湖東平野
アクセルを踏み込む足についちらりと目がいってしまう。黒いスカートからすらりと伸びている長い足は素足である。ハンドルを握っている手はよく日焼けしていて四分の一程だけが黒い袖に包まれている。その露わになっている身体の一部が近くにあることにドギマギしてしまう。女性が運転する車の助手席に座るのは何年ぶりだろう、ほのかないい香りが漂う中、膝の上に載せた大きな鞄を両手で押さえながら背筋をまっすぐに伸ばしてできるだけ前だけを見ることに努めようとする。けれども気持ちは十分すぎるばかりに華やいでちょっと恥ずかしいまでにスタッカートしてしまっている。
「ご住職様、暑い中本当に申し訳ありません。でも、一昨日のようなどしゃぶりの雨じゃなくてよかったです」
「そうですね、お経を上げた後、食事までに墓参りにも行けますね」
これから足のきれいな女性との甘いドライブが始まるのではなく今日は沢木家の厳粛なる法事である。私を迎えに来た由香さんの父、伸雄さんの三回忌を、由香さんの祖母みつさんの十三回忌と兼ねて執り行う。
目の前に広がる稲穂の群れが昨日梅雨明け宣言した夏の太陽をいっぱいに浴びて青々ととても気持ちよさそうだ。田の中を南北に伸びるまっすぐな細い道をしばらく走って、子どもたちが何故かゴンジイと呼んでいる人の背丈位の石の灯篭を右手に見ながら通り過ぎる時、由香さんは明るく爽やかな声で言った。
「その左側の赤い麦わら帽子を被った案山子が立ってる田んぼは、保育園の年長組さんが田植えしたんですよ」
由香さんは地元の保育園で保育士をしている。三十六歳で独身だ。目鼻立ちのはっきりしたなかなかの美人でスタイルもよく魅力的な女性なのに結婚しないのは母親の面倒を見ないといけないからだと、まわりの人たちは揃って口にしている。由香さんは六十六歳の母親の典子さんと二人暮らしである。
「みんな泥だらけになって、顔なんかもう真っ黒にして、最後の方は田んぼの中に思いっきりスライディングしていく子もいたりで大変でした」
「それは子どもたちにとって貴重な体験、いい思い出になりましたね」
「裸足で土をじかに踏みしめるってことがなくなってきてるでしょう?」
「そうですね」
由香さんは評判の人気の保育士だ。その日頃の真摯な仕事ぶりがちょっとした言葉からも窺い知ることができる。車は田んぼ道をKビール工場にぶつかって左に折れて、二車線の県道を少し走り、道路はまた狭くなって、由香さんの村へと入って行く。村の入口にあった八十代のおばあさんが一人でやっていた青瓦のよろず屋は二か月前に店をたたんでいて、下りたシャッターには閉店を告げる白い張り紙がしてある。張り紙の下に大きな三毛猫がちょこんと座っていて、車が近づくと逃げるどころか足を伸ばして大きな欠伸をした。ここ数年で空き家と高齢者の一人暮らしが随分と多くなった村は日曜日だというのに子どもの姿もまるで見当たらず静まり返っている。地蔵盆に子どもが来ないとどの小字の大人たちも嘆いている。京阪神のベッドタウン化が進んでいる近江八幡から大津までの湖南のエリアと違って近江八幡以北の琵琶湖の東側の村々は、どこもかも五十歩百歩だ、子どもの数は減り続け、若者の数も減り続け、独身の三十代、四十代が増え、そして高齢者の数は鰻上りに増えていく。
スピードを落とした車が公民館の隣りの空き地に入る。この空き地は元は私の寺、西光寺の檀家であった大工の緑川さんの家だった。緑川家の一人息子は大阪の製薬会社に就職して大阪に家を建て、残された緑川さん夫妻が死去した後、家は取り壊され、空き地は近くの住民の駐車場になった。
素早く車を降りた由香さんがボンネットをくるりと回ってきてドアを開け私の膝の上の鞄をさっと持ち上げる。私は数珠だけを左手に提げて艶やかなドライバーから快活なポーターに変身した由香さんの後をついていく。黒いタイトなスカートに包まれて右に左に揺れ動く形のいい尻の辺りについ自然に目がいってしまい、数珠を絡める指先に力を込める。今日は厳かな法事なのだ。見上げると空には太陽がギラギラと光っていて、沢木家の玄関では鉢のひまわりが屈託のない笑顔をこちらに向けていた。
沢木家の仏間に入り、仏壇に手を合わせてから客人たちに両手をついて挨拶をし、由香さんが出してくれたお茶を一口飲むと、柱に掛った時計の針はちょうど十時を指していた。先代の父が四年前に死んでから、西光寺の法事は決まって十時から始めている。父は八時半過ぎには家に行き、九時から十二時までの三時間、二度の休憩を挟み長々と丁寧にお経を上げていたが、私の代になってから、お経は十時から十一時三十分前頃までと短縮し、それから食事の十二時過ぎまで親戚の人を仏間に残して家族といっしょに墓参りに行く形にしている。退屈なお経は短くて済み、そして墓参りもやってしまえるということで、この手抜き、いや合理的な方法は近頃の檀家さんにはけっこう好評のようである。
