「大きな古時計」の思い出
「ボーン ボーン ボーン」と真夜中のしじまを破って、柱時計がにぶい音を響かせました。その音にふと目覚め「あっ、もう一眠りできる」と思うと嬉しく、又眠りにおちていった思い出は、今から半世紀前のことです。
わが家に唯一「時」を知らせる柱時計がお目見えしたのは、私共夫婦の間に始めて長男が生まれた時の事です。殊の外喜んだ義父が記念にと張り込んでくれたもので、長さ六十糎程の大きさで、色はグレイに茶色の縦縞に模様の入った少ししゃれたデザインに、これ又義母の注文もあって、文字盤は数字ではっきり時刻が分りやすく、家族一同が気に入ったものでした。
その当時、私は働いていたので、大阪の水道局を退職した義父が、全面的に子どもの面倒を見てくれました。長男の始めに出た言葉は「爺」であったくらいですから。
したがって、なんとなく長男の誕生によって、わが家の住人となった柱時計は「おじいちゃんの時計」的存在で、茶の間の中央の柱に掲げられ、正確な時を家族に知らせ、暮らしを共にしてきました。
捻子(を巻くのは夫の仕事で、時折、忘れがちになりながら、踏み台にのって巻いておりました。貧しいながらも、長男の日増しに伸び、知恵のついてくる仕種に、時計の許、なごんだものでした。
やがて歳月は流れ、義父は病を得て他界。遺った義母は「淋しい、淋しい」とこぼし、眠れぬ夜もあるらしく、夫に「時計の時刻を知らせる音を止めてくれるよう」頼み、時を知らせる「ボーン、ボーン」は聞かれなくなりましたが、一番目のつく所で正確な時を知らせ、家族の行動を促していました。
そのような暮しのなかで、いつ頃からでしょうか。「大きな古時計」の歌に出合ったのは。一九六二年、「みんなのうた」に紹介されたと、記述にあるから丁度半世紀前、私の子育ての最中に出会った曲なのです。
歌詞の一番で、「大きなのっぽの古時計、おじいさんの時計、百年いつも動いていたご自慢の時計さ、おじいさんの生まれた朝に買ってきた時計さ、今はもう動かないその時計」とあり、おじいさんと時計の誕生。
二番目に「何でも知ってる古時計、おじいさんの時計、きれいな花嫁やってきた、その日も動いてた、嬉しいことも悲しいこともみな知ってる時計さ」でおじいさんの暮らしをずっと見守ってきた時計。
「ま夜中にベルがなった、おじいさんの時計、お別れの時がきたのをみなに教えたのさ、天国へのぼるおじいさん、時計ともお別れ」の三番の歌詞は、天寿を全うして旅立つおじいさんの時計との別れを歌っています。
ユーモラスな歌詞のなかに、おじいさんが時計と共に過ごしてきた一世紀の暮らしが、まとめられていて「これが人生。このように百歳迄、時計と共に生きてこられたおじいさんは、平凡で倖せであったのではなかろうか」と思ったものでした。
この歌を作詞作曲したのはアメリカのヘンリー・クレイ・ワークで、彼の後期の代表作品として、モデルも実在しているとされ、朝日新聞の「うたの旅人」にくわしく紹介されていました。イギリスとアメリカにもその古時計のモデルがいたこと。どちらも作詞、作曲したワークに関わり、その由来を読むとき、ワークの人生に、歌詞をあわせ考えてみたり、私なりの想像をもふくらませて偲んだものでした。
この歌と出会ってから、すっかりこの歌の
虜(になってしまいました。当時、教職にあった私は教室で子ども達に、教科書にはなかったのですが、教えて歌いました。先生が好きな歌は子ども達にも伝わるもので、共にこの歌に酔いながら歌ったものでした。伴奏中にふと、亡くなった義父と共に、わが家の柱時計がよぎることがあり、「大きな古時計」は、私自身の懐しい思い出をもよびおこすのです。
過日、存続問題で有名になった豊郷小学校での歌声喫茶があり、終ってから校舎見学で校内を回り、最後に講堂へ足を運びました。何気なく入った講堂、そこは毎年、犬上郡の音楽会会場で、私が子ども達を引率して、「大きな古時計」を歌った会場です。
当時と少しも変らぬ階段式で、その一角の木製の椅子に腰をおろし、ステージを見上げました。そこには三十年前、子ども達が指揮者の振るタクトを見つめ「大きな古時計」を一生けんめいに歌っている姿が彷彿として、曲迄が聴こえてくるような気がしたのです。
「ワァー、懐しい」思わず三十年前にタイムスリップして、胸がいっぱいになりました。
人気のない広い講堂で、ひとり「大きな古時計」の歌を口ずさみながら暫らく、思い出にうっとりと浸っていました。
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