母の燕
明け放たれた縁側のレースのカーテンが、時折かすかにゆれている。前庭の奥の梅林の木々の緑が色を増して早や夏の兆しを偲ばせるなか、母の四十九日忌明けの法要が実家で取りおこなわれた。
私達姉弟、親類縁者が数珠を手に皆頭を垂れお経を聴いている。時折姪の幼な子が物珍らし気にやってきて動きまわっている。それを親が抱きとめるが、又放たれて親しみのある祖父母の膝へ落着いたかと思うと、今度は何を思ったのか私の横へちょこんと座った。「お利口さん」と柔らかい頭の毛を撫でてやると暫らくかしこまっている。
仏壇の蝋燭の灯がゆれ線香の煙の漂うなか、読経が続き時折垂れた頭をあげ縁の外を見て目を休めている。一ヶ月余り前の母の葬儀には、まだ新緑が眩ゆく、あさい黄緑がつやを増していたのに、と偲んでいた時である。
ふと明け放たれた縁側から一羽の燕が舞いこんできた。その気配で読経を聴いていた一同は、垂れていた頭をあげ、思わぬ闖入者に目を注いだ。一羽の燕は人々の視線を集めたなか、ゆうゆうとお詣りの人達の頭上を何回か廻り、やがて入ってきた縁側からためらいも迷いもなく飛び去っていった。
何事もなかったように時折激しくなる木魚の音が読経の続く空気をゆれさせている。しかし、この燕の来訪によって私の胸の中は感動でいっぱいになった。「母さんが燕になって皆に会いにきたんだ」と。あの悠然とした飛び方、迷いもせず入ってきてお詣りの人達の頭上をゆっくりと舞い飛び去っていった姿。
お経が終って私達姉弟はすぐ別室で「あの燕は母さんだよ。母さんが皆に『ありがとうね』って挨拶にきてくれたんだ。ありゃ母さんだよ、あの燕は母さんだ」と異口同音に出た。姉弟それぞれ苦労して育ててくれた母を同じ思いで燕を見あげ見送ったのだ。
かつて読んだ『ホタル帰る』の本の中で、特攻隊員の一人が母親のように接してくれた富屋食堂の小母ちゃんに、出撃の前夜漆黒の闇のなか小川の上をスーッと飛んでは点滅して消えるホタルの群をみて「明日の夜、ホタルになって帰るので店の戸を少しあけておいてくれよ」と告げ、翌日の夜本当に一匹の大きな源氏ボタルが舞いこんできて、暗い店の天井にとまり光を放った事が記されてあった。
映画『ホタル』にもなり、実話として宣伝されていたのを併せて思い出し、生前、何も言い遺さなかった母の皆さんへの「ありがとう」の挨拶だったのだと思った。日頃はよく意見の対立する姉弟が、燕を母さんだと直感した胸の奥には、言葉で言い表せない霊感のようなものを感じたのだろう。
母の生涯は決して平坦なものではなかった。明治四十一年金沢で生まれ、母親は後添えであったが、母は一人娘として何ひとつ不自由なく育ち、当時金沢薬専を卒業し就職先が札幌の市立病院に決まった父と二十歳で結婚、戦争が始まる迄雪深い札幌の地で、私をかしらに四人の子どもを育て、平凡な借家住いのサラリーマン家庭の主婦であった。
ところが戦争が始まり、夫の応召、最前線では戦わぬ衛生関係であったが、輸送船で戦地へ赴く途中、バシー海峡で敵の魚雷をうけ船は沈没、運命を共にしたのだ。その時、私は女学校三年生、すぐ下の弟は小学四年生、次が一年生、一番下の弟は三歳の幼児であった。札幌は父の勤務の関係で住居していたので、祖父のいる浜松へ帰郷したところ、そこでB―29の空襲をうけ裸同然で本籍地である滋賀県へ移り住んだのである。
母にとってはなにひとつ身寄りのない始めての田舎の地へ祖父と四人の子どもをつれ「焼け出され」の後指をさされながらなれぬ農業を始めたのだ。子ども達は食べ盛りなのに食料は乏しく、一番苦労した時期である。そのなかから三人の弟達は学費の安い国立大学を目指し、育英資金、母子奨学資金、学費免除、アルバイト等苦学して卒業後は自立へと旅立っていった。
未亡人会、P・T・A、婦人会の役員なども請われるままにしていたが、老後は末弟夫婦のもとで孫達にかこまれ、おだやかな晩年であったのがせめてもの救いである。
時折「苦労したでしょうに」と昔を問われると「いえ、私は根が楽天家なもんで」とかわし、九十六年八ヵ月の生涯をやすらかに旅立っていった。
この世に「霊」などは存在しない、私は若い時からずっと否定し続けてきた。しかし、加齢と共に考えられない事実がおこり、その背景には頷ける理由、人と人とのつよいつながり「絆」があることを知る時、舞いこんだ燕は母の化身、と改めて母への懐しさでいっぱいになるのである。
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