小説 市民文芸作品入選集
入選

夏の残り
正法寺町 髙井 豊

 寛太がリビングで掃除機をかけている。セツ子は六畳の畳に寝転がったまま大声で話しかけていた。
「ねえ、ちょっと掃除機止めてくれなあい!声、聞こえないじゃないのよ」
 セツ子の怒鳴る声がうねりに巻き込まれてぐぁんぐぁんと吸われて行く。
「話、途中じゃないの、ずるいわよ寛太、逃げないでよね」
 昼間のビールがけだるい重みを伴ってのしかかってくる。やっと持ち上げた頭をリビングの方へひねったら、陽に焼けた萌葱色の畳の緑が目線の端を逃げた気がした。寛太がいるはずのリビングに姿は見えず、ただ揺れる寛太の影がステレオの上の白い壁から天井にまで伸びている。黒く浮いた色のまわりにぼおっと大きな薄墨色の大きな影が重なり揺れて、入り込んだ陽はもう夕方に近いことを示していた。
「ねえ」
 ふらりと起き上がる。足許がおぼつかない。
「寛太が悪いのよ。突拍子もないこと言いだすんだから」
 泳ぐようにリビングに出ると、額に手をかざし西陽を避けながらソファにへたりこんだ。掃除機のモーター音は胸の中に掬ったわだかまりを掻き回して、思わず叫び出したくなる衝動をどうにか理性でもって押さえていた。 掃除機は台所に移動したらしい。床を走る細かな振動が身体をのぼりあがって鼓膜にまで伝わるのだ。無性に腹がたってきた。
「もう、寛太ったら、掃除機は止めてって言ってるじゃないの!」

 自分の金切り声でわっと目が開いた。天井板に揺れていた丸い光の玉が、セツ子が動いた僅かな振動で二つにちぎれてゆらりと飛び跳ねて踊った。
 セツ子は六畳間の畳に大の字になって寝ていた。昼間っから飲んだビールの酔いがまわって、ついうとうとと寛太の夢を見ていたのだった。まだ陽は高く時計は二時を廻ったばかりだ。
 涙が鼻につんと抜けるしょっぱい痛みをすすりあげて、意味もなく掌を顔の先まで突き出して光の玉に向かってチョキをしてみた。指は光の渦に容赦なく突き刺さる黒いハサミのようだ。透明の光の線を辿ると根源はメダカの水槽…。跳ね返った粒が天井に陽だまりを描いている。
 三か月も前、幾分の照りを残していた仄白い空から突然落ちてきた雨に、玄関先の枇杷の葉の産毛が銀粉を散らしたように光っていた。ずぶ濡れになって駆け込んできた寛太の手に赤い紐にぶら下がったビニール袋があった。後生大事に抱えてきたらしく雨粒に流れるビニール袋の中で小さな魚が揺れていた。メダカだった。寛太の身体から蒸れた若い汗と、身体に滲みついてしまった鮮魚の臭いがする。
 その日、二人が働く割烹「魚苑」は定休だった。博多の街の中央はどんたく祭りで賑わっていたが、「魚苑」は都心からは外れた長浜近辺のビジネスマンを相手の居酒屋割烹で、祭りなどとは無関係な場所にある。何となく怪しかった空模様は今日の予報通り、どんたくパレードが終わる頃を見計らうように崩れたようだ。
 どんたくに興味のないセツ子を置いて一人で見物に出かけた寛太は、中洲の出店で少しばかり飲んでから那珂川の川風に吹かれ、露店で十尾ほど買ってきたと言った。
「そこらにいるメダカは黒だけど、これは緋メダカといって黒より十円高い分、随分かわいいんだよね。メダカだって馬鹿にできない、何千円するみたいな高級なやつもあるんだぜ」
「ふぅん、詳しいのね」
「ガキの頃メダカに凝ってさ、俺、友達いなかったし、近くにホームセンターがあって、そこにメダカが売ってて毎日見に行ってたら、店員のお兄ちゃんと親しくなって教えてくれたんだ」