「由香ちゃん、黒がよう似合ってるわ。ほんまにこんなべっぴんさん、親戚とちごうたら、うっとこの息子の嫁に来てほしいとこや」
「息子さん、幾つになったん?」
「もう三十八やがな、なんできょうびの子らはみな結婚が遅いんやろなぁ」
「結婚がみな遅いさかい子どもも少ない、晩婚と少子化の悪循環や」
十時になっているものの、どうも仏間は騒々しい。由香さんの母親の典子さんには、姉の道子さん、妹の玲子さん、弟の勇治さんがいて、この三人はみんな六十代ですこぶる元気である。また、今日の三回忌の仏様である由香さんの父親である伸雄さんの兄の幹雄さんも弟の芳雄さんも同じく六十代で髪は黒ぐろとし肌のつやもいい。その足して三世紀以上の団塊の世代の五人があきれるくらいに喋くりまくっていて実にかしましい。
典子さんは沢木家の次女であったが家を継いだ。つまりは三回忌の仏様は婿養子である。典子さんは、四十を過ぎてからというもの、ずっとさまざまな病気との二人三脚であったが、婿養子の伸雄さんは典子さんの面倒を献身的にみてきた。医者にかかったことがないと言っていた丈夫で優しいその伸雄さんが突然交通事故で死んでしまった。火葬場で棺に縋りついて泣き崩れ、「行かんといてぇ!」とあのエレベーターのドアのような扉の向こうにあるカマドの中へいっしょに入っていこうとしたちょうど二年前の典子さんの姿が今でも鮮やかに蘇る。由香さんはその時流れ落ちる涙を懸命に堪え、典子さんを抱きかかえまるで母と娘が逆転したように気丈に振舞っていた。
由香さんには四つ年上の和久君という伸雄さんそっくりの優しい兄がいる。和久君は彦根東高校を卒業した後、早稲田大学政経学部に進み、東京の大手の広告代理店に就職していて、今、杉並区のマンションに妻子と共に暮らしている。同じ高校を卒業しているものの東京の三流大学を出て寺は絶対継がないとダダをこねて三流の池袋の小さな出版社に就職したものの三十を前にして尻尾を巻いて都落ちして湖東に帰って来て寺のしがないナマグサ坊主に収まっている私とは対照的な人生だ。
「ご住職さんが来てくれやったけど、和久君はまだかいな?」
「いや、昨日の夜、新幹線で帰ってきやったって話やでぇ」
そんな声が飛び交っているところへ庭の築山の素晴らしい枝ぶりの松の向こうに黒塗りの大型タクシーが停まるのが見え、ドアが開閉する音が聞こえてきた後、新たに人が入って来る気配がした。
喪服に身を包んだ痩せ細った典子さんが和久君に抱えられながらゆっくりと仏間に入って来た。
「姉さん、大丈夫かいなぁ」
「病院から出てきたんかぁ?」
「外出許可もろてきたん?」
「和久君、おかあさん、ほんまにええんかいなぁ?」
考えてみたら足せば江戸時代よりも長くなる三世紀組から矢継ぎ早に声が掛かる。それらの声を制するように奥から焦げ茶色のリクライニングのソファを引き摺るように一人で運んできた由香さんが言った。
「母は父の三回忌にどうしても出たい、這ってでも必ず行くとずっと言い続けてきたんです。それで今日は兄が朝早くから病院に迎えに行きました。兄が病院に着いた時、母は喪服を着てちゃんと化粧もしてベッドに座っていたそうです」
私はもちろん三世紀組もまさか入院中の典子さんが法事に顔を見せるとは夢にも思っていなかったのだろう。仏間にいる親戚一同、あっけにとられてしまった。しばしの沈黙の中、由香さんと和久君の手によって典子さんはなんとかかんとかソファに座らされた。ソファは仏壇の正面、分厚い僧侶用の座布団に座っている私の真ん前に置かれた。
「今日はよろしくお願いします」
はっきりとした口調でそう言って頭を下げる典子さん、若い頃は住んでいる小字が若竹小路であることから若竹小町とみんなから呼ばれる程の美人だったというその面影も白髪が目立ち頬はこけ哀しいばかりに色褪せてしまっているが、二重の大きな目の輝きは美しく力強い。
「全部、娘まかせですから、いろいろ至らないところは多いかと思いますが、どうかお許しください」
「とんでもないですよ。今日も迎えにまで来ていただきましたし、今日までの準備も忙しい中一生懸命にやられていましたし、本当に素晴らしい娘さんですね」
黒衣から茶色の衣に着替え五条袈裟を付けながらそう返すと、典子さんは涙ぐんだ。
