月の雨
1
夕焼けの色に染まった空が湖を包み込んでいます。それは朱や橙の類いの色だと見ることが自然なのかもしれませんが、私には金色に思えてなりません。眩いばかりに煌めく金色の巨大なドームの中で、W湖は静かに眠るように、横たわっているのです。
窓の外のW湖の景色を一日中見られるだけでも、思いきってここに来てよかったとつくづく思うのでした。
その景色をただ見ているだけで心が落ち着くということがあるようです。目の前のW湖はとりわけ夕暮れ時が良く、その思いはベッドの中の美菜子も同じようで、四時をまわると、ベッドのリクライニングを少し起こして白いレースのカーテンまで開けはなってほしいと言ってきます。
「おかあさん、プリン食べたい。あの上の部分が焦がしたキャラメルになってるの」
「あのケーキ屋さん、夜の七時までやってるから買ってくるわ」
美菜子がプリンが食べたいという時は、痛みもなく体調がいい証拠で、私は嬉しくなってつい口数が多くなってしまいます。
「大きなメタセコイヤの木がそばにあって、ログハウスのお店でね、ロバート・デ・ニーロみたいな旦那さんとメリル・ストリープみたいな奥さんが夫婦二人きりでやってるんよ。あのプリンは人気商品のひとつみたい」
「メリル・ストリープって、奥さん金髪なん? 外国人?」
「いや、雰囲気がなんとなく似てる」
「なんや。ねえ、デ・ニーロとメリル・ストリープが共演した映画、昔おかあさんといっしょに見たよね」
「うん、見たよ。よく覚えてる。あんた、すごい泣いてた」
「そのケーキ屋さん、行ってみたいなあ。おかあさん、わたしをかついでこっそり連れてってよ」
今みたいに調子が良かったら本当にそうしてもいいような気がしますが、お店までは湖岸の通りを十五分ばかり歩く必要があります。
「右にあるの? 左の方?」
「右側の岸をずっと歩いて行くんよ」
今外に飛び出してずっと歩いて行けば夕焼けの真っただ中、金色の源へと辿り着いて行くことでしょう。その西の彼方の世界が限りなく美しく限りなく優しく思えてなりません。
ここに来て二人してはじめてこのW湖の夕暮れを目にした時、美菜子はぽつりと言いました。
「おかあさん、ひょっとしたら奇跡ってあるのかもしれへん」
実際奇跡のような美しさの中にある湖を見つめている時、美菜子と同じように頬を涙で濡らしながら、実は私は真逆の思いを抱いていたのでした。
金色の世界の中で、右も左も、上も下も、W湖の丸い輪郭のすべてがすっぽりと視界の中にあります。こんなふうに湖をまるごと視界の中に入れられるところが、私と美菜子が育ち暮らしてきた滋賀の琵琶湖とは違っています。
私は、琵琶湖は女の体みたいだとひそかに思っていますが、目の前のA県のW湖は女の体の中の一番大切な部分に思えてなりません。そんな場所が夕暮れ時には金色に染め上げられ、そんな中に、美菜子は近いうちに包み込まれ溶けていくのかもしれません。
「雨月になってしもうたなぁ」とネギを包丁で刻みながら夫が言った時にはまだぽつりぽつりといったあんばいだったのに、それから小一時間もして店を閉める夜の八時過ぎには、G商店街の通りにバケツをひっくり返したようなという形容がまさにぴったりの激しい雨が叩きつけるように降り落ちていました。せっかくの満月の夜に降る雨のことを雨月というとあの時確か夫はちょっと博識ぶって言っていました。
その前の日もその翌日もまんまるのきれいなお月様がお城の天守閣の上にはぽっかりと浮かんでいたというのに、あの夜だけは違っていました。店の暖簾を片付けている時、クラクションが響き渡る中一本の真っ白な傘の下で互いに体を抱きしめ合うようにしながら歩く仲睦まじいカップルが盛り場の袋町の方へと通り過ぎていったのですが、びしょ濡れになりながらも跳ねるように歩いていた女性が随分としあわせそうに見えたことと、車のヘッドライトに照らされて後ろ姿になった女性の黒のヒールに雨の雫がチカチカと光っていたことを妙にはっきりと記憶しています、それはもう十年も前のことになるというのに。
十年前の秋、長女の美菜子は二十八歳でした。湖東の山間部にある中学校の英語の教師をしていました。あのスコールのような雨の夜、二十六歳だった長男の登はまだ勤め先の印刷会社から帰宅していなくて、二十三歳で市内の病院の事務をしていた次女の紗智子はいつものピンクのジャージ姿で缶ビール片手にテレビの歌番組を見ていました。亡くなった祖父の代から彦根のG商店街でうどん屋を営んでいるわが家の夕食は閉店後の九時からと決まっていますが、ちょうど食べ始めた頃に登が帰ってきて、四人が食べ終わってしまっても、美菜子だけは帰ってきませんでした。
定期テストの後や通知表の作成の時期などに九時過ぎまで職員室で仕事をしていることはよくありましたが、でも、その夜は十時になっても、十一時になっても、美菜子は帰って来ないのでした。十一時をまわりさすがに心配になって美菜子の携帯に電話をしたもののつながらず、学校に電話をしてみましたがもう誰も残ってはいないのか呼び出し音が鳴り続けるばかりでした。一週間に二度は必ず袋町のスナックに通っていた登やしょっちゅう友達とやれ合コンだやれカラオケだと夜飛び回っていた紗智子なら十一時を過ぎて戻らないことがあっても別段あたふたしませんでしたが、紗智子が〈うどん屋のシンデレラ〉とよくからかっていたように夜遊び夜更かしとは縁遠い美菜子でしたので、日付が変わる時刻が近くなると私も夫もうろたえ始めました。固定電話からかけても登と紗智子がそれぞれの携帯でかけても、美菜子は携帯に出てくれません。「もう二十八にもなる一人前の大人が一回くらい午前様になったって、ほんなんかまへんやんか」と言って紗智子はさっさと寝てしまい、登も「まじめが歩いてるようなねえちゃんやし、だいじょうぶやて。飲み会にでも誘われて盛り上がってて、ケータイに気づいてへんだけやって」とパジャマに着替えて寝酒を片手に自分の部屋へと入ってしまう始末。私と夫は、「おそいなぁ……」と「何があったんやろう?」の二つの言葉を何度も何度も交互に口にしながら、テレビもつけず何もせず、ただただ項垂れて時計の針ばかりを眺めていたものです。
