随筆・評論 市民文芸作品入選集
特選

さようなら
芹川町 木村 弘和

 小学校二年の雪の朝、祖父は他界した。
 前夜まで祖父の床にもぐりこんで、日露戦争の体験や昔話をねだっては就寝していたのだが、その日に限って「今夜は何時になくしんどいので、別の床で寝なさい。」という。
 やぐら炬燵を共用して丁の字に床を敷くこととなった。日頃、眠りに落ちると、朝まで目が覚めることはまずないのだが、夜中に目が覚めて気づくと、祖父は目を開いたまま、部屋中に響くいびきをかいている。いつもとは様子が違う。起こさないと……と、焦るうち、なんだか怖くなってきて母を起こした。
 母は祖父に声をかけ何度も揺さぶるが、そのまま眠りから覚めることは無かった。
 こんな時父がいてくれたらなぁ…。あいにく、出征中で満州にいたのである。掛かりつけの医師の診断は脳溢血による致死だった。
 近所の人達や親族のほか、祖父と関わりの深い職人とで行われた葬式は、質素なものであった。読経が済み身内の告別が終わりいよいよ出棺という時、伯母が「ヒロちゃんもお祖父ちゃんにサヨナラ言うといで。」といった。
 だが、私はどうしてもそれが言えず、母の傍を離れられなかった。
 「跡継ぎやというて、あんなに可愛がって大事にしてもらっていたのに……、孫なんてほんま水臭いもんやねぇ。」
 祖父の一番弟子のかみさんが、聞えよがしに云ったのを今も忘れられずにいる。けれども、こみ上げて溢れてくる涙を止めることはできなかった。
 サヨナラは他人に言うもので、家族に言うものではない。何で祖父さんに云わねばならぬのかが判らなかった。「さよなら」は別れる時に云うものだが、明日また会う友達にもつかうし…。その意味を、充分には理解できていなかったのである。
 辞書をみる。サヨウナラというのは、『先行の事柄を受けて後続の事柄が起こる事を示す』=然らばで、しからばの意味の接続詞だが、平安前期から別れ言葉として、自立的に感動詞としても使われるようになったとある。
 では外国ではどうであろうか。@Good-bye・Adieu(神とともに・神のみ許に。)ASee you again・再見・Au Revoir(またあいましょう) BFare well(うまく、やっていってください)
などが主なものだが「さよなら」には感傷や悲哀は極力おさえ、決然と区切る潔さの味がある。
 何故か…。我が国には四季があり、日常生活も季節に合わせて次の季への準備で気忙しい。生活上のケジメを重んじる気質とその習慣もある。背景に控える風土が、人の感性や文化に影を落としているのであろう。一期一会という教えや志賀直哉の『ナイルの水の一滴』には人の存在を大きな自然のリズムの一節とみる捉え方がある。「人間ができて何千万年になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生まれ生き死んでいった。私もその一人として生まれ今生きているのだが、例えて云えば、悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前にもこの私だけで、何万年遡っても私はいず何万年経っても再び生れては来ないのだ。しかも尚その私は、依然として大河の一滴に過ぎない。」
 このように人生は一度きりという意識が強いため、「そうならねばならないのなら」という
不可避の意味を「サヨナラ」にこめて別れている。感情を込めた「神の御許に」や「また会いましょう」・「うまくやっていってください」という時、励ましや希望・信頼の情は感じるもの
の、別れる事自体については何も表してはいない。が、「サヨナラ」は事実をそのままに受け容れ、それ以上でもそれ以下でもない。四音のうちにすべての感情が埋み火のようにこもっている。
 「サヨナラ」を体験した数によって、人生の豊かさが増すという見方もある。
 「さらば」は人生の無常をひきうけ、毅然とした袂別を示していたのに、今ではその意味は薄れ軽いものとなってしまっている。
 畳の上で「今はの際」に交す言葉もなく、病院で延命の管をつけたまま、無意識の状態で世を去る人も多くなった。「死」という大事さえもが人々の心を占める割合が少なくなってしまった。いつでも使える携帯電話で、別離は何気無いものとなってしまった。
 「人生足別離」をサヨナラダケガ人生ダ。と訳した作家や「色即是空・空即是色」を花びらは散る、花は散らない。と訳した浄土真宗の僧侶の想いからも遠くなってしまったようだ。
 「さよなら」を言わず終いのまま逝った祖父は、記憶の中には生きているのに、未だに「サヨナラ」を言えないでいる。


参考・日本人はなぜ「さよなら」と別れるのか。  竹内整一(ちくま新書)


( 評 )

 幼い頃の、祖父との悲しい別れと、その時「さようなら」と言えなかったことへのこだわり、子供の表面だけで判断する大人の心ないことばへの批判、また、それに関連して、日本語と外国語の「わかれ」のことばについて深い思索にみちた比較文明論的考察を展開している。


もどる