 いがぐり坊主の寛太が水槽に顔をつけている姿を思い浮かべた。どことなく幼顔が残る寛太の顔は子どもの頃とさほど変わってない気がして、ふっと笑いがこみあげた。
「だけどメダカは値段じゃないんだよな。それよか、安いものほど素朴で、そこがかわいいんだ、そう思わないか?」
 一センチにも満たない小さな身体にいっちょまえに胸びれも尾びれもついていて、目ばかりが大きい。
「まだ、子どもよね」
「うん、産まれて二週間だって。かわいいだろ?」
 水槽に放したメダカを二人で頭を突き合わせるようにして見た。なるほど緋メダカは、そこらにいる黒いメダカとは異なり薄淡いオレンジ色をしており、身体に二つの黒い目玉だけが大きく見開いて、目にも止まらぬ早さで水を切り、はたと水中で静止しては、様子を窺っているのか小さなひれがゼンマイ仕掛けのように動いている。
「ほんと、かわいい」
「かわいがってやれよな」
 今、思えば他人まかせの言葉を、そのときは何の意味もなく聞き流していた。
 翌日セツ子が百円ショップで買ってきた、ありきたりの人工藻を見て寛太が不服そうな顔をした。
「ダメだよ、人工のやつなんて止めておけよ」
「だって折角買ってきたのよ。メダカ専用で産卵にも最適って書いてあるじゃない。大丈夫よ」
 寛太の言葉を無視して赤や緑の人工藻をいれると、心地良さげに泳ぐメダカを見て悦にいっていたのだが、半日、目を離している隙に藻から青緑色のどろりとした糊が出て、メダカはどれも腹を上にして死にかけており、慌てて別の容器に移したそのうち一尾だけが死を免れて今も元気だ。

 掃除機の音だとばかり思っていたうねりの音が、冷蔵庫だとわかってセツ子は畳にへばりついた身体を起こす。両手を畳にふんばって起きるついでに転がったビールの空き缶を三缶、身体の重みをかけて押しつぶしてからゴミ箱に放りこんだ。
 いつもの癖でいやでも目が寛太を探してしまう。
 陽が差し込まぬ台所は薄暗くてセツ子の心までひんやりと冷気が滲み込んでくる。思い切りぶつけたい言葉は夢の中でも言わずじまいに、ただ、まどろっこしさだけを残して消えてしまった。
 やはり寛太はいない、と思った瞬間、悲しみが夕暮れの青い霞に混じり込んで、セツ子は掻きむしられるような孤独にひしがれるのだった。

 ここ数日、ウォーンとうなりをあげているのは寛太の冷蔵庫だ。始めはそれほど気にもならない耳鳴りのような音だったのに唸りはだんだんと大きくなる。もう働くのは嫌だ、とでもいうように駄々こねて泣いているようだ。
 寛太が数年前、この家にきたとき、荷物はほんの少しの本と衣類だけだよ、と言っていた癖に、レンタカーの小型トラックの片隅に、薄緑色の冷蔵庫がポツンと積み込まれていた。
「えらくまた年代もんの冷蔵庫やね、なんで持ってきたん?台所に置く場所なんてないのに」
「まぁまぁ、これだけは許してよ、俺の宝物なんだからさ」
 笑った寛太の健康そうな糸切り歯がセツ子の胸にきりりと食い込んできゅんと胸が高鳴る思いがした。
 しょうがないねぇと言いながらも亡くなった母親の時代からあった、それこそ年代物の古いテレビをどけて、寛太の冷蔵庫は、セツ子の白い大きな冷蔵庫の横に肩身が狭そうに収まった。
 寛太は板前見習いで、ここ一年やっていることといえば、一日に百匹近い魚を捌き続けることだ。ベテランの仲居のセツ子とは一回りも年下で同じ干支のせいか気が良く合った。
