給には一升瓶を、塩は岩塩といって薄茶色の石塊のようなもので、新聞で作った袋を持っていく。岩塩は、炒鍋で炒って粉碾き臼でひいた。種油は、少量なので食用にはできなくて、度たびの停電に備えた。停電にはランプを使ったので、火屋掃除はいつも私の仕事だった。
隣の姉ちゃんが、横流しで手に入れたらしい種油で、てんぷらをしているのを、羨やましく眺めていたのを覚えている。
米は、どんなに不作でも、反別割りで供出を強要された。田よりも畑の方が多い土地柄で甘藷や、小麦が穫れるので、それ程ひもじい思いをすることはなかった。汁団子や、蒸し芋でお腹を満たすことができた。
小麦を粉碾き臼でひいておやつを作った。今のお好み焼きのような船焼きや、小麦粉を水溶きして炒鍋に丸く伸ばし砂糖も、塩もない南瓜餡を春巻のように巻く絹巻きなどを作った。夏はトマト、とうもろこし、まくわ瓜、西瓜、芋、柿、秋に作り保存しておいた干し芋など、自然から賜ったおやつに不足はなかった。すっかり母親気取りの私であった。
そんな時、甘藷も、小麦も供出をしなければならなくなり、桑畑を毀って野菜を作るしかない状態となった。父は堅田の軍需工場住友製作所へ徴用されて留守であった。女、子供ではそれも叶わなかった。
父が、たまの休みで帰ってくると、母はなけなしの米を炊いて塩握りを作り、手作りの布鞄にいっぱい詰めた。あの時の母のほっとした顔がなぜか脳裏に焼きついている。それも青黴が生えても、一個ずつ大切に食べて、飢えを凌いだという父。
そんな苦しい中でも、母に届いた手紙の中に、(初雪の眺めも近し比良の山)や(ウインチに物を言わせて物言うな)など、そこだけ鮮明に私の心にインプットされている。
盲しい母の従兄は、私と同年の娘に手を引かれ、一斗袋を持って無心に来られると、何がしかを持たせてやっていた。非農家は、早くから粥ばかりであったようだ。
我が家は甘藷や、大根の刻んだものを混ぜて炊いたごはんであった。それらを刻むのも子供の仕事であった。
やがて、我が家も夜だけ粥となった。一握りの米に釜いっぱいの水を入れる。今のようにスイッチ一つでとはいかず、湖葦や、桑の木柴で焚くのだから、何をするにも大変な時代であった。高学年とは言え国民学校生の私に母は、安心して任せてくれていた。
夏も、冬も熱い粥だった。みんなが飯台に座るのを待って、母は玉杓子で釜をひと混ぜしてよそってくれる。箸など殆んどいらず啜るだけであった。底にごはんを残してお代りをした。その早いことと言ったらあっという間に釜は空になった。茶碗に溜ったごはんを一気に口に運ぶ皆のうれしそうな顔。
生活の知恵とでも言おうか、夜だけ極端にこんな形にした母の奇抜な発想に今頷く思いである。おかずにはそれ程不自由はなく、湖や、川の近くであるので魚は充分に食べられた。弟や妹には、頭と尾を食べて真中だけを食べさせた小魚のお陰か、小学校に上がる時は健康優良児の賞をいただいた。
こうした生活の中、十歳下の妹は、私を母ちゃんと呼ぶようになっていた。母は安心して下の子等を姉の私に預け、父の留守を守ったのであろう。
空襲警報になると、我が家の畑に掘られた共同の防空壕にいく。入口までいくとB29が来て妹は「ヒコーチ、ヒコーチ」と、背中で入ることを拒む。母は遠い田へ草取りに行っていた。どんな思いをしていたことだろう。
後に、母が皆んなといっしょにご飯を食べるのを見なかったことに気付き、「あれで充分乳が出たの」と、聞いたことがあった。「あの時はすまなんだ。充分食べさせてやれんと」と、遠い日を見る眼に涙を見た。
何も語ろうとはしなかったが、家族の縁に薄かった母の必死に家族を守ろうとした、明治生まれの芯の強さを思った。
「粘りを取ってあります」と、大きな碗に出された粥を口に運びながら、かつての米粒が僅かに入ったさらさらの半透明の液体にしばし、心を馳せるのであった。
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