私たちの家族の中で大学を出ているのは美菜子だけです。美菜子が滋賀大学の教育学部に合格した時も、教員採用試験に合格した時も、私と夫は手を取り合って近くを流れる芹川に飛び込まんばかりに喜んだものです。
「わしが謡曲をやってて、おまえが俳句やってるさかい、きっとその文学的な教養のある血があいつに受け継がれたんや」と、美菜子が中学校の国語の教師として働き始めた頃、学校の勉強はまるでできなかった夫は顔をくしゃくしゃにして眼尻を下げて耳にたこができるくらいに言っていたものです。まさに鳶が鷹を生むで、親戚縁者はもちろん店にやって来る常連に、自分の娘が大学に入ったことや、先生になったことを言いふらしたくて仕方のない困った親バカぶりでした。
それは同じ子どもですから登も紗智子も同じように可愛いのは当然ですが、私にとっても夫にとっても、美菜子だけは自分の誇りというか、自分の夢のような存在に、どこかで思い込んでしまっているところがあったように思います。
結局、その十年前の激しい雨の夜、美菜子が家に帰って来たのは二時も過ぎてからでした。一時頃に嘘のようにぴたりと降り止んだ雨。それから十分おきくらいG商店街の通りに出てはタバコを吸っていた夫の目に飛び込んで来た美菜子は、全身びしょ濡れでした。
私と夫が何を聞こうといっさい何も喋らず、口を一文字に閉じ、憔悴しきった青白い表情で自分の部屋へ逃げ込むように入って行きました。
次の日、美菜子は学校を休みました。四十度近い高熱を出し、蒲団の中から出られなくなり、結局一週間休んでしまいました。それまで病気で学校を休んだことなど一度としてなかった美菜子だというのに。
あの夜、美菜子に何があったのか、私にはまったくわかりません。でも、あの夜を境として、美菜子の人生が大きく方向を変えたというか、十年後の今日この頃につながりゆく道のりを美菜子が歩き始めてしまったことだけは確かだと思います。
「二、三日前のことやけどな、駅前に赤鬼っていう寿司割烹の店あるやろう? あそこのカウンターに美菜子ちゃんがおったんや。声かけようかって思ったんやけど、隣りの男の人の腕を触ったり肩に顔を預けたりとあんまり仲ようにはしゃいで喋ってやったさかい、邪魔したらあかん思ぉてな。ほんでもなぁ、気になったんは、相手の男がけっこう年いってたことや、四十半ばくらいやろうか。おかみさん、美菜子ちゃんから聞いてるん? 付き合ってる男の人のこと……」
G商店街の役員の一人で夫の小中学校の同級生でもある喫茶店のマスターの浩二さんが店でいつもの卵入りの天ぷらうどんを啜りながらそんなことを言ったのは、美菜子が中学教師になって二年目、二十四歳の時でした。
「二、三日前いうたら、同じ学年の先生らとの懇親会があった日ですわ。年取ってやる人やったら、きっと学年主任さんと違いますか? 学校の話で盛り上がってたんでしょう? あの子も、酒飲むと、ヨロイが取れてやらこうなるみたいですし。付き合ってる人やなんて、そんなわけありません」
と、即座になんとか言い返したものの、自分の知らない美菜子の姿が突然突きつけられたようで大きく動揺したのでした。学年の懇親会と親には言って実は男と二人きりで過ごしていた、その男はかなり年配で妻子のある人で、美菜子はそれでもその男を好きになって……頭の中で、そのような安手のテレビドラマのストーリーがどんどん膨らんでいたのも事実です。でも、それよりも何よりも、その時、親として改めて思い知らされたことが、自分は二十四歳の娘のことを、何を考え何を思い何を望み何に喜び何に悲しみ、そしてどんな男の人が好きなのか、付き合っている人はいるのかいないのか、つまりは娘の心の中をあきれるほどに何も知らないということです。二十四歳という立派な大人になったのだから、それは仕方のないことなのかもしれませんが、さびしさと情けなさは押し寄せてきますし、それに一体どんなふうに接していいのやら、距離の取り方というのでしょうか、自分の娘だというのに、急に自信が持てなくなってしまいました。
「ほんでも、浩二さん、ほんまにうちの美菜子でしたか? 世の中に似ている人は三人はいやるってよく言いますし、浩二さんかなり酔ってやったんちがいますか?」
「うん、そやなぁ、そう言われると、ちょっとちごたような……」
あとはもう浩二さんが見間違えたことをひたすら願うしかない気になったものです。
そんなふうな浩二さんとのやりとりがあった時、夫はちょうど裏通りの仏具店まで出前に行っていましたが、私はこの話を夫には黙り通し、そして、この件で美菜子に問いただしもしませんでした。
恥ずかしい話ですが、私は恋というものをしたことがありません。高校を卒業して、二十歳の時のはじめての見合いで今の主人と出会い、とんとん拍子に話は進んであっという間に挙式でした。二十二歳の時に美菜子を産みましたが、美菜子が生まれた時、窓の外には雨、しとしとと優しい春の雨が落ちていました。実家近くの長浜の病院でしたが、その春雨が優しく濡らしていたのは病室の窓の向こうに広がる黄色い菜の花の群れでした。こみあげてくるような幸せな気分に包まれていたような気がします。
二十四歳の美菜子は、今、幸せなんだろうか? 浩二さんの話がきっかけになって、その日は眠りにつくまでずっと、これまでは考えもしなかったようなことばかりが頭の中をぐるぐると廻っていました。
