小説 市民文芸作品入選集
特選

ペーパー・ムーン
米原市 潮田 真結美

 放課後の学校の廊下は、よそよそしい。琴子は職員室に戻る足を止めて、渡り廊下の端に眼をやった。
 休み時間になると小学生たちが花いちもんめをしたり、おしゃべりを楽しんだりする廊下は、誰もいないと広くて静かだった。
 校庭の隅では、木々が若葉を茂らせている。ここ数日で急に緑が濃くなった。
 知らない間に雨は止んだらしい。
 職員室に戻ると、琴子はポケットに入れておいた赤ペンを取り出した。詰め替え部分が弱っていて、時々そこからインクが漏れる赤ペンである。
 琴子の右手の中指は、時おり、第一関節が赤く染まった。インクが漏れて琴子の指につくと、ちょうどナイフで誤って切ったときのような色合いになる。
 何度も捨てようと思ったが、まだ使えるし、それに配膳室で働く琴子には、数の修正を記入するのには、このペンの使い心地が一番よかった。
 琴子が子どもの頃は、学校の中で給食が作られていた。しかしこの頃は、給食センターというところから給食が送られてきて、それをワゴン車に乗せて各教室に配分する仕組みになっている。その方が少ない人員で給食を作ることができるらしい。
 おかげで琴子の仕事があるわけだが、この仕事の前は運送会社に勤めていて、人員整理の波をくって首になったことを思えば、合理化がよいのか悪いのかは、よくわからない。
 琴子は自分でも、その赤色を眼にするとひやりとすることがあった。いつの間に指を切ったのだろう。朝、慌てて食事の支度をしたときか、それとも家の鍵を締めるとき、新聞受けから顔を出している釘の頭でひっかいたものか。しばらく考えて、ああ痛みがない、また勘違いしたと思う。でも、赤色を見る瞬間は指を切ったのだと本当に思ってしまうのだった。
「おばちゃん、指、どうしたの」
 時々、配膳室近くで出会う女の子が声をかけてくる。
「指、切ったの」
「ううん、大丈夫。赤ペンのインクがついたみたい」
 こんな会話を何回したことだろう。でも琴子が一日の中でまともに話すのは、このときぐらいなのだった。
 琴子の席は職員室の後ろの出入り口に一番近いところにある。
 ポット置き場や流しに近く、仕事をするのには便利だが、他の職員がそれぞれ学年ごとに固まって座っているのと比べれば、一人だけ離れている感じがあった。前の配膳員だった人が、この場所がいいと言ったそうで、それを踏襲して席が決められていた。ポットの湯がたぎる音が聞こえるだけで、電話の音も他の職員が打ち合わせをする声も少し遠くになる。
 それに小学校の先生というのは、自分たちの教室にいることが多かった。給食も教室で食べるので、昼間の職員室はしんとしている。事務職員と養護教諭、それに学級担任でない職員が数名、昨日のプロ野球の結果なんかを話題にして給食を食べていた。
 琴子はここではほとんど話すことはない。事務連絡をいくつかすれば、共通の話題はないのだった。家に戻っても、母親の菊江と二人暮らしの毎日で、一日中眠ってばかりいる菊江とは会話らしい会話も交わさないのだった。
 そのかわり、家を出るまではたいへんだった。
 自分の身支度を済ませると、菊江の着替えを手伝い、顔を洗わせ朝食を作る。昼の用意はもちろん夕食を早く食べたがる菊江のために夕食も弁当箱に詰めておく。デイサービスに行く予定の日は昼の弁当はいらないが、着替えを用意しなければならない。
 紙に大きく、「昼、赤の弁当箱。薬、ピンクの入れ物。夜、緑色の弁当箱。ポットのお湯をお椀に入れるとみそ汁ができる」と書いて残すのが習慣になった。しかし、これがまた、菊江の理解の範疇をこえるのだった。
「弁当がない、私のご飯はどうなった。薬はどこにあるんや」
 家から緊急の電話がかかっているというので急いで電話に出ると、菊江の哀しげな声が響いていた。
 菊江は、ときおり記憶が薄れて薄い雲の向こう側に行ってしまうらしい。この頃、菊江とまともな話はしてない。
 職場でも、琴子は孤独だった。小学校の教師はそれぞれに忙しく、話かけるのもはばかられた。
「水野さんはえらい大人しいんやな。前の人なんか、一日中しゃべってたで」
 教頭がそう声をかけてくることがあったが、琴子は「そうですか」と言って笑うだけである。結婚に失敗した中年の女がしゃべることなど、ほとんどないのだった。
 しかし、琴子の指を見て話しかけてくる人間が一人いた。 
 それは昨年から琴子の隣の席に座っているジョナサン=スミスだった。
「大丈夫デスカ」
 ジョナサンは小学校で外国語学習が導入されてから、補助教員として週に二、三回やってきた。自己紹介をするとき「ジョント呼ンデクダサイ」と言ったが、琴子はそれが犬の名前みたいに思えて、ずっと「ジョナサン」と呼び続けている。
 最初、琴子はジョナサンが何のことを言っているのかわからなかった。ジョナサンの眼が自分の指を見つめているのに気がつき、ようやく、赤インクが意味するところを理解した。
「切ったのではないのです。インクがつきました」
 ジョナサンに言うと、彼は安心したように微笑んだ。
 二十七歳デス、とジョナサンは自己紹介をするときそう言っていたが、眼鏡の奥の緑色かかった茶色の瞳、シルバーのやや縮れた髪の毛は、その年齢をよくわからなくさせていた。にこりと笑うとその口元がふっくらとしていて、ああそうか、と納得するのだが、ジョナサンの肌は荒れていて、時々自分と同じ年くらいに思えたりした。
