F先生
「おい、俺たちの担任はFやぞ」
「そやてな、あーあ最悪やないか」
私たちが小学校(当時は国民学校)六年になったときである。
Fという先生は、二年ほど前に学校を卒業したばかりの若手で、生徒に激しい体罰を加えるので恐れられていた。あの頃は、教師が体罰を加えるのが当たり前のように思われていたのだが、彼のそれは異常とも言えるほどであった。
ほとんど毎日のように、F先生のクラスからは怒鳴り声とともに、ピシッという音が聞こえてくる。進級しても担任はF先生でありませんように、と祈っていたのだが。
F先生が教室に入ってきた。
「これから一年間、お前たちの面倒を見ることになった。日本は今アジア解放のため聖なる戦いをしている。お前たちも、やがてはそれに加わることになる。学校での授業もそのためや。ビシビシ鍛えたるさかいな……。なんやその返事は、蚊の鳴くような声やないか。やり直せ、男やったら腹の底から声を出せ」
三日間はその程度ですんだのだが、四日目の朝、
「今までじっと見ていたのやが、お前らは最上級生たる自覚が少しも無いやないか。朝礼が終わって教室に入るときの、あのダラダラした態度はなんや。それに見てみい、机の並べ方、級長、お前の責任や」
級長のY君は顔を数発平手打ちされ、さらに対向ビンタと称して、級友同士が向き合って互いの顔を叩き合うことを命ぜられた。手抜きは絶対許されなかった。
それがF先生による体罰の始まりであった。ときには寒風吹きすさぶ校庭を、パンツ一枚で早駆けさせられたこともあった。そのことに文句をいう親たちはいなかった。それどころか、「教育熱心な先生」と高く評価されたものである。
戦後五年ほどした頃に開かれた同窓会に、先生たちも何人か出席されたが、F先生の姿はなかった。私たち、とくに級長だったY君は、「なんや、あのときのお返しをしたかったのに」と、残念がったものである。
そのときに聞いたのだが、F先生は組合の熱心な活動家になっていて、かつての敵国、とくにソヴィエト(当時)を礼賛しているそうである。
いかに戦争に敗れたとはいいながら、私たちに、「日本は神の国である。この国を守るために命を捧げなければならない」などと叫んでいた人物の、あまりにも見事な豹変ぶりに、私たちは驚いてしまった。教頭だったKさんが、「F君は利口者やからな」と呟くように言ったのを覚えている。
同窓会があってから数日後、繁華街でF先生と出会った。私に気が付かなかったようなので声をかけると、
「おお久しぶりやないか、元気にしとったか」
とは言ったものの、なんだかよそよそしい。立ち話もなんですからと、近くの喫茶店に誘うと、「用事があるんやけどな」と言いながらも付いてきた。私は、
「すみませんなお忙しいのに、けれども久しぶりにお会いできたのや、折角の機会やから、お尋ねしたいことがいろいろとありますのや」
と前置きして、
「先生は私たちをなにかというと叩きましたな。そのときの痛かったこと、怖かったことはいまだに忘れることができません。毎日恐る恐る学校に行ったものです」
などと、怨みつらみを並べたてた。そして、
「熱心な軍国主義教師だった先生が、いつの間にか民主主義をとなえられるようなったと聞いて驚いています。それだけではなく、組合の活動を熱心にやっておられるそうで、えらい変わりようですな」
私の言葉にF先生は暫らく黙っていたが、
「君の言いたいことはよう分かる。あの間違った時代、君たちは気の毒な犠牲者や、そして私もそのひとりや、と思うている。そのような教育をするようにと、押し付けられていたのやからな」
「お言葉ですが先生……」と言いかけた私を、F先生は「まあ待ちなさい」と制して、
「納得してもらえなかったようやな。けれども、これだけは聞いてほしい。人はそれぞれ歩む道が違うのや。私は私の道を行きます。君にもそれが分かるときがくるやろう」
そう言うと、あっ気にとられている私を尻目に席を立った。
十年ほどした頃、F先生が校長になっていたことをある人から聞いた。
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