随筆・評論 市民文芸作品入選集
特選

ジャズと演歌
大薮町 雨森 昭夫

 平成二十三年三月三十一日、楽しみにしていたゴルフ同好会のコンペの日の朝のことである。よくゴルフファンの間では、ゴルフの朝は、子供の遠足の朝と同じという。嬉しくて朝早く目が覚めるからだ。
 もう朝か…と目を覚まし、時計を見たら、まだ夜中の二時である。起きるには早すぎる。習慣になっている枕もとのラジオのスイッチを入れたら、何と、懐かしいクラリネットの演奏が聞こえてくるではないか。私はゴルフのことを忘れ、深夜なので小さい音で、ラジオにかじりついて聴いていた。
 放送はNHKのラジオ深夜便「日本人の演奏家によるジャズ特集」。曲は、昭和三十年代前半、大ヒットした鈴木章治とリズムエースによる「鈴懸の径」である。この曲は灰田勝彦の三拍子の歌を、鈴木章治が四拍子にジャズアレンジして、爆発的にヒットさせた。
 昭和三十二年、同郷の後輩Mくんが入社してきた。会社は京都の呉服問屋である。私より五歳年下だが大のジャズファン。私は演歌党で、それほどジャズには興味がなかったが、彼に誘われて、河原町三条あたりのジャズ喫茶『ベラミ』に行った。そこで流れていたのがこの曲である。聴くなりこの甘いクラリネットの魅力、スイングジャズのリズムにとりつかれた。一杯のコーヒーで二時間も粘っていた若き日の思い出である。
 昭和三十四年、春爛漫の四月、新婚旅行で熱海温泉に宿泊した夕食時のことである。私たちは見合い結婚で、知りあってまだ日が浅くお互いに話題が続かない。妻はアルコールが全く駄目、私ひとりビールのグラスを傾けていたその時、部屋の片隅にあるラジオから、「鈴懸の径」の演奏が聞こえてきた。(当時、まだ部屋にテレビは無い)
 この曲を聴けばまずMくんのことが頭をよぎる。当日彼は東京に出張していた。早速彼の宿泊先を調べ、「やってるよ」と電話したら、彼もまた同じ穴の狢、「聴いてますよ」という。短い会話で気持ちは通じあう。
 今思えば電話を掛けた相手が男でよかった。女なら一大事である。
 偶然というか、奇跡というか、同じ日の朝ジャズに続いて、三時から「昭和二十年代の歌謡曲」という番組で、岡晴夫の「東京の空青い空」の歌声が聞こえてきた。
 岡晴夫とくれば、Kくんのことがまず目に浮かぶ。Kくんは会社の二年後輩、昭和二十八年〜三十三年までコンビを組んで、北海道に毎月出張していた。仕事は呉服の卸販売である。Kくんは熱狂的な岡ファン、岡晴夫の興行があればどこにでも出かける。今では考えられないことだが、この頃には彼はバンマス(バンドリーダー)とすっかり懇意になりフリーパスで入場していた。
 彼は岡晴夫の歌なら、二十曲くらい全部暗記していて。イントロを聞けば、歌詞など見なくても即座に歌い出す。当時はカラオケの無かった時代である。
 彼と小樽に出張し、お客の接待でよく使う馴染みのキャバレーに行った時のこと。やおら鞄から楽譜を取り出し、バンドのメンバー全員にこれを渡し、生バンドで歌い出す。髪型まで岡晴夫ばりのリーゼント。
 彼の岡晴夫の歌に対する熱の入れようは半端じゃない。どちらかといえばケチな彼だが、歌に関しては金を惜しまない。私もKくんと付き合ってから、洗脳されたように、すっかり岡ファンになってしまった。
 昭和二十九年九月二十六日、青函連絡船(洞爺丸)が函館を出港後まもなく、風速五十米という強風により座礁、沈没、千人以上の死傷者を出した。いわゆる「洞爺丸台風」の大惨事である。
 事件の一ヶ月後、Kくんと北海道に出張した時のこと、彼の計略?でもなかろうが、旭川で偶然、岡晴夫の実演(今で言うコンサート)に出合った。勿論彼と観に行ったのはいうまでもない。名調子でならした「西村小楽天」の司会で始まる実奏は、ファンにはこたえられない感動である。今なら考えられない悠長な出張であった。
 この出張の帰り、これも偶然か、函館からの同じ連絡船に、岡晴夫の巡業の帰りの一行が乗っていた。当時人気絶頂の時代、ファンの騒ぎですぐにそれと分かった。出港して間もなく、ファンに囲まれた一行や、一般船客が甲板に出て海中に花束を投げていた、今でもこの時のシーンは忘れられない。

 偶然にも深夜放送で、私のジャズと演歌の原点とも言うべき、鈴木章治と岡晴夫の放送を聴く幸運に巡り合った。半世紀前の感動が走馬灯のように浮かび、回想しているうちにすでに朝。お陰で、楽しみにしていた当日のゴルフの成績は寝不足で散々だった。


( 評 )
 偶然ラジオ放送から流れてきた音楽によって、筆者の脳裏に半世紀前の現役時代が甦る。音楽体験の原点となったジャズと演歌にまつわる、後輩二人とのそれぞれの懐かしい思い出が綴られる。感動してラジオに聞き入って迎えた朝。最終段の締めが効いている。

もどる