 ジョナサンの眼は少し離れていて、正面から見ると魚の顔によく似ていた。深海魚の顔のように思えたが、彫りが深くて鼻筋が通っているあたりはさすがに欧米系の顔立ちだった。皮膚の色が白くてそばかすがよく目立ったが、サングラスをかけると、どことなくトム=クルーズに似ていて格好がよく、琴子は、さすが外国の人やわ、と感心した気持ちになった。
 琴子は割合肌のきめが細かく、若い頃は気になっていた細い眼も、年を経ると東洋らしい顔立ちという印象を与えた。ジョナサンに、もう五十になるのだと伝えると、「ソウ見エマセン、キット嘘デショウ」と言うのだった。
「僕ノオ母サント、ソンナニ変ワラナイ。僕ノオ母サン、五十三歳。水野サン、若ク見エマス。You look young.」
「Thank you.」
 ジョナサンはもう一度にこりと笑う。
 ジョナサンの英語は早口でわかりにくかった。もっとも、ゆっくりしゃべってもらっても琴子が理解できるかどうかは怪しい。しかし、ジョナサンは日に何度か熱心にしゃべりかけてくる。その度に琴子はなんとか会話を成立させたいと思った。
「水野サン、キョウノ給食、煮込ンダ野菜、アレハ何デスカ」
 たぶんお浸しのことを言っているのだろうと琴子は推測して、あれはボイルした野菜にソースをかけましたと答えると、ジョナサンは「Oh. how disgusting.」と応えた。
 お浸しには胡麻が入っていて、ジョナサンには馴染みがなかったようだった。
「甘イすーぷアリマシタ。好キジャアリマセン」
 ジョナサンは、ぜんざいのことをそう言った。
「あれは、小豆という豆を煮たスープにお餅を入れたんです。お正月によく食べます」
「オ餅デスカ」
 ジョナサンは肩を落としてつぶやいた。
「アレハ好キデハアリマセン」
 琴子の言っていることがどれほど伝わっているのだろうと思う。甘いスープに白い得体の知れないものが浮いている、とジョナサンは思っているのだろう。
「あれは、日本の古くからの食べ物です」
 そう言いながら、滅多に食べないぜんざいのことを考えた。給食では普通の餅ではなく、白玉団子が入っている。カロリー計算と栄養バランスの都合からか、小さなコッペパンと野菜炒めがついてくる。
「日本人はこんな風には食べません」
 琴子は付け加えたが、ジョナサンは首を振った。うまく伝わっていないようだった。
 ジョナサンが学んできた日本語と、琴子が話す日本語との間には、微妙な差があるらしく、細かいことは伝わらない。その上、ジョナサンの英語は、少し複雑になると琴子にはさっぱりわからないのだった。
 ジョナサンは給食を食べる前、「コレハ何デスカ」と必ず聞いた。日本食にも給食に慣れていないらしく、自分が食べる物が何かおぞましいものだと感じるらしかった。しかし、その説明をすればするほど、琴子はジョナサンと離れていく気がした。
 給食には和洋中華の料理が出る。しかも、微妙に本物からかけ離れているところがあった。メニューには「焼き肉」と書いてあっても、野菜炒めに肉が混じっているような内容だったし、「エビチリ」とあっても、そこにはジャガイモを揚げたものや人参、玉葱が入り込んでいた。
 琴子はいつも、クラスごとに分けられた食缶をワゴンに積みこむ。エレベーターで教室近くまで運ぶのも、職員室の教師のために給食を配膳するのも琴子の仕事だった。皿に焼き魚と大根おろし、プラスチックの丼のような椀に味噌汁を入れるといった具合だった。職員室に運びこんだものをジョナサンも食べるのだが、焼き魚に添えられた大根おろしがよくわからないらしかった。
「コレハ何デスカ」
「大根おろしです。焼き魚と食べます」
 日本の食文化を伝えようという配慮で大根おろしがついているのだが、もうすでに醤油がかかっていて、しかも辛みを抑えるためなのか、林檎のすり下ろしが混じっていた。斑になった茶色いマッシュポテトのようなものを、ジョナサンは理解できないようだった。
「コレハ何デスカ」
 少し緑色のかかった眼で、ジョナサンは哀しげに聞く。大根です、と言っても大根はおでんに入っていると言う。
「私、コレ、食ベラレマセン」
 琴子はうなずいて、ジョナサンの食べ残しの食器を受け取った。
「スミマセン、食ベラレマセン。スミマセン」
 琴子はまたうなずいたが、ジョナサンは視線を落としていて、それを見ていないようだった。
 食べられなくても大丈夫ですよ、琴子は言いたかったが、ジョナサンは打ちひしがれていて、琴子の方を見ようともしなかった。
 大丈夫ですよ、食べられなくてもあなたが日本のことを嫌いになったとは思いません。第一、あの大根おろしは本当の大根おろしではないんやから。
 そう伝えたかった。でも、どう言えばいいのだろう。
 琴子が日本語で話してもジョナサンには通じない。ジョナサンが英語で話せば、なおさら通じない。そのくせ、ジョナサンが職員室で一番話をするのは琴子で、琴子が話すのもジョナサンだった。
 
 琴子の指はときおりインクで赤く染まる。
 その度にジョナサンは心配そうに琴子の顔をのぞきこんだ。
「指ヲオ切リニナッタト私、思イマシタ」
 ジョナサンは琴子の手を指さしてそう言い、自分の胸をなで下ろす仕草をした。
「Don't worry.」