春の雨の中に生まれた美菜子はひと言でいうならがんばり屋さんだったと思います。小学校高学年から大学まで、十代の十年間は脇目もふらずに勉強していましたし、教師になってからも、学級経営や教材研究のために惜しむことなく自分のすべての時間を注ぎこんでいる感じでした。のんびり屋さんの秋に生まれた登やおてんばさんの夏に生まれた紗智子も寄り道ばかりの息抜きばかりの生き方しかできませんでしたが、一体どうしてこうも違うのかと、何度思ったかわかりません。その美菜子のひたむきな努力家の部分が、果たして生きていく上では、人生の中ではどうなんでしょう? たとえば男の人とのことではどうなんでしょう? その日、頭の中をめぐり廻った一番のことは、そのことなのでした。
そんな答えの出るはずもない問題と向き合っていた日の頃からあの秋の激しい雨の夜までの四年に及ぶ歳月の間、美菜子がずっと恋をし続けていたことだけは確かだと思います。
人並みの器量のはずの美菜子が日に日に美しくなっていく感じがしました。ショートだった髪はいつしかロングになり、化粧は念入りになり、着るものがどんどんシックになっていきました。そして、何よりもそれまではちきれんばかりに丸みを帯びていた美菜子の体は無駄な贅肉がどんどん削ぎ落ちていってしなやかになっていき、体は痩せて心は潤うというのか、美菜子の身体も言動もとても柔らかなものになっているのがそばにいて感じられたものでした。
そんな変化は他人の目からもわかるものなのか、土曜日の夕方に美菜子は店をよく手伝っていましたが、土曜日の常連客のひとりの袋町で三十年クラブを経営している満男さんがホステスさん三、四人を引き連れてやって来て好物の親子丼をパクついていた時、大きな二重の目をしょぼしょぼさせて「美菜子ちゃん、えらいべっぴんさんになったやんかぁ!」と驚きの声を張り上げたのでした。
二十四歳から二十八歳にかけて、美菜子は間違いなく人生で一等煌めいていました。
美菜子をこんなにも変えてしまった相手はどんな人なのか? 幾つの人で、何をしていて、どういう性格で、どこに住むどんな家の人なのか? もちろん知りたいと思いました。けれども、美菜子は自分の恋をとことん隠し通していました。ほんの少しでも探りを入れるような言葉を発するとサラリと交わされるか笑って誤魔化されるかでした。あの頃、私や夫が出るとプツリと切れる電話が多くかかってきていましたが、その不審な電話と美菜子の恋が結びつくものだったか? また、この前どこそこで美菜子を見たといった話を喫茶店の浩二さんのほかにも知人から何度か耳にしたものですが、そうした目撃情報と美菜子の恋が結びつくものだったか? 定かではありません。
四年間にただ一度だけ、私は美菜子に言ったことがあります。
「美菜子、これだけは言っておくけど、他人様を不幸にするような恋愛だけはしたらあかんよ。そういうことしてたら、まわりまわって、いつか自分が不幸になるんよ……」
2
美菜子は三十一歳の時に結婚しました。見合いの相手と二度会って、そのたった二回だけの出会いの後、話はすんなりとあっけないまでに決まってしまいました。
見合いの話は私の俳句の仲間が持ってきたもので、相手は大津市内の老舗の料亭の後継ぎ息子でした。比叡山の偉いお坊様達も利用される見事な庭のある料亭とかで、私と夫は店の格の違いもあって尻込みしどちらかというと乗り気ではなかったのですが、先方が美菜子のことをすっかり気に入ってしまわれ、相手とその御両親から好きになってもらって結婚するのであればこの上ない幸せであるし、美菜子ももう三十を過ぎたし、二つ下の登や五つ下の紗智子も適齢期となり次に控えているわけだしと、まあ美菜子さえ良ければといったところだったのですが、その主役の美菜子があっさりと「このお話、お受けします」と言いました。その言い方は、やってきた縁談を喜ぶわけでもなく悲しむわけでもなく、実に淡々としたものでした。それは投げやりとかあきらめとかといった感じではなく、なんていうか自分の運命を引き受けるというか、ちょっと大袈裟にいえばそんな具合です。
小学校の先生は辞めてもらって料亭の女将の修業をしてもらうというのが先方の第一の条件でしたが、それに対しても、美菜子は間髪入れず二つ返事で了解しました。美菜子が教師をしていることが、私と夫にとっては生きていく上でのひとつの誇りのようなところがありましたから、私も夫もこの縁談は本当にいいのか、本当に美菜子の幸せにつながるのかと思うことと同時に、自慢の娘が教職を捨てるさびしさも大きく沸いていたのでした。
「無理しなくていいんや。いややったら、すぐにお断りしたるでぇ」
と夫は優しく確かめたのですが、美菜子に躊躇はありませんでした。
三か月後には結納を交わし、半年後には大津で一番立派なホテルで県会議員、市会議員など地元の有力者が多数参列しての派手な結婚式が執り行われました。
美菜子の夫となった杉本賢一郎は料亭のひとり息子であるにもかかわらず板前修業どころか包丁すら握ったことのない男でした。京都の私立大学の経済学部を出ていて、板場からではなく経営面から料亭を取り仕切っていくという姿勢のようでした。「料理せえへん料亭の息子て、なんやしらんおかしなこっちゃなぁ」といみじくも夫は言いましたが、私もまったく同じ思いでした。賢一郎は美菜子より二つ年上でしたが、正直、もう一つ頼りないというか、苦労知らずのお坊ちゃんという雰囲気が漂っていて、地に足が付いていない印象は否めませんでした。大学を出てから銀行員をしていて、三十を過ぎてから料亭の仕事を手伝うようになったそうですが、板場に入らず一体何の仕事をしているのでしょう?