「わたしの体がこんなんですから、娘には苦労ばかりかけて……」
今日を迎えるにあたって由香さんとは電話で二度ばかりやりとりしていた。昨年の一周忌で田舎の法事のイロハについてもかなり理解した由香さんだが、三回忌は近所の人への配り物はどうするのかとか、幾らくらいの額のものを、またどういった品を配ればいいのかとか、近所への配り物と御仏前を持ってやって来る親戚の人への渡し物は同じでいいのかとか、十三回忌と併せて行うわけだが品物はやはり二つになるのかとか、お経の後の食事の場所はマイクロバスに乗って行くような村から少し離れた所の店でもいいのかとか、私へのお布施は幾らくらいなのかとか、墓には何を持って行くのかとか、由香さんにしてみればまだまだわからない点は幾つもあったようだった。
その電話のやりとりの中で、何かの拍子で典子さんのことに話が移った時、由香さんは低い声とともに私に打ち明けたのだった。
「これはまだ兄にしか話していないことで、本人にはもちろん、母の姉や妹にも話してないことなのですが、実は母の今回の入院は、胃癌になっているからなんです。医者からは、よくもってあと半年だと言われています。ご住職様にはまたいろいろとお世話になることかと思います」
四十を過ぎてから幾度も入退院を繰り返してきた典子さんは、この二十数年間、ずっと狭心症を患ってきていた。ニトログリセリンを常備している生活で、台所や風呂場で倒れ何度か救急車で病院に運ばれていた。
「母は今回の入院も心臓の具合が悪いから体のあちこちがおかしくなってるんだと思い込んでいます」
鞄から塔婆を二つ出して仏壇に立てる。百円ライターで蝋燭に火を灯し、線香にも火を付ける。ナムアミダブナムアミダブと小声で念仏を唱えながら木魚と伏せ鐘の位置を確認し、そうして、いよいよわがJ宗のお経をスタートさせる。
お経の六割から七割は諳んじてしまい経本を穴があくほど見つめなくても十分に読経ができるようになって以来、法事に行って長いお経を上げている最中、どうしてもというかもう条件反射のごとく、さまざまなことをあれこれ思い出したり考えたりするようになってしまっている。
今日の十三回忌の仏様である沢木みつさんは、享年八十七歳だった、つまり生きていれば今数え年の九十九歳である。私が十七歳の時に死んだ私の祖母は今生きていたら百十歳だが、その私の祖母は文盲に近かった。祖母は岐阜の貧しい百姓の生まれで、わずか十七歳の時に縁あって湖東の寺に嫁いで来たのだが、幼い頃から田んぼの仕事と多い兄弟の子守りばかりをしてきてろくすっぽ学校には行けなかったようで、平仮名と片仮名だけはなんとか読めたものの漢字はほとんど読めなかった。沢木みつさんも鈴鹿山脈を越えて三重からちょうど二十歳の時に湖東に嫁いできたとのことだが、みつさんもおそらく祖母と同じような幼少期を送ったのであろう、みつさんも字は一応読めたものの文字を書くことができなかった。けれども、みつさんは、田畑の仕事のことについては人一倍詳しく村の女性の誰よりも働き者だった。今、目の前の仏壇の中には、まだ赤ちゃんの時に命を絶った仏様の位牌が二つあるが、その一つはみつさんが田で草取りをしている最中に乳母車の中で息をしなくなってしまった男の赤ちゃんのものだ。
私の村には百軒ばかりの家があり、沢木家の村には八十軒ばかりの家があるが、少なくとも私が小学生の頃まで、私は中学一年生の時に大阪万博を迎えていて中学生になった年から一九七〇年代を迎えたが、だから少なくとも一九六〇年代までは、その百軒その八十軒、どの家にも大なり小なり田んぼがあって、米作りは暮らしていく上で誰にも必須の条件であった。
実は私の寺にも檀家さんから寄進された田んぼが一反あった。私が高校生になった頃にその一反の田んぼはフィルム工場の用地となり手放すこととなったが、小学生だった頃は、祖母も父も母も一反の田んぼの米作りに精を出していた。その一反の寺の田んぼに最も頻繁に足を運んでくれたのがみつさんだった。祖母とみつさんは大変仲が良かった。祖母は息子を戦争で亡くし、みつさんは弟を戦争で亡くしていた。そして、二人とも字が書けないにもかかわらずお経を見事なまでに諳んじていた。二人とも耳で聞いて覚えたのだ。