 英語で答えるが、それが合っているかどうか心配になって急いで日本語で言う。
「心配してくれてありがとう」
 琴子は、こういうとき、自分は本当に典型的な日本人なのだと思う。簡単な英語を口にするだけで気恥ずかしさを感じてしまい、声が小さくなる。                 
「水野サン、疲レテイルヨウデス。大丈夫デスカ」
「大丈夫です」
 そう答えて笑うとジョナサンもにこりと笑った。
「水野サン」とジョナサンが琴子の名前を言うと、ミジュウノサンと聞こえた。たぶんジョナサンは席が隣というだけの理由で琴子に話しかけてくるのだろうが、それでも自分のことを心配してくれる人間がいるというのは、琴子の心を明るくした。
 家に帰っても、誰も琴子のことを気にかけてはくれない。菊江は自分のことで精一杯だった。
「あんた、私の眼鏡を知らんかいな」
 菊江は首に眼鏡を引っかけたまま、そう琴子に聞いてくる。老眼が進んだ上に白内障を患っている菊江は眼鏡をかけるようになったが、いつもそれをどこにやったか忘れてしまった。琴子が眼鏡吊りを買ってきて首にかけられるようにしてやったものの、そのこと自体を菊江は忘れてしまう。
「ここにあるわ」
 琴子は苛立ちを押さえて菊江の胸で揺れている眼鏡のところに菊江の手を運んでやった。菊江の手は小さく冷たかった。
 美容院に連れて行き、菊江の髪がふんわりとなるようセットしてもらっているので、ぱっと見ると、上品な老婦人に見える。衣服も毛玉がついていない物を用意し、上下の組み合わせにも気を配る。デイサービスの担当者からは「水野さんはいつもおきれいやね」と言われていた。そう言われると菊江はにっこりと笑う。しかし、自分では衣服の乱れを直すこともできなくなっていて、琴子が気がつくと、下着がはみ出ていたりズボンが半分ずり落ちていたりした。 
 菊江はもう、琴子のことを娘だとはわかっていないのかもしれないと時々思う。眼鏡をかけてもどれだけの物が見えているのか、それも琴子にはわかりかねた。ただわかっていることは、幼い子どものようになった菊江が琴子の庇護を必要としているということだった。
 学校で働いているときだけは菊江のことを忘れていられた。
  今日の給食のメニューはパンに魚のフライ、野菜スープ、ポテトサラダ、チーズというものだった。給食センターとは別の配送センターから送られてくる牛乳とパンをクラス別に数え分け、食器などをクラスごとに配置する。予定では棒状のチーズだったが届けられたのはスライスチーズで、給食センターに電話をして確かめると、配送の都合で変更になったという。
 それならそうと、向こうから連絡してくれればええのに。琴子はそう言いたいのを我慢していると、さらにセンターの係が、
「すみませんけど、スライスチーズに変更になった、って全学級に知らせといてくださいね」
 と言う。琴子はため息をつきながら電話を切った。
 例の赤ペンでチーズの箱に「スライスチーズに変更になりました」と学級ごとに書き込んだ。どれだけの教師や子どもが、チーズの変更に気がつくだろう、と思う。でも変更を知らせておかないと、後で「チーズがついていなかった」と大騒ぎになったりするのだった。案の定、赤ペンからはインクが漏れ、琴子の指は赤く染まった。
 あっという間に時間は過ぎていく。
 職員室にいる教師の給食を盆に載せて、それぞれの机の上に配っていると、ジョナサンが自分の席に戻ってきていた。ジョナサンの机の上に給食を配ると、ジョナサンはにっこりと笑った。
「オイシソウデスネ、水野サン。アリガトウゴザイマス」
 洋風の給食の方がまだ食べられる様子だった。
「五年生ノ生徒ト、アイサツの勉強ヲシマシタ。ミンナ元気デ、楽シカッタデス。授業、スムーズダト、楽シイ。ソウデナイト、悲シイ」
 コッペパンに魚のフライもサラダもチーズもはさみこんで、ジョナサンは言った。
「日本ニ来テヨカッタト思イマシタ。初メテ、ヨカッタト思イマシタ」
 ジョナサンはふるさとのインディアナの大学で日本語を専攻していたという。そのときの友達が日本で仕事につき、ジョナサンも勧められて日本にやってきたというのだった。
「ソレマデ自動車販売ノ仕事、シテマシタ。デモさらりーヨクアリマセン。ソレデ日本、来マシタ」
 ジョナサンは首を振りながら言った。
 琴子は昔見た、「ペーパー・ムーン」という映画のことを思い出した。あの映画で主人公モーゼは聖書の販売をしていたのだった。当然サラリーもよくなくて、安ホテルに泊まり詐欺まがいのことをして小金を稼いでいた。ちょっと恰好がよくて口もうまいが、金儲けは得意ではない。元恋人だった忘れ形見の娘アディと知り合い、親戚の家まで送り届けることになる。
 アディはティタム=オニールが扮していた。かわいくて頭も切れる少女は、モーゼの詐欺の手伝いをするようになる。親を亡くしたアディは心細くて寂しいが、そのことをモーゼには伝えられない。一方モーゼは、この少女と旅をするのは不本意であったが、だんだん詐欺を働くには便利だとわかっていく。
 互いの思惑が交錯する中、次第に互いのことを分かり合っていく二人だが、親子のようになれたかというとそうでもなかった。どこか隔たりがあるまま、不安定な二人は不安定な金稼ぎをして旅を続けるのだった。
 ジョナサンはきちんとした販売をしていたのだろうが、琴子はジョナサンもモーゼと同じ、危ない橋を渡って来たように思えた。古い町並みの中、ジョナサンも一軒一軒家を訪ねて歩き回っていたような錯覚にとらわれる。