心配しだしたらきりがなく、不安に思いだしたら止まらなくなる娘の結婚ではありましたが、なにはともあれ、二人が乗り込んだ船は港を出てしまいました――。
それから四年。美菜子の結婚生活は順風満帆のようでありました。新婚旅行から帰った翌日から着物を着て、お姑さんといっしょに出迎え、配膳、給仕、片付けと、毎日毎日目の回る忙しさで、なかなか里帰りする暇もないようでした。式を挙げて一年後には女の子、香織が生まれました。香織は驚くほど美菜子によく似ていて、私と夫は初孫というよりもうひとり娘を授かった気分でした。
実はその四年の間にはいろいろなことがありました。
うちのうどん屋のあるG商店街は二十年前位から年々衰退していて今ではもう飛び石のようにしか店がないシャッター商店街となってしまっているわけですが、美菜子が香織を出産した直後、うちの隣の隣にあった三階建ての大きなビルが壊されました。そのビルはマルフクの名前で昭和初期からまさにG商店街のシンボルとして聳えていて、一階はアクセサリーや鞄や帽子、二階は婦人服と紳士服、三階はレストランとして営業され、戦前戦後の湖東湖北の住民にとって唯一のデパートなのでした。レストランは戦後間もない頃、アメリカの進駐軍の将校たちのダンスホールにもなったと聞かされています。大理石の玄関、大理石の丸い太い柱、きれいな曲線を描いていた螺旋階段、豪華なシャンデリア、壁のステンドグラス……マルフクは私たちのあこがれであり、私たちの誇りであったと言っても過言ではありません。彦根に来てG商店街を歩いてマルフクのレストランでビフテキを食べることが、ずっと長い間、湖東湖北に暮らす者にとっての夢だったのです。私がまだ子どもの頃ですがG商店街だけでも映画館が三軒もあった昭和三十年代から昭和四十五年の大阪万博にかけての頃のマルフクの賑わいぶりはそれはとても素晴らしかったです。明日彦根に行くぞと父から聞かされると私は「マルフクに連れてって!」と必ずせがんだものです。別に何一つ買ってもらわなくても良かった、ビルの中に入り綺麗な洋服を見て螺旋階段を歩くだけで胸が高鳴ったものです。そのマルフクが、二十五年前には食品スーパーになり、さらに十五年前にはなんと百円ショップとなり、そして、香織が生まれた年にはついに木端微塵に破壊されてしまいました。食品スーパーになった時には伯爵夫人が一族の斜陽によって団地に住む平凡な主婦になってしまったような気がしましたし、百円ショップとなった時にはついにはその主婦がサラ金に手を出し身を売るまでになってしまったかと呆れ果ててしまったものです。でも、たとえどのような哀れな姿になり果てようともその体が残っている限り私たちにとってマルフクはマルフクであったわけで、それが木端微塵、跡形もなくなってしまいました。月並みかもしれませんが私はマルフクのビルに長い人生を過ごした女の一生を重ね合わさずにはいられませんでした。ビルが壊された日、ヘルメットを被った工事現場の若いおにいちゃんから私は大理石の欠片の一つをもらいました。手のひらに載せてじっと眺めている時、空からぽつぽつと雨が落ちてきたものです。G商店街に降り出した雨は十一月の冷たい雨、液雨でした。
しばらくしてマルフクはきれいな更地となったのですが、深夜、袋町で遊んだ帰りなどにそこでたむろする若者たちが出てきて、タバコを吹かしたり飲み食いする始末。挙句の果ては焚き火までする者も現れはじめ商店街で問題になりかけた頃、事件は起こりました。更地に隣接して建つ和菓子屋が火事になり全焼し、その隣に建つうちのうどん屋も建物の壁が黒焦げになりました。うちのうどん屋は創業は昭和二十五年です。私より三つ年上の夫は今六十三歳ですが、夫の生まれた年に亡くなった祖父が始めました。二十年程前から売り上げは下降の一途であり、近頃では最も繁盛していた頃の半分位の売り上げになっています。昔はひっきりなしにあった出前の注文はまったくなくなりました。それでもまあ食べていくのに困ることなく店を続けていられることは本当に幸せなことだと思っていますし、マルフクのように華やかな時は一度もなかったですが、うちの店の地道な亀のような歩みも、これはこれで良しと思うのです。そんなうちと同じようにG商店街で亀のように地味に歩んできたのが、火災により全焼してしまった隣の和菓子屋です。昭和三十年創業の和菓子屋の御主人の晋さんは今ちょうど八十歳で、火事が起こるまで一つ年下の奥様の光江さんといっしょに夫婦二人で商売をされていました。三人の息子さんがいましたがその三人とも後を継ぐことなく都会に出てしまわれました。いなか饅頭と外郎と六方焼きの味が抜群で、彦根に住む甘党の高齢者にとって欠かすことのできない味でした。「いつまでやるんや?」と客から問われる度に、磨き上げたひょうたんみたいにきれいに禿上がっていて年より老けて見られていた晋さんは「棺桶に入るまでやがな」と笑って答えていらっしゃいました。それがまさか火事によってピリオドを打たれることになるとは、晋さんのやりきれなさが痛いほどわかります。燃え上がる炎が和菓子屋に激しく襲いかかっている時、腰を抜かしてしまってしゃがみ込んでしまった光江さんの傍で晋さんはまるで能面のような顔で呆然と立ち尽くしていらっしゃいました。