滋賀といえば琵琶湖であり鮎であり近江商人や近江牛や鮒寿司ということになるわけだが、私が生まれ育ったこの湖東の地においては、その代名詞は近江米、あくまで米だと私は思っている。湖東の村々で暮らす誰しもが鈴鹿山脈と琵琶湖に挟まれた狭い湖東平野での米作りとともに人生を歩んできた。田んぼとともに生きてきた。もちろん、米作りがすっかり元気を失くしてしまった二十一世紀の今時そんな主張は懐古趣味のノスタルジックな笑い話に過ぎないことはよくわかっている。けれども、私は法事に行く度、その家の仏壇を前にして、七十年、八十年、九十年とこの湖東の地で生きてこられた仏様の位牌に向かって手を合わせる時、素直に米作りとともにあった湖東の村々の家の歴史が無理なくすうーと胸に沁み入ってくる。
私が物心ついた頃からの湖東の家々の田んぼはほとんどが四反、五反、多くて十反程度の小規模な農業であったから、私が小学生だった頃は、ほとんどの家が兼業農家、どの家のお父さんも近くの工場や会社や店で働いていたものだし、お母さんは自動車部品の電線巻きや下着類のミシンかけの内職をやっている人が多かった。
でも、田植えも稲刈りもまだ腰をかがめての手作業でやっていた時代だったから、たとえわずかな田んぼであろうと米作りは大変だった。たった一反しかなかった私の家でもそのたった一反の田んぼのために母と祖母はどれだけ喧嘩をしていただろう。たった一反でも腕が痛い足が痛い腰が痛いという愚痴が飛び交っていたから、五反、十反とある家の当時の兼業農家の苦労は想像できる。
沢木家には十二反の田んぼがあった。二十年前に亡くなり生きていたら百三歳のみつさんの夫の修造さんは、米作りをしながら葉刈り屋をしていた。みつさんも修造さんも働き者だったから、沢木家を継いだ典子さんも若かった頃は名神高速道路のサービスエリアの売店で働きながら田んぼの仕事に精を出した。婿養子となって沢木家に入った夫の伸雄さんは建設会社の作業員として四六時中働きづめだったから、田んぼの仕事を典子さんが中心になってやっていて、おなかに赤ちゃんが宿っているというのに田植えを懸命にやって流産したこともあったという。四十を過ぎてから典子さんが病気がちになったのは働きすぎたからだと檀家の人たちは言う。
和久君が東京で働き東京で所帯を持ち、そして、二年前に伸雄さんが国道八号線の交差点で事故死して、今、沢木家の十二反の田んぼは、典子さんの妹である玲子さんの夫が耕作しているという。玲子さんの夫の富士男さんは、兼業農家から足を洗った湖東の家々の田んぼの耕作を数多く引き受けていて、今、百五十反余りの田んぼを作っているという話だ。今日も法事に姿を見せている富士男さんによると、近年の湖東の田んぼは富士男さんのような人の元へとどんどん集まってきていて、百反、二百反とやっている人が珍しくなくなってきた反面、先祖代々守り抜いてきた二反、三反の田んぼを手放してしまう家がものすごく増えてきたということである。
「ご住職はお幾つですか?」
法事のお経も十時過ぎから三十分近く上げて一度休憩をとった。ソファに座っていた典子さんがトイレに行きたいと言い、姉の道子さんと妹の玲子さんが両側から肩を入れて仏間を出て行って、由香さんが持ってきてくれたお茶を啜り出した時、富士男さんが聞いてきた。
「この五月で五十四歳になりました。この頃とみに老いを感じています」
と、私が答えると、五分刈りの富士男さんはブラックのチョコレートのようにしぶく日焼けした顔で豪快に笑って、「まだまだお若いですがな」と言った。
「確かご住職はまだ新婚さんでしたよね」
次にそう尋ねてきたのは三回忌の仏様の伸雄さんの兄、幹雄さんだ。欧米の人のようにきれいな白髪の幹雄さんは元役場の職員である。
「いえもう結婚して十三年になります。今、小学校三年生の息子が一人います」
「そうですか、小学生のお子さんが。そらこれからお楽しみです」
「毎日、ピコピコとゲームばっかりやっていますが」
「時代ですね。でも、こんなこと言っては失礼かもしれませんが、ご住職は結婚が遅かったんですね」
「寺継がん言うわ、東京に行ってしまうわ、なかなか結婚せえへんしで、とにかく親不幸な人生をずっと歩いてきましたから」
私が照れ笑いしながらそんなことを言うと、今度はまだ髪は黒々している伸雄さんの弟の芳雄さんが低く分厚い声を出して、
「まあ、人生、いろいろあるほうがおもろいです。おもしろ生きないと損です。なあ、和久。
やりたいように生きるんが一番!」
と言い放って、仏壇から一番離れたところに遠慮気味に座っている和久君の方を見た。
「でも、私らの世代くらいからですね、今の五十代の世代辺りから、村を離れて東京や大阪に出て行く者が格段に増え出しました。そして、私の世代辺りから結婚するのが遅くなってきたんですね。」
「まあ、時代の流れやさかい」
