譜面台
硝子戸越しのヤツデの葉の重なりが、寄っては揺れ、離れては揺れるのを眺めるうちに雨になった。迎え梅雨だ。
先日、夫の三回忌を済ませた。生前のままの部屋を、私はきのうから片付け始めた。文机の横に書見台のような物がある。板二枚を釘で止め、裏側に支えが固定されている。本の頁を開け、台に置くと、丁度よい角度に書物を保つ。しかし、夫は机に直に本を開いていた、と思い返し、整理を続けた。
次の週は、青梅雨と呼ばれるとおり、ヒバの木立の雨滴に家の回りは泥濘んだ。
月の第三週の月曜日、朝から軒を打っていた雨足が、午後には間遠になった。私は家を出て、よし笛の練習に初めて参加した。夫の入院中、院内の演奏会で、笛の音色に心ひかれ、機会があれば習いたいと思っていた。
先生がみえて、そばへ来て下さった。
「譜面台は持っていますか」
隣の席の人が、アルミのスタンドの譜面台を私の方へずらし、楽譜を立て掛けて言った。
「今日はいっしょに見ようね」
その時、突然私は気が付いた。あの台は、夫の手作りの譜面台だ。二十四年前までは、夫は竹に穴を空け、笛を作っていた。指に麻痺の症状が出る前は、夫は自分の作った笛を吹いた。
先生の手が私の指に触れた。「小指をもう少し奥へ」私は我に返ったが、音を四拍のばす練習の間、夫の病の発症を思い出し、夫が何本もの笛を始末したのは、いつ頃か考えた。
二時間の練習の中程、先生は指示をされた。
「ここへ来て、私の肩甲骨に触りなさい」
私は立って、先生の背中に手を触れ、息の吸い方、止め方を習った。
「空気の、薄い板を滑り込ませるように、息を吹き込みます」
低いドの音の息の吹き込み方を、先生は、手のひらで曲線を描いて示され、私たちは、ドを十六拍のばした。次は曲の練習で、『琵琶湖周航の歌』の音を丁寧に出して演奏した。
CDのギター伴奏に合わせた後、授業は終った。曲を繰り返す間は、夫のことを考えなかったと思い至り、私は驚いた。
彦根市内から旧中山道へ交差する坂道は、雨ふくみの西風が自転車の背を押したので、漕いで原町の信号へ着いた。原町を過ぎ、小野町の農道へ入ると、また雨が降り出した。笛が濡れないように鞄をビニール袋で包んだ。
葦(笛は、古来琵琶湖の葭(製品として研究され、二〇〇六年、特許取得。『よし笛』と表記され、特許取得者の氏名の一字「彰」の焼印がある。二十四センチ程の縦笛で、葦の管に七個穴が空く。マウスピースは黒竹で、外観はカシュー漆の塗装。一本一本手作りだ。
農道の西側に、夫が竹を切り出し、筍を掘った藪がある。雨がひときわ強くなった。送り梅雨まで、まだ十日ほどもあると思うが、竹叢(は、飛沫(で煙っている。
「正夫さんの笛は上手やなぁ。筍おこす間じゅう、ずうっと聴いてた。ええなぁ」
向かいの家の奥さんが褒めてくれたことがあった。竹に穴を穿(ち、尺八に似た音で曲を吹くことが、簡単に出来ることではないのだと、私は初めて分かった。私は夫の笛を聴かず、褒めることもなかった。楽譜も、始末したのだろうか。もう一度、捜そう。
夫が健康であった十六年間に、一度だけ歌を聴いた。夜、田へ水を引くために、二人で川の堰を上げに行った。
「久遠(にとどろくヴォルガの流れ……」
と夫は歌った。中学校の授業で、その歌を習った、と告げると夫は笑顔になり、夜目に歯が白かった。
私は心から夫に詫びたいと思う。四十年間を共に暮らした内の、二十四年間の夫の闘病に、私は真摯に向き合わなかったのではないだろうか。今から八年前の午後だった。夫は歩行は無理だが、這って移動できた。
「おまえは、わしのことをどう思っている」
私は、パートの勤めに出る作業着に着替え、一歩離れた。夫の右手が、私の足首を掴んだ。私はその前の週に、病院の家族会での勉強会で習った言葉を伝えた。
「あなたが、病と毎日闘っていることに、敬意を表します」
そして玄関から走り出た。出勤の途上、夫の握力は、まだあると思った。あなたの握力は強い、と言えばよかった。
家へ戻り鞄から笛を出した。濡れていない。現し身でない夫には、もう吹けない笛を、私が吹いてもいいのだろうか。夫の気持ちは今も、つらいまま
凝(り、あたりを揺蕩(っているような気がする。「あなたの譜面台に、オクターブ移動練習の楽譜を置いてもいいですか」
空耳か、
荒梅雨(の雷か。遠雷が聞こえる。
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