火災の後、御夫婦は息子さんたちの手配によって、彦根駅前のマンションに住まれるようになりました。そして、隣の和菓子屋の跡地までがマルフクに続いて更地となり、三か月後にはそれらの更地はアスファルトで固められ入り口で白いバーが開閉する駐車場になりました。隠居暮らしの身分となった和菓子屋の御夫婦は今でもちょいちょいうちのうどん屋に来て下さって、晋さんはいつも鍋焼きうどんを肴にして日本酒の熱燗をマンションに移ってから少し耳が遠くなった光江さんのお酌でおいしそうに飲んでいます。この前いらした時に晋さんは「ほんでも人生も店も商店街もなんでもみなおんなじで、祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きありやなぁ。この頃つくづくそう思うわ。昔の人はえらいわ」としみじみと言われていましたが、六十年生きてきた私も同じようなことを思うようになっています。
私が彦根のG商店街に嫁いで来たのはちょうど四十年前、昭和四十八年です。呉服屋、八百屋、魚屋、肉屋、酒屋、米屋、駄菓子屋、レコード屋、時計屋、自転車屋、本屋、文房具屋……G商店街にはさまざまなお店があったものです。そのお店のほとんどがうちのうどん屋以上の長い歴史を有していました。城下町にふさわしい老舗ばかりであり、どのお店にも品格が漂っていたものです。それが、着物が売れなくなり、レコードはCDに変わり、野菜も魚も肉も米も酒も何でもみんな郊外の大型スーパーに並ぶようになり、昭和五十年代に入ってから一つ二つと次々に、伝統あるお店が姿を消していきました。そして後継ぎ息子たちがこぞってG商店街を出てサラリーマンになっていきました。私は嫁いで来てから、老舗のフィナーレを一体何幕見てきたことでしょう。いい時もあれば悪い時もある、ものすごく勢いがある時があれば転がるように落ちていく時もある、そして、形あるものはいつか必ず滅んでいく、晋さんが言った諸行無常の響きではありませんが、そのような理屈を私はこの四十年の間に実生活の中で味わってきた気がします。
さて、和菓子屋の火事があってそんな感慨に浸っていたのも束の間、今度はうちのどら息子が事件を起こしてくれたのでした。高校を卒業後はずっと印刷会社の営業の仕事をしている登ですが、取引先の会社の受付業務の女性と仲良くなり、「結婚させてほしい」とある夜突然言ってきたのでした。登ももう三十歳になっていましたし、年齢的にはちょうどいい頃でしたが、話を聞くと付き合ってまだ半年も経っていなくて何かこう慌てふためいていて落着きがなく合点がいかないのでした。何をそうことを急ぐ必要があるのかと、私と夫が問い詰めていきましたら、「もう相手のおなかに子どもができてしもうて……」と言って小学生だった頃のように声を出して涙を噴水のように飛ばして泣き出す始末。相手は会社の社長の末の娘さんで大学を出られたばかりで二十三歳とか、祖父である会長は少し前まで市会議員をされていて、家はお城の近くにある大きな邸宅で、市内でも名の通った資産家でした。「一人ではとてもよう行けん」と情けなく言う登に付き添い私と夫は社長宅に伺いました。夫は畳に頭を擦りつけ、私も同じように畳に顔をくっつけ、少し遅れて登も涙を流しながら土下座をしました。三人が体を上げさせてもらった時、優しくにっこりと笑ってくださった社長の顔が本当に阿弥陀様のように思えたものです。社長は言われました。「子ができたからといって男のほうが悪いとは限りません。うちの娘のほうから誘ったのかもしれません。男女のことは常に罪は半々ですよ」と。すでに子どもを宿しているということで、二人はすぐに結婚式を挙げ、北に伊吹山がきれいに見える芹川の池洲橋近くのアパートで暮らし始め、すると間もなく四キロ近い元気な男の赤ちゃんが生まれました。翔と名付けられた登の息子は美菜子の娘の香織より一つ年下です。
3
「ただいま」
と、まるで小学校の教師をしていた頃と同じようにそう言って小さな香織の手を引いて美菜子がよく帰って来るようになったのは、美菜子の結婚生活が五年目を迎えた頃からでした。はじめて突然帰って来た時は、きっと犬も食わない夫婦喧嘩でもしたのだろうとこちらもあまり心配もせず何も聞かず、美菜子は一晩だけ泊まって翌日にはそそくさと戻って行きましたが、それが三か月位してまた帰って来て今度は三日いて、さらに二か月して一週間いて……と、里帰りの間隔は狭まり滞在期間は長くなっていきます。
「わたしら、もうあかんかもしれへん」
まっすぐに向き合い問い詰めると美菜子はそう力なく言いました。
「あかんって、あんたらずっとうまくいってたんとちがうの?」
「うまくいってるなんて、一回でも言ったことある? わたしはね、大津に働きに行ってるんと同じよ、毎日毎日、朝から晩まで、料亭で働いてるだけ。結婚生活をしてるんと違うんよ。妻でもないし、女でもないん、働き手の一人にすぎひん」
「……」
「新婚旅行に行った時から、この人とはもう絶対あかんって思ったわ」
「なんで今頃になってそんなこと言うん?」
「ちっとも愛されてないのに、いっしょにいるんはもう耐えられへんの」
「愛されてないって、どうしてそんなことがわかるの?」
