随筆・評論 市民文芸作品入選集
入選

ランドセル
開出今町 掛田 洋子

 入学シーズンになると、祖母から貰ったランドセルを想い出す。
 小学校へ入る昭和十九年は、戦局も厳しく毎晩空襲があった。
 その頃、住んでいた釜山(ぷさん)港の周辺は、特に爆撃が激しかった。釜山港は軍港だった。
 私たちの住んでいた官舎は、港より少し離れた山手に建っていたので、爆撃の被害を直接うけた家はなかったが、夜毎の空襲で立て続けに落される爆弾の轟音と、地ひびきに戦きながら、防空壕の中で震えていた。
 爆撃は夜だけにとどまらず、昼間も空襲警報のサイレンが鳴るようになってきた。
 戦況はますます激しくなる一方で、玄界灘には多くの魚雷が敷設されていた。
 そのような状況の中、玄界灘を渡って叔父と叔母が、祖母から(ことづ)かったランドセルを届けに来てくれた。

 父は開口一番、叔父と叔母を叱りつけた。
 戦況を全く把握していない、祖母の無神経さを怒り、次いで、十八歳の叔母と二十六歳になる叔父の無謀な行動を諫めた。若い二人の命を (おもんばか)っての父の叱責である。まかり間違えば二人とも命を落としていても不思議ではなかったのだ。

 六歳になったばかりの私は、となりの部屋で、父が叔父たちを諫めている声を聞いていたが、ランドセルを貰った嬉しさの方が大きくて、さっそく箱を開けて取り出した。
 それは深いエンジ色のランドセルで、蓋一面にバラの花が型押しされていた。もう嬉しくて嬉しくて私はぎゅっと抱きしめていた。

 初孫の入学を、遠く離れて住む祖母は誰よりも案じ、喜んでくれていたのだ。だから入学式に間に合うようにと、はるばる日本から叔父と叔母を寄越したのだった。祖母の愛情の深さを痛感する。

 叔父たちは、一週間ほど滞在していたと思う。そのあいだに、弟と私は港の傍にある三中井デパートへ連れて行ってもらった。
 そのとき弟は何を買ってもらったのか忘れてしまったが、私はマンガの本を買ってもらった。それを七十年経った今も覚えているのには、ちょっとした訳がある。
 戦争の只中のデパートのトイレに、落し紙は入っていなかった。弟が用を足したが落し紙が無かったので、ドアの前に立って待っていた叔父が、今買ったばかりのマンガの数ページを破って弟に手渡した。

 後々、弟が成長してからも、親戚が集まると、そのときの出来事が話題になる。その都度、私が「だからあのマンガ終りがどうなったのか分からんかったのよ」と、意地わるで言うと、弟は憮然として「そんなこと知らん」と言いかえす。それもそのはず、弟はまだ四歳だったのだ。

 三中井デパートのオーナーが、彦根の三中井さんだったと知ったのは、彦根へ引っ越してからだった。
 何年か前に、五個荘の近江商人屋敷で催されている雛祭りを見に行ったとき、たまたま立ち寄ったのが三中井さんの旧宅だった。
 案内してもらった方に、何げなく「釜山に三中井デパートってありましたけど」と言ったら、「あれうちのデパートでした」と言われ、「えっ」と驚いたら、「釜山の三中井ご存知でしたか」と、遠い日を懐しむ面持ちで、「上海にもあったのですよ」と話し出された。
 二人が昔の話題で話が弾んでいた間に、一緒に見に来た人たちは、すっかりお雛さまに堪能したようで、「もう帰るよ」と声を掛けられ、私はお雛さまを見ずじまいで三中井家を後にした。

 今では、軽くて色とりどりのランドセルが売られているが、私が小学校へ入学した戦時中は、ランドセルの色も限られていたと思う。
 そのような時代に、祖母は孫にと、綺麗な色のランドセルを選んでくれたのだ。
 私が二十歳になったときに、祖母は七十歳で他界した。祖母の死は、今にして思えば両親の死以上に悲しかった。閑かに目を閉じている祖母に布団の傍で、私はいつまでも泣きつづけていた。

 菜の花が咲き、チューリップが開き、桜が満開になる頃、今年も一年生が、背丈の半分もあるランドセルを背負って登校してゆく。
 黄色い帽子の登校の列は、ヒヨコがぴょこぴょこ歩く様子にも似て何とも愛らしい。
 ランドセルは軽くなったが、ずしりと重い親の期待が詰まっている。



( 評 )
 昭和十九年、祖母から託されたランドセルを、若い叔父・叔母が海を渡り、釜山に住む「私」にわざわざ届けにきてくれた。危険極まりない旅であったのだが、幼かった作者にはランドセルを貰ったことが単純に嬉しかった。最後の一行で平和の尊さをもう少しアピールしてもよかったのでは。

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