 寛太が魚苑に入ってきたころは、当時でも珍しい青々とした、いがぐり頭の少年だった。帳場でかしこまって座る寛太と、付き添いの父親にお茶を出したのはセツ子で、魚苑の主人が履歴書を見ながら「家が小浜なんに、うちに来んでもなんぼも修業する店のあるでしょう」と言うのが聞こえた。セツ子も家が長崎の小浜温泉の近くならば、あそこら辺りは太刀魚で有名な観光地だし、そうでなくても新鮮な海の幸の宝庫だと言われている。何で福岡まで出てきたのだろう、と思ったが後々聞けば、主人とは遠い縁筋にあるとかで魚苑に住み込みで働くことになったらしい。
中卒でこの道に飛び込んだ寛太の毎日はまず掃除に始まり、鍋磨き、皿洗い、包丁研ぎ、と地道な階段をのぼって魚に手をつけるまでに悠に五年はかかった。
 寛太はほとんど口を利かない子だった。人見知りも激しく先輩から頭ごなしに叱られたりするとブスっとした顔で下を向いたまま謝りもしないので横柄な子だと思われていたようだが、それは生まれついての吃音症のせいだと段々分かってきた。
 へまをして先輩から「謝れ」と言われ、すみません、が出てこずに「すうううっ、み、み、」と何度も言ううちに顔が真っ赤になり、前垂れを床に叩き付けて外に飛び出してしまった。セツ子には寛太の屈辱が痛いほどにわかった。というのはセツ子も言葉が遅く小学校に入った頃、厳しい先生に言葉をせかされてからというもの、一時期、ひどい吃音症になったことがあるのだ。喋ることが死ぬほど恥ずかしかった。あのとき、大好きな姉がセツ子をかばい、もどかしいセツ子の話をせかすことなく気長にきいてくれなければ、セツ子の吃音症は治らなかったと今もそう思う。
 寛太の苦しみを思うほど、セツ子は段々と寛太がまるで弟のように愛しくなっていた。何くれと世話をやくうち頑な寛太の心の氷が溶けて、セツ子が三十も半ばを過ぎる頃にはセツ子を、何かにつけ、あねさん、あねさんと慕ってついてまわるようになっていたのだが、その頃になるとひどい吃音がいつも間にか治っていた。そうこうするうちに、母も亡くなり今は独り住まいのセツ子の古ぼけた一軒家に越してきたのだ。
 二人は妙に馬が合うというのか、どこかしら顔つきも似ているようで、寛太が非番の日には二人して市場など冷やかすと、よく「ご姉弟?」と聞かれた。
 セツ子も姉弟? と言われることは嫌いではなかった。初めて寛太が家に来た日、がむしゃらにセツ子の上に被さってきた寛太の若さも苦しいほどに好きだったが、公の場で寛太を何と説明してよいやらとまどいが走る。そんなとき、弟さん? と言われれば、自分の身体の一部に寛太がいるようで好ましかった。
 寛太は根っからの料理好きで、博多に古くからある柳橋連合市場をあさり歩いては買いこんできた食材を冷蔵庫に蓄えており、暇さえあれば見よう見まねで包丁を握っている人だった。
「どう?」
 作った料理をセツ子に試食させては、食べているセツ子の顔を真剣な眼差しで覗き込んだ。
「うんすごく美味しい」
「セッちゃんは聞いたら美味しい、しか言わないんだから。もっと何かあるだろう」
「何かって?」
「味が足りないとか濃すぎるとかさ」
「そうねぇ、でも、本当、美味しいわ。寛ちゃん、自信もっていいと思う」
 セツ子の言葉は何よりの励みになるようで、嬉しそうに鼻を膨らませた。
 そんな寛太のためにセツ子は密かに積み立て貯金をしていた。いずれ小さな小料理屋でも開くときに寛太に渡すつもりでいた。
 どちらかといえば、おおまかなセツ子よりも寛太の方が家の仕事をよくやった。セツ子の家の仏壇でさえ、セツ子よりもまめに必ずお茶を供え、手を合わせたし、しきみの葉も欠かさなかった。
 奇麗好きで「セッちゃんは家の中を丸く掃く人だから」とセツ子にはまかせず、掃除はいつの間にか寛太の仕事になっていた。