「それはおかあさんによう言わんけど、確かなことなんよ」
密かに付き合っている人がいるのではないかと思っていた独身だった頃の四年間もそうでしたが、同じ女として娘と接する上で、私には理解できない部分というか、苦手な、弱いところがあります。それは、私が恋することを知らずに母親になっていて、男と女のことに関してまるで無知である点です。結婚して、子どもができて、夫婦仲良く家庭を築き上げていけばそれだけでもう十二分に幸せだと考える私は、どうも根本的に男女の色恋の部分が抜け落ちてしまっています。美菜子はあの四年間のうちに、その私の中にはないものを入れ込んでしまったような気がしてなりません。そもそも愛する、愛されるということはどういうことでしょう? 恥ずかしいことなのかもしれませんが、私にはその愛するという言葉すら正直よくわかりません。
簡単に、ひとことで言ってしまえば、美菜子は私よりはるかに女なのでしょう、そういうことでしょう、おそらく。
私の夫は毎日朝の六時には起きて、こんぶや煮干しをつまみ花がつおをどばっとつかんで一心不乱に出汁を作っています。もくもくと白い湯気を立てごはんを炊き上げ、きれいにすみずみまで掃除し、暖簾を出し、水を捲いて、お客さんが入って来ると「いらっしゃい」と声を張り上げ心底うれしそうな表情になり、うどんを丼を丹精込めて懸命に作っています。おいしいものを作り、お客さんにおなかいっぱい食べてもらって、満足した顔で帰ってもらって、そうして日が暮れるまで働き続ける、ただそれだけでいい人です、他に何もいらないくらいです。私も、似たようなもので、そんな夫につき従い、夫といっしょにこのうどん屋で朝から晩まで働けたなら、それでもうこの上ない幸せに思えてしまいます。
あの木端微塵に砕け散ったマルフクではありませんが、美菜子は大理石や螺旋階段やステンドグラスまでを体の中に宿してしまったように思えてなりません。それは別にお金のかかる豪華なものという意味ではなく、マルフクにあってうちの店にはない、プライスレスの目には見えない華というか業というかそういう女としての何かです。
あの美菜子が一等美しく見えた頃、私はがんばって背伸びして、美菜子といっしょになってよく映画を見たものです。週末に美菜子がビデオショップで借りてくる洋画のビデオをいっしょになって見ました。『哀愁』、『カサブランカ』、『シェルブールの雨傘』、『ひまわり』、『恋におちて』……母親として今の娘を少しでも理解したい、娘と少しでも語り合えるようになりたいと、苦手としている色恋について一生懸命に勉強している感じでした。幾作もの映画を美菜子といっしょに見て決定的に違っていたこと、それは私と美菜子では涙する場面が微妙に異なるということでした。
この場面でこんなふうに見入り泣く娘は、一体どういう体験を実生活の中でしているのだろう? と、よくそんなことを思いました。美菜子が学校に行ってしまってからも、店がひまになると二階の居間に上がってビデオを再生し、ぼんやり溜息をついていたものです。
それにしてもひと口に女といってもさまざまで、私と美菜子がそんなふうにして洋画を見ている時、妹の紗智子ときたらスナック菓子を片手にファッション雑誌をペラペラ捲りながら「おかあさんもおねえちゃんもようそんなしんきくさい外国のメロドラマをど真剣に見られるなぁ」とあきれたように鼻で笑うのでした。美菜子が悲劇のマルフクで、私が平凡なうどん屋だとしたら、紗智子は気軽な百円ショップだと思え、なんだかおかしくなってきたものですし、その紗智子の色気とは程遠いお気楽な感覚もまたこれはこれでいいのではないかとも思ったものです。
その五月の昼下がりも暖簾の向こうのG商店街の通りには雨が降っていました。商店街のお城側の細い裏通りを少し歩くとけっこう大きな公園があるのですが、朝散歩をする度にその公園の緑が鮮やかに色づいてきていた頃で、俳句仲間のインテリによるとそういう緑に降りかかる雨のことを翠雨と呼ぶそうです。自然界の草木が若々しい元気に満ち溢れる時だったというのに、わが家はそうはいきませんでした。
美菜子が香織を連れてまた帰ってきました。「ただいま」の声もなく、打ちひしがれてという言葉がぴったりの顔つきで転がり込むように店に入ってきたのです。「もうどうしたんよ!」と思わず私が大声を出してしまうと、夫はそんな私の感情的な態度を制して「まあ、お茶でもどうや」と優しい声でもって店の奥にある畳の席に二人を座らせました。
時々帰って来るようになって一年が過ぎていました。何故なのかわからないですが、この翠雨の中を彦根駅から歩いてきて、畳の上にまるでお雛さんみたいにちょこんと座った美菜子の横顔を見て、もう美菜子と賢一郎の夫婦は元には戻らない、もうこの子は二度と大津には帰らないと思ったものです。あとで聞いて知りましたが、実は夫も同じような思いに駆られたといいます。
美菜子も香織も、夫が差し出したきつねうどんを黙々と食べました。五歳になっていた香織はちゃんと行儀よく正坐し箸を上手に使い、黙り込む母を真似るように静かにうどんを啜っていました。結婚してからずっとショートにしていた美菜子の髪が随分と伸びていて、肩にかかる髪が雨に濡れたのか湯上りのようでした。大きくなった孫に驚き、すっかりやつれた娘に驚き、私と夫は店の椅子に腰掛けぼんやり二人を見つめていました。髪に包まれた娘の顔の左には青痣があり、前夜の夫婦のいさかいを物語っていました。