芳雄さんは言い方は男臭く乱暴だが目元と言葉の中には温かさがこもっている。芳雄さんは若い頃は京都で社会人ラグビーの指導を長くやっていたそうで、体重は九十キロくらいあり、パンダのような風貌で、その人なつっこさに引き込まれるようについつい話したくなってしまう。
「若い時、この村が嫌で嫌で仕方くて、家や世間やご近所のない世界に行ってのびのび一人で勝手気ままに暮らしたいって思っていて、村の中の付き合いがとにかく煩わしくてうっとうしくてしょうがなかったんです。でも、不思議なんですね、今、このトシになってつくづく思うんですけど、今、一番何がなつかしいって、私の息子じゃないですけど小学校三、四年生くらいまでの、家族みんなで田植えしたり稲刈りしてた頃の、あの村のいろんな人が田んぼを手伝いに来てくれてたり、檀家さんや近所の人の家の風呂をもらいに行ってたり、うちの境内や本堂が多くの子どもたちのベッタンやコマ回しの遊び場になってた、あの頃のことなんです」
「昔の田んぼの仕事は一人ではせえへん協働作業やったさかいな、家族とか隣のもんとか村のもん、みんなが助けおうてする米作りやったさかいなぁ、自然となんていうかみんな一族みたいな感じになったんでしょうね。お寺は昔はそういう地縁血縁の一族の基地みたいなもんやったから、そのいいところも悪いところも小さい頃からずっと見て育ってこられたご住職はそういうなつかしい気持ちになられるんでしょう」
「大阪万博の頃から、そういう雰囲気がだんだん消えていったって気がしませんか?」
「そういえばそうかもしれへんですなあ、ほんでも大阪万博って、もうかなり昔の話ですね、やっぱりご住職もいいトシですわ」
十五分ばかりとった休憩時間は、茶菓子を頬張りながら、こんな具合に昔話に花が咲いた。勇治さんが、昔は春と秋の祭りにしか牛肉が食べられなかったという話をし出して、それからは昔の肉にまつわる話で盛り上がった。牛肉どころか祭りの日だけは鶏を絞めて鶏肉が食べられた、鶏肉を食べるのが精一杯だったと幹雄さんは言い、最近の子は焼き肉は食べるがすき焼きだと見向きもしない、私たちの頃はすき焼きだと死ぬほどうれしかったのにとあきれ顔で玲子さんが言う。肉の話になってから和久君も加わってきて、「この前スポンサーさんとの接待でグラム二千円のステーキを銀座で食べました」とぽつりと言ってきて、仏間のみんなが和久君に批難のやっかみの声を集中させた。そうして和久君がKOされた頃、奥の部屋で休んでいた典子さんがソファに戻ってきて、法事のお経の後半戦を私は始めることにした。第二部は仏説阿弥陀経。私は木魚をハードロックなみのスピードでバックビートで叩き続けお経を唱え、みなさんには一人一人焼香をしてもらう。冷房を効かせるために締め切っている仏間に総勢十五名がぎっしり座っている。焼香の煙で大変なことになるかもしれないという危惧がちらりと頭をかすめる。ちなみにこの頃私は阿弥陀経を唱えるのが異様なまでに早くなっている。
不安は案の定的中し焼香の煙と匂いが渦巻きゴホンゴホンと咳をしつつ、腕時計を時折盗み見ながら計画通り十一時二十分にはすべてのお経は終わり、回れ右をして五分程度自分でもほとんど意味不明の支離滅裂な説教をした。「親戚がみんな集まるということが本当に少なくなった現代においてこの法事の席というのはとても貴重だと言いましょうか、仏様のお力によってみなさまはこうして今一つの場所に集まっているわけでして……」と、いう具合に話し始めたものの、そこから急にお釈迦様の話へと移り、さらにはネパールまで話は飛び、それからはもうさっぱりと自分でも訳がわからなくなってしまった。いつもなら阿弥陀経を上げながら冷静に説教の内容の構成と展開を考えるのだが、涙目になってのゴホンゴホンのためにそれどころじゃなかったのである。
そして、由香さんと和久君と道子さんと芳雄さんの四人といっしょに沢木家から歩いて十分足らずの所にある村の墓に行った。典子さんも墓に行きたがったが、妹の玲子さんに「倒れでもしたらどうするん!」と怒鳴られて止められて、子どものように拗ねた表情を見せた。
「東京はやっぱり暑いですか?」
「ええもう、夏に滋賀に帰ってくる度、こっちは涼しいって思います。風のせいでしょうね。湖東にはいつも風が吹いている気がします」
「風ですか?」
「ええ、湖東は日本海と太平洋との間を行ったり来たりする風の通り道に位置しているんではないですか? 湖西の山々と鈴鹿山脈の間に琵琶湖が大きく横たわっていて、その広く低いところを風が通って行くわけですから……」