 三か月前、突然、寛太がこの家を出て行った日の前夜、夜中に何度となく目は覚めたのだが、セツ子が知る限り、明け方近くまで台所に電気がついていた。だが、そんなことは今までにもよくあることだった。朝、ねぼけ眼でセツ子が起きてきたときにはテーブルには焼き魚に白菜の漬け物、ガスレンジの上には使い慣れたホウロウ引きの鍋から美味しそうな味噌汁の匂いが温かな湯気となって立ち上っていた。
「徹夜したん? また熱心に料理やっとったんやねぇ、創作料理でも思いついたん?」
 寛太が黙って差し出すお茶を飲むと、燻された際立つ茶の香りがした。
「徹夜で焙じたんだ」
 焙じているときの寛太の様子が浮かんだ。そんなときはいつも黙々と手を動かしながら何か考えごとをしているのだった。少年の頃の丸みを帯びた頬がいつのまにか骨走った男の顔になっており、いつの頃からかセツ子を寄せ付けぬ世界に入り込んでいるようなところがあった。
 両手に膝をついたまま下を向いている寛太を見た。
「どうした? 何か言いたいことでもあるん?」
 セツ子の言葉が引き金になって、やがて顔を上げたとき寛太が今まで見たこともない冴え冴えとした目をしており、セツ子はいきなり胸を貫かれた気がして、言葉を呑んだ。
 瞬間、身を堅くした。悪い予感がしたのだ。思わず耳を塞ぎたいセツ子の気持ちは寛太には届かなかった。寛太が一点を見つめ決心したように口を開いた。
「セッちゃん…、この五年間お世話になったけど今日で俺…、この家を出ようと思って」
 こんなときにありきたりの文句しか出てこないのがもどかしかった。
「いったいどうしたって言うのよ」
「……」
 暫く待っても一言も言い訳をしない寛太のきつく結んだ唇を見た。
「ふぅん」と言ったきり次の言葉が出なかった。…何でよ…どうして? 訳を言ってよ! 叫びが心の奥底に閉じ込められていた。
 逆立ちしても追いつけぬ寛太の若さが憎かった。十二歳も年上のセツ子には寛太を引き止める勇気がなかった。寛太がいなくなる…、去って行こうとする寛太の肩を掴み、揺さぶり泣きわめいて、行かないでよ、とわめきだそうとする衝動をかろうじて堪えた。
「セッちゃんの好きな角煮と茶碗蒸し、それから春巻きとだし巻きも作っといたから…。食べたいときはその分だけ解凍して。わかるよね、角煮はとろ火でやるんだよ。茶碗蒸しはレンジ、春巻きはあんまり油の温度があがらな…」
「もういいよ」
 説明の腰を折られて寛太は黙ってテーブルを離れると、いつの間に用意したんだろう、山歩きのときに使うリュックを抱えて戻ってきた。
「悪いけど、荷物処分して欲しい…」
「……」
「長い間、お世話になりました」
 一言も言えぬままじっと座っているセツ子の背中の後ろを抜けて出て行く気配を感じた。行かないで…。追いすがるなら今しかない…、分かっていながら出来なかった。

 寛太の冷蔵庫が泣いている…。
 こんなとき、寛太はよく拳で冷蔵庫を叩いていた。寛太が叩くと冷蔵庫は叱られた子どものようにぴたりと唸ることを止めて静かになったものだが、もうそんな子ども騙しも効かなくなったようだ。セツ子も寛太の真似をして叩いてみるが、電気のうねりはますます大きくなる。
 セツ子はあれから寛太の冷蔵庫を一度も開けなかった。寛太の心尽くしの料理はおそらく冷凍の雪にまみれて凍り付いているだろう。だが、セツ子は恐かった。冷蔵庫を開けて食べつくしてしまえば、もうそれで寛太とのつながりは本当に何も無くなってしまう、そんな気がしていた。なのに、どうすれば良いんだろう、この冷蔵庫の命を断たなければ騒音は夢の中にまでついてくる。