「お店、ひまやねぇ。いっつもこんなんなん?」
先に口を開いたのは美菜子の方でした。
「あぁ、最近は夕方まではこんなもんや」
「おとうさん、わたし、おとうさんの作ったうどん食べるん、久しぶりやわ」
「ほうか、どや? うまいけ?」
「おいしいわ。もう、泣けてくるくらい、たまらなくなるほど、おいしいうどんやわ……」
そう言って、美菜子はさめざめと涙を流し始めました。美菜子の涙に気づいた香織が、
「おかあさん、なんで、泣いてるん? なんで泣くの?」
と、うどんを啜るのを止め、心配そうに聞きました。
「あんまりおいしいから……」
「おいしいと、泣けるん?」
「そう、香織も大人になったら、わかる」
香織の頭を撫でた後、美菜子はただひたすら泣き続けました。まるでこれまで耐えに耐えずっと我慢してきたものが一気に溢れ出てきたような涙でした。その流れ落ちる涙は私と夫の口から発する言葉を根こそぎ奪い去ってしまいました。
美菜子の箸は止まり、香織が啜るうどんの音だけが響いていました。思わず抱きしめたくなるくらい、うどんの音が可愛いのです。母の苦しみ、母の悲しみの前で、うどんの音はどこまでも無邪気なのです。
美菜子の夫の賢一郎にはどうやら他に思いを寄せる女性がいて、その関係は結婚するずっと前からで、さらに今もなお続いているようだと美菜子は言いました。結婚前はともかく結婚後もそうだとしたなら、それではあまりにも酷い仕打ちです。
美菜子が大津に戻らないことに、私も夫も異を唱えませんでした。夫は、美菜子も香織ももうここにずっとおったらええがな、とまで言いました。独身を続けていて病院の事務室ではすっかり古だぬきになってしまっている紗智子は相変わらずのノウテンキで「おねえちゃんがここにいてくれるんやったら、わたし、アパートで一人暮らしはじめたいわ」としょうもないことを言っていました。
それから、一週間程して賢一郎が来て、さらに十日程して賢一郎の御両親が来て、美菜子に戻って来るよう説得されましたが、美菜子は頑として応じませんでした。
賢一郎は他に女性がいることを認めませんでした。それは美菜子の思い違いに過ぎないと言い張り、むしろ、自分の方が愛されていない気がしてならず、美菜子の方に他の男性の影を感じるとさえ言うのでした。
また、賢一郎の御両親も、息子には他に女性を作れるほどの甲斐性があるとはとても思えないと言われ、御両親はそのことよりも、美菜子には朝から晩まで働かせ続けて申し訳ないと、そちらの面での謝罪と反省に終始していらっしゃいました。
それにしましても男女のことはまったく藪の中です。自分の娘ですから美菜子の言うことに肩入れしたくなるのは人情というものです。でも何かしらこう百パーセント信じきれない靄のようなものが美菜子を包んでいるような気がするのです。
賢一郎の御両親が来られた日の夜、うちのうどん屋同様に売り上げは減ってはいるもののがんばってG商店街で商売を続けている喫茶店のマスターの浩二さんがいつもの卵入りの天ぷらうどんを食べにやって来られました。ちょうど店のテーブルに美菜子と香織が座っている時でした。美菜子を見つけるなり「里帰りかいな? あんたもええおかあさんになったなぁ」と浩二さんは朗らかに言いました。浩二さんが店に来られて、私は考えなくてもいい余計な想像で頭の中が変になってしまいそうでした。美菜子ちゃん、二、三日前に湖岸道路を彦根から長浜に向かって男の人が運転する車で走ってなんだか? 男の人は白髪混じりの五十過ぎの感じで、美菜子ちゃんえらい楽しそうに笑ってて男の人の肩に顔を預けていて……という具合に、浩二さんが突然言い出すのではないか? そして、美菜子ちゃん、あの二、三日前の男の人って、確か美菜子ちゃんが二十代の独身の頃にお付き合いしていた人やねぇ……と追い打ちをかけてくるのではないか? 浩二さんの顔を見た途端にそんな不安と恐怖に襲われそわそわしていました。
美菜子と香織が大津に帰らないまま、日はどんどん過ぎゆき、月まで一つ二つと変わりゆき、やがて、美菜子は正式に離婚したいと言い出しました。けれども、大津の家は離婚だけは絶対にさせないとのこと。それで、宙ぶらりんの別居状態が続いていくことになります。美菜子はふさぎ込むことが多くなり鬱病を患ったような状態になりました。そして、心だけでなく体の方もこの頃から不調を訴えるようになりました。おなかがいたい、胃がもたれる、胸焼けがする、吐き気がするといった言葉を今にして思えばこの頃から耳にするようになっていました。美菜子は結婚して六年が過ぎていて、三十七歳、昨年のことです。
4
「おかあさん、おばあちゃんといっしょに病院の外を歩いてきて、月見だんご、買ってきたよ。今晩は晴れるといいね」