「車ヲ買イマセンカ」
 哀しげな瞳で相手を見ながら、おずおずと話すジョナサン。故郷で仕事をしていたなら、英語で話したのに決まっているのに、琴子の頭の中では、片言の日本語で、ジョナサンは商売をしているのだった。
 モノクロの画面、古いアメリカの町並み。
 母親を亡くして身寄りのない女の子、アディ。それがジョナサンの心細さと通じ合っている気がした。アディは、父親かもしれない男と本当の親子のようになっていく。でも儚い関係性は続くのだ。利発でしっかりした少女がときおり、不安や寂しさを見せるのが、切なかった。
 あの映画は、別れた夫と初めて見た映画だった。その頃古い映画と最新作の二本立てが上映されていて、まだ若かった琴子は、「ペーパー・ムーン」を見ただけで満足してしまった。もう十分映画を見た、という気持ちになったものだ。
 中学校教師だった夫は忙しく、一緒に映画を見に行ったのはあれが最後だったかもしれない。仕事熱心で、家に戻ってから数学の苦手な中学生のための練習問題を作っていた。プリントの枠の中に文字や数字を入れていくときちんと解けるように工夫されたプリントを、毎晩手書きで書いていた。
 その夫と最初で最後に一緒に見た映画だったから、今まででも鮮明に覚えているのだろうか、と琴子は思う。
 夫との間には一人子どもができた。男の子だった。
 男の子なら誠、女の子なら直子という名前にしたい、と夫は言った。琴子に異論はなく、子どもの誕生を心待ちにしていればよかった。
 生まれた赤ん坊は、肌の色が白くて透き通っていた。菊江は「こんなかわいい赤ん坊は見たことがない」と言って喜んだが、琴子は何か胸騒ぎがしていたのを今までも思い出す。
 病院の新生児室はガラス越しで中がのぞけるようになっていた。そこからベットを見ると小さな赤ん坊たちが母親の名札を掲げられたベットに横並びで寝かされていた。誠も水色のベビー服を着せられて眠っていた。あんまり眠ってばかりいるので心配になったが、看護師たちは、赤ん坊はほとんどを眠っているからと教えた。整った顔つきをし、眠っている間も、誠は悟りを開いているような表情をしていた。よく言えばしっかりとした顔つきだったが、そこに空恐ろしいようなものを感じて、新生児室脇で琴子は貧血を起こしかけた。廊下にうずくまっていると、新生児室から看護師が出てきて、琴子を抱き上げた。
「お母さんはゆっくり休養をするのが仕事ですよ」
 そのまま部屋に連れて行かれたが、琴子は、自分が座り込んだときの、地面に吸いこまれそうになっていく感覚がずっと忘れられなかった。
 誠は眠ってばかりいたが、ときおり、ほんの少し、眼を見開いていることがあった。誠は濡れたような瞳で琴子を見上げた。色が白くて、生まれたての赤ん坊には見えなかったが、その瞳の色も少し茶色が混ざっていて、そこも普通の赤ん坊とは違っていた。
 新生児は視力がまだ育っていないと聞いていたのに、誠の眼は琴子の顔をとらえているようだった。琴子がじっと見つめると、誠も茶色の瞳で琴子を見つめ返した。
 自分の子どもでありながら、誠はどこか遠いところにいる感じがした。
 病院から戻って二週間たったとき、夫は県大会の引率に出かけて留守だった。バレーボール部の顧問をしていて、それまでも帰りは遅かったが、誠が産まれてからは家にいることが多くなった。やっぱり子どもはかわいいものなのかと、思ったりしたが、試合がある日は仕方がないらしい。何度もベビーベットを覗いてから出かけていった。
 誠がぐったりしているのを見つけたのは、洗濯を干し終わった頃だった。そろそろ授乳の時間で、誠がもぞもぞと動き出す時間だった。
 その日、ベビーベットのあたりは、しんとしていた。琴子は悪い予感がして走り寄ると、誠はぐったりとしていた。
「誠、誠。まこちゃん」
 何度も呼んだが、誠は眼をつむったままだった。
 菊江の顔が浮かんだ。電話がうまくかけられず、やっとつながったと思ったとき、菊江より救急車だと気がついて、そこからまた一一九番にダイヤルを回した。
 夫が家にいてくれればと何度も思った。
 救急車を待っている時間、母子手帳と財布を鞄に放り込んだ後、また財布の中を確かめ、誠をおくるみでくるんで、それから、替えのおしめやほ乳瓶を鞄に入れたり、出したり、そんなことばかりをしていた時間も、夫がいてくれればいいのにと思った。
 病院で、処置室に運ばれて誠の体に何本もの管が通されたときも、看護師たちがあわただしく誠を取り囲んだときも、医師から助からないと告げられたときも、夫がいてくれればと思った。何度も何度も思った。地面に吸いこまれるような感覚の中、何度も思った。
 後から菊江や夫が駆けつけてきたが、それは別の世界の話のようだった。誠が亡くなったのが哀しいのか、独りぼっちなのが哀しいのか、琴子はよくわからなかった。ただ、独りぼっちなのだと思って、地面の中にだけは吸いこまれないように、とばかり考えていた気がする。
 いわゆる突然死というものだった。
 夫がいてもいなくても結果は同じだったかもしれない。でもそれは後になって思ったことで、当時、琴子は夫が許せなかった。夫が側に近寄るだけで、得体の知れない思いが琴子をとらえ、吐き気を覚えた。