 近所の電気屋に電話をしてみたら型式を言っただけで、こちらの話も聞こうともしない。あらゆる電気メーカーのカタログを持ってやってきた。
「冷蔵庫ならあるんです」
 水屋の横を指差すと、電器屋はなあんだ、とあきらかに失望した顔をした。
「これは、もうなおりませんよ。粗大ゴミにされるときは、空にして中の水を全部抜いてからにしてください」
 答えは聞かずとも初めから分かりきったことだった。
 水槽を覗き込む。
 メダカが無心に水を切るさまは、嬉々としてメダカを見つめる寛太の純朴な顔を思い出す。寛太と暮らした日々が、思いもかけぬ早さで次々と浮かんでくる。何度、諦めようとしても、セツ子はどうしても合点が行かなかった。あの一本気な寛太が突然、掌を返すように自分を捨てた理由が分からない。確かに、十二も齢が違えば若い女に心変わりすることはあるだろう。だが、それならば、きちんとそれなりの事情を話すことの出来る男だ。
 あんなに大事にしてた冷蔵庫に、セツ子の好物ばかりを入れて置いて行ったこと一つを取っても、寛太に裏切られた、という感覚はどうしても浮かんでこないのだ。
 やっぱり、一度、寛太に会おうと思った。寛太の居所なら分かっている。今は魚苑の主人の口利きで、日当の高い魚市場の近くにある、ぶり解体の工場で働いていると聞いてるし、若い女と長浜公園近くのアパートで暮らしているのも知っている。
 セツ子が寛太と同棲していたことは全くの秘密にしていたし、齢の違いからして誰もが考えも及ばなかったのだろう。こういう噂はあけすけに容赦なくセツ子の耳に入ってきた。女はなんでも髪が長く、すらりとした色白の若い美人だという。
 ただし、それはあくまで噂であって誰もはっきりと本人を見たことはないらしい。ただ寛太が「曙レジデンス」という名前のアパートから自転車を引き出して仕事場に向かう姿は何度も目撃されているようで、セツ子は矢も盾もたまらず休みの日に、通りすがりの振りをして偵察に行ったことがある。
 あんなに熱心に板前修業をしていた寛太が、女に迷ったとはいえ、ぶり解体など単調な仕事について、今は料理人への夢を諦めたのだろうか。セツ子にはどうしても納得が行かなかった。
 曙レジデンスは相当古い建物らしい。一方通行の狭い通路に南西を向いて立ってはいたが、ここまでも海風がくるのか西陽があたる白い壁の所々に汐が黴びたような青い汚れが浮き出ている。見上げた二階のベランダにはためく洗濯物を見たとき、はっと思わず息を飲み塀の陰に隠れた。人の気配がないのを確かめるようにそっと頭を突き出した。青色の物干し竿に見慣れた寛太のTシャツがあった。寛太のTシャツは裏に返されハンガーに掛けられて、両肩に赤い洗濯バサミが留められていた。間違いなく寛太はその家で暮らしていることがセツ子には分かった。何でも大雑把なセツ子が干す洗濯物を「こんなんじゃダメだよ」と言いながら丁寧に叩いて皺を伸ばし、色が褪せないようにと裏返しにしては一枚づつハンガーに掛けて両肩に洗濯バサミを留める寛太の張りのある腕を思い出した。
 やっぱり…。目の辺りの景色がいちどきに褪せていくような感覚だった。そっとその場を離れた。年上のセツ子をいたわってくれた寛太の優しさが蘇り、逃げるセツ子の背後から包み込むように追いかけてくる。セツ子は人の目も構わず泣きながら走った。

 今日でセツ子は四十三歳になった。味気ない誕生日だった。寛太は三十一歳、男盛りだ。すっかり諦めた今は、寛太に会ったところでもう涙は出ないと思う。
 所詮、寛太も男だったのだ。自分のような年上の女より若い女が良いに決まっている。たとえ、何があっても未練などはこれっぽっちも見せてなるものか。