沢木家を出て、塔婆を持つ和久君と墓まで並んで歩いた。和久君は痩せていて百八十センチの長身で、百六十四センチの私はずっと斜め左上を見上げながら話した。
「さっきのご住職の話ではありませんが、ぼくも、小さい頃がなつかしいです。もっともぼくは湖東地域から米作りする家がなくなり始めた大阪万博のあとに生まれた世代ですけど。地蔵盆とかカロムとかお寺の日曜学校とか除夜の鐘つきとか、なつかしいものをあげればいっぱいありますよ。この頃、滋賀に帰りたいって、時々真面目に思ったりしています。でも、東京に生まれ育った妻や二人の子どもがいて、マンションのローンを抱えて、会社の組織の中に身を置いてしまってこのトシになると、もう今さら逃げ出すことなんて許されないですし……」
二十年前までなら、東京に行った者からこんな話をされてもきっとイヤミにしか聞こえなかったと思う。心の中で、東京で暮らす者が羨ましくて妬ましくてたまらず、負け犬の悔しさでいっぱいだったと思う。でも、五十代になって、こういう話がひがみ根性抜きでまっすぐに聞ける自分がいる。
「いや、和久君は私が歩きたいって思ってた道を成功して見事に歩いている、あこがれの人ですから、そんな後ろ向きのこと、言わないでください。がんばってくださいね」
「ご住職、母と妹のこと、よろしくお願いします。妹から母のことはお聞きになられましたよね」
「ええ……」
「……妹にすべてを背負わせてしまって、妹に対してすまない気持ちでいっぱいです」
「……」
何をどう答えたらいいやらわからず、私は黙ってしまった。私たちの後ろから由香さんと道子さんの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。おそらく上着を脱いで白のカッターシャツと黒のズボンのツートンカラーで文字通りパンダとなった芳雄さんが冗談でも言ったのだろう。
家の裏から田んぼ道を歩いて、それから上を名神高速道路が走る小さなトンネルをくぐり抜けて、村の墓がある小高い岡へと続くだらだら坂にさしかかったその時だった。私と和久君の五メートルばかり前を二匹のサルがさっと横切った。大きなサルにくっつくように小さなサル、親子のサルだった。横切った二匹のサルは近くの大きな木に登りキーキーと金切り声を発して、木の枝は激しく揺れた。
「サル! サル! サルが去る!」
後ろから芳雄さんのショーモナイ駄洒落が聞こえ、みんな爆笑してしまう。
「この頃サルが山を下りてきて、どんどん村の中に入って来てるんです。うちの寺の中にある墓にはもうしょっちゅう来ていますし、この前なんかサルが三匹も寺の門の屋根にちょこんとのっかって日向ぼっこしてるんです。畑の野菜はサルのために作ってるようなもんやって、檀家さんはみんな言っています」
「どうして、サルが村の中にまで入ってくるんです?」
「山の自然が荒らされて、山にはもうエサがないからでしょう」
と私が和久君に言うと、後ろから芳雄さんが、
「どんぐりの木みたいな、雑木っていうか、雑木林の山がなくなってきて、所謂里山って言われていた山がこの辺から消えていってるからやろな。そやからサルもほんまに山からサルで」
と、懲りずにまたまた言った。
岡の中腹にある村の墓にたどり着いて、後ろを振り返ると、夏の陽光に照らし出された湖東平野が眼下にきれいに広がっていた。墓まで来るとさっきの和久君のセリフではないが実に爽やかな風が下の方から吹いてきていて、汗ばんだ顔に体に心地よかった。幾つもの小さな川が芳雄さんのネクタイのように細くくねくねと蛇行しながら流れていて、川の間に田んぼが畑が家が工場が道路がぎっしりと犇めき合う。すべての小川は犬上川へと入っていき、犬上川の行く先をたどっていけばもちろん白く光る琵琶湖だ。その上には湖西の山並みも見える。
「小学校の時、この岡の上で写生大会があったんですけど、あの頃、大きな画用紙の上が田んぼばかりになってた記憶があります。やっぱり、工場とか住宅が増えてるんですね」
和久君がなつかしそうに言った。
「村の人口はどんどん減ってるのに、住宅はどんどん増えてるって、矛盾してますよね」
と、私が言うと、
「核家族化が進んでるんよ。子どもたちは親との同居を嫌って、みんな別の家に住むさかいなぁ」
と答えた隣村に暮らす道子さんの二人の息子たちも、彦根と近江八幡に新しい家を建てて移り住んだという。大阪からわが寺に嫁いできた私の妻ももう十三年も経つというのにいまだに私の母との同居にことあるごとに口を尖らせて文句を言っている。