 これも今頃、ようやく気がついたことだが、夫もきっと呆然としていたのだろう。生まれたばかりの子どもを亡くしてしまい、そばにいた琴子を責めたい気持ちもあっただろうし、気持ちの整理をどうやっていいかわからなかったのに違いない。
 どうしていいのか、私もわからないのよ。私も同じなのよ、と琴子が言えば、二人の関係はもっと違ったものになっていたかもしれない。しかしその当時、琴子は何も考えられなかった。どうしていいかわからなくて、夫の存在を受けいれるのも難しかった。
 誠を亡くした哀しさより、もっと別のものが琴子たちをおおっていた気がする。
 あれは死別の哀しさに心が耐えきれなくなり、夫を避けることで、そこから眼をそらせていたのだろうと今になって思う。誠を亡くして二十数年たった今、ようやく真実が見えてきた気がする。
 琴子はもう更年期を迎え、子どもが生めなくなった。こうなって初めて、あのときのことが冷静に考えられるようになった。
 誠を亡くした後、琴子は毎日、機械的に食事を作り洗濯をし、掃除をした。職場に復帰した後も、毎日が機械的に過ぎていった。伝票を書くのも、取引先の相手に用件を伝えるのも遠くの世界で時間が過ぎていくような気がしていた。家に戻ると、琴子はまた機械的に食事を作った。夫も黙って琴子の用意した食事を食べた。好物だというエビフライを作っても、夫は何も話さなかった。黙って物を食べる日々が続き、琴子は砂山でたった二人でピクニックをしている気持ちになったものだった。薄切りのキュウリ、よく切れる包丁で切ったトマト、それらをはさんだサンドイッチを黙って食べていると、いつの間にか足下の砂が食べ物の中に紛れ込んでくるのに似ていた。なんでこんな砂山でおもしろくもないピクニックをしているのだろう。そう思いながら、腹もすいていないのにサンドイッチを二人で食べている。同じ空間にいながら、二人はそれぞれが独りぼっちだった。
 雨がよく降る季節だった。紫陽花が咲いていた。気がつくといつも、紫の花の上に雨が降り続けていた。雨の滴が当たると、紫陽花は花も葉も小さく震えた。
 それから三年がたって、琴子たちは別れを決めた。離婚届に名前を書いて判子を押して、それで終わりだった。薄い紙一枚で、決着がつくわけがないと思っていたが、なぜだか終わってしまって、琴子はまた何かを失ってしまった。
  琴子は時々、夫の噂を聞くことがある。共通の知人もいて、隣町に住んでいると夫のことは聞こえてくる。相変わらず中学校で数学の教師として働いている。再婚もせず、独り身のままらしい。
 夫が勤めているという中学校はすぐ近くにあって、一度琴子は校門の前をわざと通ったことがある。
 雨の降る夕方だった。その日はことに菊江の聞き分けが悪かった。
「わて、まだ夕飯食べてませんで」
 そう菊江は言い張った。夜用の弁当箱はもう流しの洗い桶に突っ込まれていたのに、菊江はそう言うのだった。
「年寄りを粗末にしくさる。今日の昼のうどんも、ちょっとしか入ってなかった」
 デイサービスのあった日で、昼食はそこで食べてきたはずだった。昼がうどんだったとしても、麺が入っていないということはないだろう。
「ほんまや、汁ばっかりやった。うどんなんか、二本か三本ぐらいしか入ってなかった。みんな意地悪するんや。わてが年寄りやと思うて、意地悪ばっかりする」
 菊江はいつの間にか、自分のことを「わて」と言うようになっていた。それは菊江の母、琴子の祖母と同じ口調になっていて、祖母の姿と重なって見えるのだった。
 菊江は、何度も夕飯を食べていないと言い張った。
「だって、弁当箱が流しに置いたるやんか。ご飯を食べたという証拠やろ」
「あれは、わてと違う。外から誰かが入ってきて、わてのご飯を食べてしもうたんや」
 何を言い出すのか、と思って琴子は菊江を見た。菊江はデイサービスに行って貰ってきたお手玉を放り投げていた。トイレに行くのでさえ足取りが覚束ないのに、お手玉は三個も四個も正確に放り投げて受け取っているのだった。
「お母さん、大丈夫」
 そう問うと、菊江は「はあ」と琴子を見つめた。
「何言うてはりますのや。どや、一緒にお手玉しましょか。おもしろいもんですで」
 お手玉は正確に空中に投げられ、また菊江の手に戻っていく。
 しばらくすると、菊江が琴子の顔をまじまじと見てまた言った。
「あんた、ご飯まだかいな。わてお腹、すいてますねんけど」
 あまりにも菊江がご飯を食べていないというので、琴子はいたたまれなくなって家を飛び出してしまったのだった。車を走らせたが、どこに行くという当てもなく、ぐるぐると道を走らせているうちに、気がつくと夫の中学校の校門に着いていた。もう七時を過ぎているのに、中学校の校舎には電気が明々とついていた。あの辺が職員室だろうか、あの部屋に夫は居て、まだ仕事をしているのだろうか。そんなことを思った。
 ジョナサンとしゃべるようになって、琴子は夫のことをよく思い出す。
 元夫というべきなのに、琴子の中ではまだ夫だった。
 夫は無口で背が高く、字を書くときにペンをぎゅっと握る癖があった。ジョナサンとは全く違っているのに、夫のことを思い出す。
 夫は無口だったせいか、あまり不満は口にしなかった。職場での人間関係の難しさや理解のない上司のことなど愚痴をこぼすのは琴子の方で、夫はいつも黙って聞いていた。今まで、琴子は聞き役に回っている。ジョナサンの不満を聞いてやっている。
