雪の日の思い出
昭和五十九年一月、私は次男を出産した。その年は大豪雪に見舞われ、来る日も来る日も雪がしんしんと降っていたことを覚えている。そんな中、帝王切開のため予後が案じられた私は、産後暫くの間、高月の実家にお世話になることになった。
三人姉妹の長女であるにも関わらず、家を出ている私。結局は妹が後を継いでいてくれて、実家には両親とそして妹達が暮らす。だから、私はいつの時も気兼ねなく帰省することができた。
実家で自分の両親に赤ん坊の世話をして貰いながらの暮らし。それは、とても快適で心が満たされた。ずうっとこのままここで生活できたらどんなに楽しいだろうと思ったりもした。だが、賑やかで気楽な時間というものは、あっという間に過ぎてしまう。
程なく二週間ほどたった頃、もうそろそろ帰ってくるように、との電話があった。高揚していた気分は打って変わって一気に落ち込む。孫を楽しみにしていてくれる嫁ぎ先には申し訳ないが、姑達との暮らしを想像すると、もうそれだけで逃げ出したいような気持ちになったものである。
しかしながら、嫁ぎ先には三歳になったばかりの長男が待っている。私がここで踏ん張らなければ、子ども達の為に…。弱い心を奮い立たせるよう自分自身に言い聞かせもした。
さて、いよいよ帰らなければならない日が訪れた。心なしか普段よりも増して冷たく吹雪くような朝だった。
嫁ぎ先への土産にと、母は桜餅を用意してくれた。そして私にも、一つ食べるよう勧めてくれた。ところが、甘い物が好きな筈なのに、とても食べる気にはならなかった。
「まあ遠慮しとくわ…。」
と項垂れる私の横顔を心配そうに見つめ、母は小さな溜息をついた。嫁ぎ先での暮らしを不安に思っている私。気持ちを察しているが故に、娘に掛ける言葉が見つからなかったのだろう。暫く母と娘は沈んだ空気の中に居た。
長いような短いような時が過ぎ、やがて夫は約束していた時刻よりも少し遅れて実家にたどり着いた。雪のため渋滞していたらしい。迎えに来てくれたこと自体を有り難く思わなければならないのだが、私はどうしても礼を言う気にはなれなかった。姑達との生活のことで頭が一杯だったものだから。
むっつりしている私を尻目に、父母は夫達を愛想良く持て成してくれた。雪の中、大変でしたやろう、などと言いながら。
そして、
「だいぶ混んでるさかい、もうそろそろ出発しよう。」
と夫に声を掛けられるままに高月を後にした私達。後部座席に赤ん坊を抱いた妻と幼い長男を乗せて、夫は慎重に運転してくれた。
何しろ積雪が凄い。公道の脇には私の背よりも高く雪が盛られていた。そして、凍結しかけた轍は、車が通る度にぐちゃぐちゃになり、余程しっかりとハンドルを握っていないと簡単にスリップしてしまいそうな気がした。
普段ならば一時間も掛からない道のりなのに、一時間以上過ぎても三分の一程も進めていない。不安定な路面、時間がたつほどに進む渋滞。運転していた夫は焦っていたことだろう。
その上、私の方も気が重くって暗い。そんな親の気持ちが微妙に子どもに伝わるものだろうか、長男も心細げに泣き出す始末。結局、帰るのに三時間ほども掛かってしまった。
実家から遠ざかるごとに、私の緊張感が増していく。引き返したい、でも我が子を守ってやらなければ…そんな葛藤が私の中で渦を巻いているようだった。
やがて到着。長い時間車に乗っていて、みんな疲れていた。そして空腹であった。それは私だけではなかっただろう。
実家でご飯をいただいてきた、といっても三時間以上も前のことである。しっかり者の姑からは、
「おまえ達は高月でよばれてきたから、何もいらんやろ。」
と言われてしまい、私は躊躇いながらも頷くことしかできなかった。でもお腹が空いた…。たまらずそっと炊飯器を覗くと、僅かばかりのご飯が残っているだけだった。だから何も言わずに我慢した。うちは農家だから米も野菜もたっぷりあったはず。しかしながら、嫁である私が自由に扱える物は何もなかった。そしてあの時多分、まだ幼かった我が子も、ひもじさを辛抱していたに違いない。
あれから三十年近くが過ぎた。今でも雪が積もる度に思い出す。心細さに身が震え、見通しが持てずに沈んでいた日々を。もう姑達は亡くなり、私はこの家で自由に生活させて貰えるようになった。今が幸せと言えるのは、姑達と暮らした日々があったからだと思う。
|