由香さんと和久君が墓に水をかけたり花を活けたりしている間、草津に住む芳雄さんと道子さんはずっと湖東平野を見つめていた。
「あの真下にあるKビール工場もでかいなあ。あそこら、みんな田んぼやったんやろう?」
「そうよ、わたしらの村の田んぼもいったい何反あの工場になってしもうたか、でも、そのおかげで村のどの家も新築できたんよ。牛小屋つきのわらぶき屋根の家がみな応接間つきのハイカラな家になって。ご住職が中学生の頃やわ」
「右端の工業団地も広いね、あの辺りもきっと全部田んぼやったんやろうなぁ」
「さっき和久はこの岡の上で写生大会したって言うてたけど、この岡の上には昔は見晴らし台があって、松茸が採れる頃は見晴らし台のところですき焼きしてはって、わたしらが小学生の頃は彦根の袋町から三味線もった芸者さんとかも来てやったわ」
「この辺ってほんなに松茸採れたんか?」
「そうよ、もう秋には毎年たくさん。近江鉄道の駅には、出荷されていく松茸が竹かごに入ってようさん積まれてたもんよ」
「すごいなぁ」
「なんか今考えると信じられへん話やけど」
火を付けて線香を供えていた和久君がちょっと大きな声を上げた。
「おかあさんの名前がもう刻んであるんですね!」
和久君は昨年の一周忌の時に典子さんが墓の横に建てた沢木家の墓誌の石の前にしゃがんでいた。そう言えば和久君は昨年の一周忌の際は客人たちに持って帰ってもらう品物の袋詰めにてんやわんやで墓参りには来なかった。
「そうです。典子さんは五重といってうちの宗派でする在家の人たちの修行を積んでおられてすでに戒名をお持ちですから、墓誌に赤字で戒名まで伸雄さんのそばに刻んでもらわれました」
「まだ生きているのに、こういうのアリなんですか?」
「最近、こういう形はアリというかハヤリですね。子どもに迷惑かけたくないって、親は自分の墓建てたり墓誌建てたりして、まだ元気でいらっしゃるのに自分の名前や戒名を刻まれます」
和久君はじっと典子さんの赤字の戒名を見つめていた。あと半年後にこの赤字は黒字に変わるかもしれないおかあさんの戒名。
「ご住職、ぼくもこのお墓に入れてもらっていいんですか?」
「もちろんですよ。東京で亡くなられてもこの沢木家の墓に入れますよ」
「その時は本当によろしくお願いします」
「バカなこと言わないでください。和久君よりわたしが先にあの世に行ってますよ」
「……でも、なんか、安心しました。死んだらこの湖東に帰って来られると思うと、なんかこう、ほっとするものを感じます。このお墓に入って、湖東の風を毎日受けるんですね……」
そんなやりとりをしていたら、
「和久、お墓に入ったら、もう毎日毎日、典子に親孝行せんとあかんで!」
と、道子さんが強い口調で割り込んできた。
「あのう、ご住職、わたしもここに入っていいですか?」
今度はグリーンの芝の目を読む女子プロゴルファーみたいなポーズで墓の前にしゃがんでいた由香さんが甘い声で遠慮気味に聞いてきた。
「兄妹そろってバカなことを言わないでください。由香さんは、そのうちきっと素敵な男の人と出会われて、その男の人の家のお墓に入られますよ」
墓の前で三分程度のお経を上げて沢木家に戻ると、古城閣という太い行書体の店名のロゴが入った薄茶色の大きなマイクロバスが横付けされていて、典子さんはもちろん墓に行かなかった親戚たちはすでに乗り込んでいた。
国道を十五分位走ってマイクロバスが行き着いた先は、彦根城をそばから見上げる位置にある料理旅館である。
手を合わせて十回のナムアミダブを全員で唱えて宴が始まって、付き出しや刺身に箸を運んでいる間はずっと、三回忌の仏様である伸雄さんのそのとにかく優しかった、とにかく愛妻家であったお人柄にまつわるエピソードが、三世紀組を中心として次々に語られた。
「まだ新婚やったねえさんが小さいヘビに咬まれた時、伸雄さんいうたら、マムシやったらあかんいうて、畦に座りこんだねえさんの足に跪いて口つけて、ちゅうちゅう吸わんたんよ。わたし、それ見てて、なんかもう色っぽいなあって思って、たまらん気ぃがしてきた」
そんなエピソードを披露したのは妹の玲子さんだ。由香さんにぴったりとひっついて箸を口に運ぶ典子さんは、「あんた、興奮してたん違う?」と茶目っ気たっぷりにやり返す。
「まだ保育園の時やったかなぁ、牛小屋に入り込んで牛に悪さしてたら、牛が怒ってきよって、ちょっと危ない目に遭ったことがあって、その時飛んできたアニキに助けてもらったんやけど、あの時アニキが来なかったら、幼児が牛に襲われ重傷とかいう見出しで新聞に載ってたかもしれん」