 ハインツのケチャップが売っていません。髪を切ってほしいのに、理髪店で断られました。郵便局の振り込み方法がよくわからないんですが。
 顔をしかめてジョナサンは琴子に訴える。眼がいつもより離れていき、本当に魚の顔になっていくようだった。
 ご飯よりパンの方が好きなのに、この辺はパン屋さんがありません。授業がうまくいきませんでした。アメリカの学校は、小さいうちは厳しいんです。でも日本は違います。みんな授業中、うるさすぎます。
 琴子はその一つ一つにうなずいてやった。
「そうですよね、日本は年齢が上がるほど学校は厳しくなるみたいですね。アメリカは反対なんですってね」
 ジョナサンは、そうですそうです、と繰り返した。あんまりジョナサンが嬉しそうなので、琴子は彼が欲しがっているケチャップについて提案したことがあった。
「ハインツという会社のケチャップは隣町の大きなスーパーマーケットで買えますけど。なんなら私が買ってきてあげましょうか」
 ジョナサンは首を横に振った。
「いえ、大丈夫です。ただ言ってみただけです。ハインツのでなくても我慢できます」
 アメリカの家庭では自主自立が重んじられるらしく、十八歳をこえると何でも一人でするのが当たり前なのだと言う。ジョナサンは、与えられた環境の中で何とかやっていくつもりだ、というようなことを言った。英語と片言の日本語の混じった言葉を聞いていると、ジョナサンが本当は何が言いたいのか、よくわからない。
 琴子は自分で推測して話を聞く癖がついてしまった。
「水野さんに迷惑です。迷惑です」
「迷惑やなんて」
 迷惑だとは思っていない。琴子はそう思ったが、ジョナサンがどういう意味で「迷惑」という言葉を使ったのか、遠慮しているのかどうかもわからなくて、琴子は曖昧に笑った。
 言葉が少しずつ通じ合うようになっても、いや話すことが増えれば増えるほど、通じ合わないことが増えていく。
 それでも琴子は時々、ジョナサンが困っていると聞くと、助け船を出したくなった。
 髪の毛を切ってもらえるよう、近くの理髪店で頼んでみましょうか。郵便局に一緒に行きましょうか。
「いえ、いいんです。困ったことを言っただけです」
 ジョナサンは空中に漂う何かをつかんで捨てるような格好をした。
「困ったことを言うと、I'm relieved.」
 日本語の言葉が思い出せないらしく、しばらく窓の外を睨んでいたが、それでも思い出せない様子だった。電子辞書のスイッチを入れて言葉を打ち込む。ジョナサンはわからない言葉はすぐに調べて、それで日本語を習得しているようだった。
 「安心します」とジョナサンは言った。電子手帳を見ながら「そう、困ったことを水野さんに言うと、安心しますよ。そう安心。話していると、とても安心します」
 僕の髪の毛、柔らかくて、理髪店の人、困ります。でも髪、切ってもらわないと、僕が困ります。郵便局の人の言葉わかりません。でもお金、送らないと困ります。
 琴子が、その言葉一つ一つにうなずいて聞いているだけで、ジョナサンの表情は穏やかになっていった。
 それは、菊江が、家に戻った琴子に「私の弁当、誰かが食べてしもた。薬がなくてお通じが出んかった」と泣き言を言い、それはほとんど菊江の勘違いだとわかっていても、「そう、そう。たいへんだったね」とうなずくと、菊江の顔が童女のように穏やかになっていくのと似ていた。 
 琴子がジョナサンの言葉にうなずくと、ジョナサンは落ち着いた表情になり、茶色の眼を細くして笑った。
「水野さん、ありがとうございました。僕、がんばります」
 ジョナサンは力瘤を作ってみせる真似をした。その仕草がかわいく、琴子は自分でも知らない間に微笑んでしまった。琴子のささいな行為がジョナサンの気持ちを変えていき、それは琴子の心を明るくした。
  いつの間にか、琴子は自分の母の様子をジョナサンに話すようになっていた。
 記憶がまだらになること。琴子を頼りにし、それに琴子が応えられないと症状が悪くなること。
「ああ、それは心配です。僕にも一人暮らしのおばあちゃんがいます。犬とベットで寝ています。電話しても聞こえない。すぐに切ってしまう。コミュニケーションは手紙だけで、だから、僕、心配です」
 ジョナサンは首を振り、琴子も菊江のことを思って首を振ったが、ジョナサンに話すと、ただ話すだけなのに安心した。
 ジョナサンがおばあちゃんと十分話し合えないのは、琴子と菊江の関係に似ている。そしてまた、それは琴子とジョナサンの関係にも似ていた。細い細い弱い糸で、それぞれがつながっている。それでも、つながりがあるというのは、琴子の心を温かくする。
「水野さん、ありがとう。See you later.」
 ジョナサンは帰るとき、そう琴子に声をかけた。
「こちらこそありがとう。See you.」
 答えて、琴子は自然に微笑んだ。真っ当に、人と会話をしたという気持ちになった。英語がほとんどしゃべれない人間と英語母国語人間が話し合うのは無理があるとわかっているのに、琴子は互いに悩みを打ち明けあったような気がした。
 週に二日か三日ほどしか顔を合わさない人なのに、ジョナサンと深いところでつながっているようだった。言葉が通じるか通じないかは問題なのではなく、心が通じるか通じないかが問題なのかもしれない。
 琴子は急に夫の顔が見たくなった。