 もう一度、家に来て、まだそのままにしてある荷物は無論、冷蔵庫は中身が入ったまま引き取ってもらおう。こんなとき携帯を持たぬ寛太が恨めしい。どこか頑固なところがあって、踏み込んでくる人付き合いを嫌い、何度頼んでも携帯を持たなかった。
 思い立った勢いで家を出た。果たして家まで出向き、会えるかどうかは分からない。一つの賭けのようなものだ。だが、盆明けの今日は魚市場は休みだし、寛太が今日は非番だろうということは分かっていた。夢の余韻を引きずって何かコトを起こしたい衝動にかられていた。酔いはすっかり冷めていた。
 ビルは乾いたアスファルトの道の半分まで、くっきりと影を落として、日差しはもう秋の気配が感じられた。
 博多駅から百円バスに乗り天神で下りると昭和通りを抜けて親富孝通りに出る。昔は深夜までも遊び歩く若者で溢れたことから親不孝通りと呼ばれていたのに、いつのまにやら体裁のよい名に変わっている。時代の流れか、今は若者の溜まり場は西に移動してしまい、ましてや昼下がりともなれば閑散として人の行き交いはない。長浜公園を斜めに横切る。夏の公園は空気も土も白く乾いている。樹々の下には力を使い果たした蝉が、あちこちに転がっており、最後の力を振り絞る油蝉の焦げつくような騒音は噴水の音さえもかき消すほどだ。
 田舎で育ったセツ子は、蝉の声は寧ろ気分が落ち着くのだが、今のセツ子には、はやる心を煽る野次馬の声に聞こえてならない。
 公園から二つ目の曙レジデンスのある一方通行の路地を曲がろうとして、危機一髪のところではっと電信柱に身を隠した。
 突然声がしたのだ。
「早く帰ってね」
「わかってる、なるべく早くに切り上げるよ」
 追いかける女の声に被さって聞こえたのは、忘れもしない寛太の声だった。あっと言う間もない瞬間の出来事だった。自転車の軋むブレーキ音を残してセツ子のすぐ横を走り去るとき、嗅ぎなれた汗に混じる魚の臭いがした。
 せりあがる嫉妬を隠す恥じらいも忘れて、思わず女を見た。
 西陽を避けようともせずに佇む女の顔は柔らかな微笑が幸せな日常を滲ませている。しかし次の瞬間、セツ子は息を飲んだ。強い電流の柱が身体を突き抜けるような衝撃だった。女の半袖のブラウスから出ているはずの片腕がなかった。女はまだ若く長い髪を一つに纏めたその首が異様に細く感じられるのは肩から伸びるはずの有るべき物がないからだと分かった。
 くるりと後ろを向いてアパートに帰る女のブラウスの肩先が、頼りなくひらりと揺れるのが見えた。
 一挙に空気が流れ出して釘づけの足のかせが解けたようにセツ子もそのままもと来た道を引き返す。虚脱した全身から寛太へ向けた憤りが砕けてはがれて落ちて行くようだ。
 ときがめまぐるしい早さで逆行していた。
 そうだったのか…。何もかもがパズル合わせのように明確にはまってきた。
 今思えば何かしら、寛太の様子がおかしくなったのも、昨年の丁度今日のように秋風が少し吹き始めたあの頃からだった。
 今日で盆の休みが終わるという日、食材の買い物に出かけたはずの寛太が手ぶらで帰って来たあのときだ。
 帰るなり「おかえり」と言うセツ子には見向きもせず、いきなり台所の蛇口をひねって五分刈りの頭を差し込んだ。勢いよく跳ねた水が寛太の首筋からTシャツの背中に入り肩口から肘を伝う。流れるままにまかせる水のヴェールの中に顔を隠して泣いているようにも見えた。いつもと違う気配を感じて、あっけに取られて見ていたが、頃合いをみて声をかけた。
「一体、どうしたん」