と言ったのはビールを恐ろしいピッチでぐいぐい飲んでいてすでに大瓶を一本空けた芳雄さんで、私は思わずまだ小さい子どもパンダが同じツートンカラーの巨大な牛と格闘している様子を思い浮かべてしまう。
私が、
「大学生の頃、もう自分が寺を継がないで東京で働くって決心していて、お盆のお参りの時にその気持ちを伸雄さんに伝えたら、伸雄さん、確かこう言われました。川はどんな形で流れようとも必ず大きな海に出る、ってその一言」
と言えば、すぐに和久君が、
「あっ、それ、ぼくが東京に行く時も、父は言いました」
と満面の笑顔を浮かべた。
鮎の塩焼きや天ぷらや近江牛の握り鮨などが次々に出てきて、日本酒や焼酎もテーブルにたくさん並び出してきた。誰かが、「太鼓もあるしカラオケもあるでぇ」と言った。確かに畳敷きの広間の上座には小さなステージがあって、ステージの上には直径四十センチくらいの太鼓と立派なカラオケの機械が置かれていた。しかし、この部屋にはあくまでみんな法事で集まってきているのだ、間違ってはいけない、忘年会や歓迎会の類いの宴ではない。
ところが、どっこいだった。沢木家はものの見事に違った。
三世紀組を先頭にして、みんな次から次へとステージに走りマイクを振りかざして歌いに歌う。『バラが咲いた』だの『ブルーシャトー』だの『また逢う日まで』だの『小指の思い出』だの『さよならはダンスの後に』だの『空に太陽がある限り』だの『わたしの彼は左きき』だの……六十年代七十年代のヒットパレードだ。
「はいはい、次はご住職、ご住職。これも仏様への供養でございます、よろしくお願いします」
と、芳雄さんに促され拍手の嵐の中ステージに担ぎ出され、今日はありがたいお経を上げるために来たはずの私までがマイクを握り、ついオハコのジュリーの『勝手にしやがれ』を歌い上げてしまった。私は少なく数えてももう百回は檀家さんの法事に招かれているが、法事でカラオケをやってしまったのは初体験である。
でも、これもまだ前座にすぎなかった。
なんと、次は誰だ誰だと、みんなが言い合っている中、典子さんがすっと立ち上がりすたすたとステージに向かって歩き出した。朝仏間に姿を現した時にはとても一人で歩けないような感じだったはずの典子さんが魔法にかけられたみたいに誰の介助もなく一人きりで歩いて行く。
だいぶ酒に酔いしれ随分と賑やかだった一同に静寂が走った。
典子さんがマイクを持って中央に仁王立ちした。
「今日は、病院食じゃないおいしい物を久しぶりに食べまして、幸せいっぱいでございます。今日の法事で病気が吹っ飛んでしまったようです。これから、夫とわたしが一番好きだった歌を歌います」
イントロが流れ出した。名曲だ。シャンソンだ。越路吹雪だ。
「あなたの、燃える手で、わたしを抱きしめて……」
一同ぶったまげた!文句なしにうまい!異様なまでにうまい!堂々と朗々と天にまで達する勢いで典子さんは歌い上げる。
あと半年後に死を迎えるかもしれない妻が、先に旅立った夫へ、愛を込めて歌う。みんな静まり返ってしまった。ただただ、みんな聞いた。杯を止め箸を止め、みんなぴーんと背筋を伸ばして典子さんの『愛の賛歌』を聞いた。
それから、みんなで一斉にやってきた湖東メロンのデザートを食べた後、またまたしこたま飲み過ぎている例のパンダがダミ声を唸らせて言った。
「さあ、今日の法事のフィナーレは近江湖東の名物『江州音頭』でございます。音頭取りは三回忌の仏様の兄でございます幹雄が、大鼓叩きは三回忌の仏様の弟でございますわたくしめにございます。さあ、みなさま、お立ちください。さあさあ、踊りましょう! ええみーいーなーさーまたーのーみーまあーす。あーこれからーよーいやせーとこえかけたーのーみーますー……」
信じられない話、まったく信じ難い法事であるが、一同十五名引く二名の計十三名が琵琶湖の形のような楕円の輪になって、窓から見える彦根城の天守閣を仰ぎつつ、「ヨイトヨイヤマッカ、 ドッコイサーノセー」の掛け声とともに『江州音頭』を踊った。「なつかしなぁ」、「何年ぶりやろう」、「踊れるかなぁ」、「忘れたんちゃうか」、「昔はよう踊ったもんやけどなぁ」と言い合いながらも、みんな揃って子どものような無邪気な笑顔を見せている。手を振り手を叩き足を踏み出し体を回す。なんだかんだ言ってみんなちゃんと踊っている。典子さんも由香さんに時々支えてもらいながら、きっちりと見事に踊る。
琵琶湖のような形の楕円はぐるぐるぐるぐると、時間を忘れたように何周でも回った。湖東平野の村に生まれ育った者で『江州音頭』を踊れない者はいない。
(了)
|