 もう一度夫とやり直したいと思っているわけではない。ただ、会って話したいと思う。誠のことをもう一度、きちんと話したいと思う。あのときのことをもう一度話し合わないと、誠はまだどこか人ごとのような世界に葬られたままでいる。夫とちゃんと話をすれば、誠は亡くなってしまったけれど琴子の赤ん坊として、琴子の手元に戻ってくるような気がするのだった。
 琴子は仕事が終わるとそのまま家に戻らず、いつの間にか、夫の中学校まで車を走らせていた。
 琴子の勤務時間は午後四時までで、給料は少ない分、早く帰れるのが取り柄だった。菊江の世話があるので、早く家に帰れるのはありがたかった。しかし琴子は家に向かう道を選ばず、違う道を今、走っている。
 やや鈍色を帯びた空には、昼間の暖かい気配が色濃く残っていた。春の終わりともなると日の沈むのは随分遅く、ついこの前までこの時間となると黄昏の中に沈んでいた町は、まだまだ昼間の活気に満ちていた。
 中学校は下校の生徒たちや部活動に取り組む生徒たちで、賑わっていた。琴子は近くの公園のそばに車を停車させると、バックミラーを動かして、自分の顔を映し出した。
 朝、家を出たときに化粧をしたが、その後は仕事に追われて鏡も碌に見ていなかった。口紅ははげ落ち、目のあたりに皺が目立つ年相応の琴子がそこに映っていた。ファンデーションをつけ、口紅をひき直すと、少し見られる顔になった。
 化粧を直すと、今度は自分の行動を顧みる余裕が出てきた。中学校に行って自分はどうするつもりだったのだろう。生徒も他の教師も多くいる中で、夫に会って話し合えるはずはない。第一、こんなところに車を止めて中学校の方を見ていれば、不審者として咎められるかもしれなかった。
 エンジンをかけ、車を発車させようとした。手が震えてうまくエンジンがかからなかった。
 私は何をやっているのだろう、そう思いながら空を見上げると、東の空には月がかかっていた。三日月を少し太らせた月だった。明るさが残る空に、これも明るい月がくっきりと浮かんでいた。
 もう一週間ほどたてば満月になる。
 こんな明るい空でも月は光っているのだ。琴子は初めて、昼間の月を見た。今までだって空で輝いていたのだろうが、ずっと気がつかずにいた。
 私には気がつかないことが多すぎる。空のことも夫のことも、自分の気持ちでさえ気がつかずにうかうかと日を過ごしてしまった。
 やっとエンジンがかかって琴子はアクセルを踏んだ。
 今なら誠のことを話せるかもしれない。しかしその相手は、近くにいながら遠い人になっているようだった。
 月はくっきりと空にかかっていた。昼の光が残る空でも、月はくっきりとその姿を映し出していた。
 家に戻ると、菊江が珍しく庭に出ている。
「お帰り。ごくろうさん」
 気分がよいらしい。足下にはたった今までむしり取ったらしい草が積まれていた。
「暖かになったさかい、草もぎょうさん生えてきてな、ほら、結構むしれたで」
「お母さん、庭掃除、しててくれたん。ありがとう。すごいきれいになったわ」
 琴子が言うと、菊江は子どものように歯を見せて笑った。
 午後から菊江は庭で時間を過ごしたらしい。あんまり天気がよかったさかい、ずっと草むしりしていた、と菊江は言った。
「ほんで、ご飯まだ食べてないんや。お腹すいたわ」
 一瞬、琴子は菊江の顔を盗み見たが、菊江の表情はしっかりとしていた。一緒に家に入って居間に戻ると、菊江の夕食はまだ手がつけられていないのが見てとれた。
「お母さん、一緒に食べようか。ちょっと待って。すぐにお汁を温めるから」
 菊江は、おおきにおおきに、と言ってテレビがよく見える場所に座り込んだが、はっと気がついて、茶箪笥から封筒を取り出した。
「そや、忘れるところやった。あんた、手紙が来ていたで。孝さんからや」
 夫の名前を聞いて、琴子は体が膠着した。菊江に悟られないよう笑顔を作って、それを受け取り、封を切ろうとしたが、手が震えてなかなか開けられなかった。
「ご飯まだかいなあ」
 菊江が箸と皿を持って琴子を待っている。琴子はエプロンのポケットにそれを押し込んで、温めた汁を運び、弁当に詰めておいたおかずを温め直したりして食卓を整えた。久しぶりの穏やかな食事だったが、琴子は物が喉を通らなくて早々と切り上げてしまった。
 菊江が眠ってしまった後、琴子は封筒をそっと開けた。夫の角張った字が行儀よく並んでいた。以前から夫は丁寧に字を書く人で、その丁寧さが手紙を美しく見せている。
 誠の二十三回忌が近づいているが、一緒に寺に参るのはどうだろう、という内容だった。誠の位牌は琴子が持っていて、七回忌までは夫と一緒に供養をしたが、その後はこちらだけで供養を行っていた。琴子と菊江だけが参列し寺で経を上げてもらう。産まれてからすぐに亡くなった子は、思い出が少なすぎて、寺からの帰り道、話す内容がほとんどない。山門を出たところに紫陽花が花をつけていて、その葉を見る度、夫との会話のない毎日を思い出してしまうのが辛かった。
 それでも夫は、久しぶりに会いたいと言ってきたのだった。
 しかし夫の手紙に書かれた年忌と本当の年忌の数が合わなくて、琴子は封筒の表を確かめると、消印は二年前になっていた。菊江が茶箪笥にずっとしまい込んでいたものらしかった。
 夫は手紙を出してから返事がないことをどう思っていただろうか。
