随筆・評論 市民文芸作品入選集
入選

農の匠
佐和山町 松本 澄子

 こまさん、長い間たくさんの事を教えて下さってありがとうございました。私にとっては、母のごとき存在でした。と弔辞を読みながら泪で文字がかすんでしまった。

 師走、朝まだきこまさんの訃報を聞き体がふるえ暫く茫然としていた私である。
 九十三歳で意識が亡くなり植物状態で 大凡(おおよそ)一年近く入院生活を送られていたので、快復はむつかしいと覚悟はしていたが・・・
 私にとってこまさんは、正に人生の師であった。何もわからないままに農家に嫁ぎ、播種から収穫に至るさまざまの事柄をその時々に教えてもらい、何とか季節ごとの田畑の生業(なりわい)を覚え、今はわが家の鍬頭(くわがしら)になった。
 四月、当地の山は孟宗竹が群生し朝堀りの筍で山は賑わう。その筍を掘りおこしたままの本来の味を失わず、しかも年中保存食として食べる事ができるビン詰加工を教えて下さったのがこまさんだった。その他、わらび、蕗等、山の幸、畑の幸の自然の恵みに感謝しつ舌に届ける。食の安全と安心に配慮しつつである。
 今、巷では地域活性に貢献するためにと地産地消が叫ばれているし、「食育」の必要性、大切さから体験学習も行われているが、こまさんは四十代から実行されていたのである。
 地元の食材を使った食と健康に配慮した料理講習も年数回開かれ、集落全員で参加したのを記憶している。どんな田舎料理を教えてもらえるのか楽しみでもあった。
 そして、農の文化を継承してほしいとの一念から秋、収穫を終えると餅わら持参でしめ縄造りやわら草履造りの指導に小学校に出掛けておられた。わらだけで編んだ草履は早く傷むので、布の端切れや紐も一緒に編みこむ工夫もこまさんの指導だった。
 帰りには必ず「勉強せなあかんで、みんな自分のためやから」と温かい言葉を残していかれたと聞いている。
 九十歳を過ぎ歩行困難になりながらも手押し車で亡くなられる一年前まで、二十数年は続けられた。雪に閉ざされる湖北の冬は、田畑の仕事に出る事もなく田舎では、味噌造りをする。以前は、一年間常食にする味噌は各家々で自分の家の味として造ったものである。
 当時から味噌のおいしい味を逃さないため体のためにと減塩を心がけておられたこまさん、米こうじを沢山混ぜると化学調味料を使わずともまろやかな自然の味を食べる事ができるからと。でき上った味噌を木桶に入れるがその時、空気を押し出すようきっちりと詰めこむとかびを防ぐ事ができるし、最後に味噌にふたをする前に数枚の板の酒カスを並べる工夫もこまさんの数回の挑戦の結果からであった。正に、老人は「知恵の泉」である。
 勿論、こうじも手作りであり私は、今もこまさんの教えを頑に守って家族の健康管理に努めている。
 村の地蔵様の前かけもこまさんの冬仕事の一つで、いつも新しいのがかけられていた。
 「人生は苦の娑婆」と言われるように決してこまさんの生涯は幸せではなかった。
 こまさん自身は向学心は強かったが男尊女卑の色濃い時代、学ぶ事もままならず悶々とした日々を過ごされたようだ。だからこまさんは、人間には教養、教育は最高の財産と話されていたので自分の子だけは、教養を身につけさせたいと強い意志を通された。
 しかし、下の子が大学在学中、五十代の若さで夫と死別、子供が自立できるまでには、田畑・山を一人で守り、随分ご苦労されたのを間近で見ている。
 常に朝は四時に起床、夜が明けるまでには幾つもの仕事をこなされ特に、田植時には冷たい山あいの水田では、腰にランプをつけて田植をしたと話されていたのが忘れられない。
 今、その田圃は当集落にとって平成の大事業である耕地整備事業で農道は整備され、山を切り開きこまさんの幾多の苦労を共にした棚田も消えた。
 五月、万面水を張った一枚三反となった田圃は、田植機が一瞬、魔法の如く緑の表情に変える。見ているだけで心が落ちつくと・・
 農には、お金で換算できない財産があるから、どうか集落皆んなで将来にわたり農を守り、大切さを土のぬくもりを、信じ伝えていってほしいと話されたのが、私への遺言だろうと思う。
 農をこよなく愛し信頼する力は限りなく大きかったこまさん。正に市が認定した「農の匠」だった。今、私は、こまさんから教えて頂いた数々の事柄を次の代に伝える事は、農に関心を寄せる若い世代の背中を押す事の手助けになると思い、そして、こまさんへの何よりの供養、恩返しになると信じている。
    ありがとう こまさん



( 評 )
 山菜を瓶詰加工し保存食にすることや家庭での味噌造りなどを指導し、小学校ではわら草履・注連縄作りの指導に励むなど、農の文化の伝承と地域振興に力を尽くした「農の匠・こまさん」に対する作者の敬愛の念が全編を貫く。文章への細かな心配りがもっとあってもよい。

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