今夜は十五夜。でも、あいにく窓の向こうW湖は鉛色の曇り空に包まれてしまっています。香織は昨日からこちらに来ています。二人してプリンを食べた一昨日の夜、美菜子の体調があんまりいいので彦根に電話をして、急遽紗智子に連れて来てもらいました。紗智子は仕事の関係でとんぼ帰りしましたが、香織は明後日までこちらにいてくれます。こんなに体調がいいことはもうこの先ないのかもしれないという気がしてきて、だとすれば香織と美菜子がちゃんと向き合えてしっかり言葉を交わし合えるのは今しかない、そう思うともういてもたってもいられなくなったのでした。
「小学校は楽しい?」
「うん、運動会が終わって、今は、音楽会の練習してる」
「香織は、なんの勉強が一番好き?」
「算数。数の計算が得意」
「そう、算数か、おかあさんと正反対やわ。ねえ、お友達はいっぱいできた?」
「うん。いっぱい」
「昼休み、何して遊んでるん?」
「今はドッジボール。男子対女子でやってる」
「やっぱり男子には負ける?」
「そんなことない! 女子のほうが強い!」
美菜子は泉から水が溢れ出るがごとく矢継ぎ早に質問を浴びせ、香織は一生懸命に答えています。私はそんな二人のやりとりを後ろに聞きながら、W湖を見つめています。
むかしむかし、琵琶湖のそばの小さな村に住むある男が村の娘を大好きになり、寝ても覚めてもその娘のことだけを考えるようになったのですが、ある日、娘は突然姿を消してしまい、男はすっかりふさぎ込んでしまい洞窟の中に入ったきり出てこなくなり、男までもが行方不明になってしまったそうですが、やがて十年の時が流れ、A県で娘は見つかり、娘が見つかった直後、行方不明になっていた男が大きな龍の姿になってW湖の水面から昇り出てきたというのです。私の夫は今の香織と同じ年の頃、G商店街の裏通りにあるお寺の日曜学校でそんな伝説の紙芝居を見たそうです。私が美菜子といっしょにW湖の畔の病院に転院すると言った時、夫はそんな話を聞かせてくれ、琵琶湖とW湖とは地中深くつながっているわけだからこれも一つの縁なのかもしれない、と言ったのでした。
「美菜子さんの腫瘍はすでにもう広範囲にわたって転移してしまっているようです。これまでいろいろと本人には自覚症状があったはずなんですが、随分と我慢されていたんでしょうね、もっと早く来院してほしかったです。申し上げにくいわけですが、余命はごく限られたものになりますね……」
琵琶湖の畔に建つ彦根の病院でそんなふうに医者から宣告されたのは、三月下旬、美菜子の三十八歳の誕生日より四、五日前でした。下向き加減に言いにくそうにぼそぼそと話される若い医師が背にする窓の向こうには、湖岸の木々の緑が見え、その枝々には美菜子が生まれた時と同じように春の雨、催花雨が降り落ちていました。このことは美菜子には言いたくない、隠しておきたいというのが私と夫の思いでしたが、正直に言ってあげることのほうが本人のためだとそれまで伏せ目がちだった医師が顔を上げ私たちを刺すような目で見て言われ、その夜、親子三人並んでもう一度医師の話を聞いたのでした。あと半年位になるかもしれないとの言葉に対しても、不思議なことに美菜子は泣きませんでした。まるで自分の病名を以前から知っていたかのようでした。どうしたらその余命を一日でも長く伸ばすことができるかについて、冷静に耳を傾けていました。
美菜子との離婚に首を縦に振らなかった大津の家が、その診断書を送りつけると、すぐに離婚届を送ってきました。
香織の小学校の入学式だけはなんとしてもいっしょに行きたいと言ったので、その桜の花が満開だった入学式から帰って来るやいなや、美菜子は入院し、抗癌剤治療をすることになったのでした。
四か月余りの腫瘍との壮絶な戦い。小学生になったばかりの娘のためにも少しでも長く生きたい、生きることをあきらめたくないという母としての強い意志が、美菜子の心を体を支え続けた四か月余りでした。美菜子は一度として、弱音を吐きませんでした。泣きごとも言いませんでした。
もうこれ以上は抗癌剤治療はできない、腫瘍と戦うことはやめて、痛みを和らげる形に切り替えて、穏やかに残された日々を過ごすほうがいいのではないか? と夏の終わりに担当の医師は言ってきました。けれども、美菜子は院内の緩和ケア病棟に移ることに断固として応じようとはしませんでした。
いつどうやって調べたのか知りませんが、A県のW湖の畔に漢方治療で有名な病院があるので、そこに行って、もう少しがんばってみたいと、美菜子は主張しました。
私も夫も美菜子の思い通りにさせてやりたい、ただただ、それだけでした。
「おかあさん、おなか、痛い?」
「だいじょうぶ」
「おかあさん、いつ退院できるん?」
「……もうちょっと先」
「おかあさん、退院したら何したい?」
「うーん、いっぱいありすぎて難しいなぁ。あっ、そうや、おじいちゃんが作ったきつねうどんを一番に食べたい!」
「へぇー、そうなん」
いつしか、質疑応答は娘から母へと代わっていました。
そして、W湖の水面にはぽつりぽつりと雨が落ちてきました。十五夜に降り月を隠す無情の雨。夫はそれを雨月だと教えてくれましたが、美菜子によるとそれは月の雨とも言われているそうです。今降り始めた月の雨ですが、私には十年前からずっとずっと美菜子には降り落ちているように思えてならないのです。
(了)
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