 二年の月日は取りかえしがつかない大きさである。夫は、琴子が意図的に返事をしなかったと思っているかもしれない。
 もう少し若い頃なら臍を噛むくらい後悔しただろうが、不思議なくらい琴子は落ち着いていた。夫がそう思っていれば、そう思わせておけばいいのだ。
 気持ちが通じるときは、言葉が通じなくても何かが通じる。いつか夫にも本当のことが伝わるだろう。「ペーパー・ムーン」の映画でも、アディとモーゼは肝心なことを少しも話していないのに、互いが互いを必要としていることがわかり合えた。二人の旅の終わり、アディは優しい叔母さんに引き取られ憧れのピアノを手に入れたのに、モーゼと別れられなくて、そこを飛び出してしまう。ラストシーンの、アディを迎えるモーゼの嬉しそうな顔が印象に残っていた。
 目に見えない思いというのは、いつかは通じるものなのだ。
 ジョナサンと話しているうちに、そんな自信が琴子についてきたらしかった。
 今度、二十七年忌が近づいてきたら、声をかけてみようかと思った。そう思うだけで、夫と気持ちが寄り添えた気がした。
 菊江はよく眠っていた。部屋の窓を開けて身を乗り出すと、ひやりとした空気が琴子を包んだ。西の空に傾きかけた月が明るく輝いていた。

「水野さん、僕大阪に行きます」
 ジョナサンが朝の打ち合わせの後、そう話してきた。
「いつから」
 琴子は、その日のメニューを頭の隅で確認しながら答えた。気温が上がってきて、温度管理についての通達が給食センターから廻ってきていた。牛乳の他に冷蔵庫に入れるものは何があっただろうか、温度管理をして、そのチェックを表に書き込まなくては、とそんなことを考えていた。
「夏休みからです」
「どのくらいですか」
 ジョナサンは、長期の休みになると東京や広島、京都などを友達とよく旅行していた。歌舞伎を見ました、と教えてくれることもあった。またどこかに遊びにいくのだろう。
「契約では二年です」
 琴子はそこで改めて、ジョナサンの顔を見た。ジョナサンの顔は、いつもよりもっと魚に似ていた。
「契約」
「はい。大阪で。通訳の仕事します。僕のしたかった、本当の仕事です」
「じゃあ」と言って、琴子は唾を飲んだ。
「ここの仕事は」
「もうすぐ契約終わりです。先月の日曜日、僕、試験受けました」
  ジョナサンはそう言って、大阪の地図を広げて見せた。ここの会社で仕事します。住むところは地下鉄で一駅行ったところです。
 着々と計画を進めていたらしかった。私に一言、言ってくれてもよかったのにと琴子は一瞬考えたが、すぐに自分とジョナサンは、席が隣というだけの関係ではないかと自分に言い聞かせた。
「よかったですね」と琴子は答えた。
 ジョナサンは英語で「転がる石には苔は生えない」という諺をつぶやいた。苔が生えなくてよかった。新しい仕事、楽しみです。新しい世界は嬉しいです。
 ジョナサンにとっては喜ぶべきことだった。本当によかったです、と言いながら琴子は自分の声が震えないよう、腹に力を入れた。
 ジョナサンは「でも別れる。とても寂しいです」と言った。緑色かかった眼が濃い茶色に見えた。
 子どもたちと別れるのも寂しい。この学校の先生や水野さんと別れるのが寂しいです。 特に水野さんと別れるのは哀しい。
「私も寂しいです」
 琴子は、ジョナサンと話す時間のことを思った。琴子には貴重な時間だった。かすかに照らされた明るい時間だった。
 それから、琴子はまた夫のことを思った。今では五十をこえて、それでもたぶん、真面目にせっせとプリントを作っているだろう夫のことを思った。
「水野さん、いつも話を聞いてくれた。感謝しています。水野さんのこと、忘れません」
 またメールします、水野さんもメールください、と付け加えた。
 職員室から出て配膳室に向かう廊下で、琴子はあっと声を挙げた。
 ジョナサンの緑色かかった瞳、あれは、誠の眼だ。ジョナサンの瞳の色は、琴子を見つめていた誠の眼の色と似ていたのだった。
 誠が成長していれば、ジョナサンくらいの青年になっていただろう。琴子が抱き上げると、じっと見つめ返した誠の瞳を思い出した。視力はまだ備わっていないはずなのに琴子の顔を見ていた瞳が、ジョナサンの顔とだぶった。
 その日の夜、琴子は廊下の窓から月を見た。いつもは暗い廊下にその光が差し込んで、驚くほど明るくなっていた。思わず窓から外をのぞくと、大きく丸い、平べったい月が見えた。 
 紙で作ったような月だった。
 月は太陽の光を反射させているだけだとわかっていても、月自身が輝いているような明るさだった。
 ジョナサンと出会えてよかった、と琴子は思った。夫と出会えてよかった、とも思った。細い細い糸のようなものが時々切れそうになりながら、それでも大事なところでつながっている。つながっていることが大事なのだ。
 月は白い光を投げかけていた。月は、琴子の心も明るくしてくれるようだった。



( 評 )
 この作品の登場人物たちは、孤独を抱えこんで生きている。だが、「細い弱い糸」ながらも「それぞれがつながっている」ことに、主人公の琴子は「心を温かくする」。映画と同名のタイトルがよく効いている。所詮は「紙で作った月」であるが信じれば本物になる、という作者のメッセージが読みとれる。読後感がさわやかな作品である。

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