 セツ子の言葉に応えず、濡れたTシャツを脱ぐと頭と顔を拭いた。上半身裸のまま、やおら冷蔵庫から夏大根を取り出し、葉切り包丁で黙々と桂剥きを始めたのを見て、セツ子も問いかけることを止めた。寛太が包丁を握ると自分の世界にはまりこむことを知っていたからだ。
 翌朝、テーブルに新聞を開いた寛太が食い入るように見ている記事を肩越しに見た。
 見落としそうな小さな記事だった。
 見出しに「女性、飛び込みか」とある。
 記事の内容は、福岡市中央区渡辺通りの交差点で直進してきたトラックに女性が巻き込まれ重傷を追ったという、ただそれだけのことだった。
「これ…」
 セツ子の声に寛太が重い口を開いた。
「俺の目の前で飛び込んだんだ」
「ええっ…」
 驚くセツ子の顔も見ず自分に言い聞かせるように話す寛太は青ざめた堅い顔をしていた。
「初めから、様子がおかしかったんだ」
「どんな?」
「俺はそのとき、横断歩道の傍の露店で野菜を買ってたんだけど、その女の人は、信号のところで子犬を抱えてて、その犬が腕の中でおびえたようにもがくのを、はがい締めにして抱きしめたまま、何度も信号が変わるのに渡らないで、突っ立っているし、明らかにおかしいなと、気づいてたんだ」
「……」
「俺が野菜を買い終わって、彼女の横に並ぶ格好で信号待ちしてたとき、もの凄い勢いで走ってきたトラックめがけていきなり飛び込んだ」
「飛び込んだの? それってじゃあ、自殺?」
「たぶん…。もう少しで助けられたんだ。俺の手がその人の腕を掴んだけど、タッチの差で間に合わなかった…。俺の腕をすり抜けてトラックの下に吸い込まれた。俺の判断がもう少しはやければ…。ちくしょう…」
 悔しげに呟く寛太も声に思わず記事を読み返す。
「齢、二十三歳って書いてある。何でまた自殺なんて…。でも重傷だって書いてあるけど助かって良かったじゃない。寛ちゃんのせいじゃないよ、気にしてるの?」
 いきなり、振り向いた寛太の目がじっとセツ子を見てから言った。
「気にするさ」
「でも、これはこの人の事情でしょう、仕方ないじゃない」
「仕方ないで済ませられないよ。助けられたかもしれないんだよ。そぶりがおかしいと気づいてたのに、助けてやれなかったんだ。もし、俺が話しかけていれば思いとどまったかもしれないじゃないか」
 投げ捨てるように言うとぷいと立ち上がり出て行った。
 あれから、寛太はそのことに一言もふれず、セツ子も何も聞かないままに今日まできたのだが、寛太の中ではあのことは終わってなかったのだ。いや、終わるどころかそれが寛太の人生を大きく揺るがす事件だったに違いない。
 人一倍責任の強い寛太だった。事故で片腕を失った女性を助けるうちに愛が芽生えたのではないだろうか。女の首筋にかかる一つに纏めた長い髪を思い出す。
 恐らくは、いや、きっと毎朝、寛太が丁寧に髪をとかし一つ結びにしてやってるのだろう。片手を無くした女のために料理を作り、掃除機をかけてるのだろう。
 寛太への想いが倍にも膨らみ、胸が張り裂けそうに痛い。
 セツ子は寛太の冷蔵庫のコンセントを引き抜いた。突然世界が真空になったような静けさの中に庭の油蝉がやけに大きく泣いている。
 入り込む薄い夕闇がセツ子を包みこむようだ。


( 評 )
 居酒屋割烹に勤める十二歳年上の仲居のセツ子と板前修業の寛太は五年間同棲していたが、寛太が突然、家を出ていった。通俗的なストーリーと思わせがちだが、結末は意外であり、文章表現も細やかである。短編小説は行間を読むものでもあるが、状況説明をもう少し加えた方がよかったと思う。

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