市内一軒家(昭和日本建築)

地元の昭和史に触れる日本建築の母屋と離れ(石庭付)
ロケーション概要・写真
母屋
昭和13年(1938年)切妻屋根造。
南に石庭を眺める仏間と仏前の一枚ガラス戸合計6枚は、当時の技術を映しガラス面に歪み等が見える。太平洋戦争末期の昭和20年6月26日午前9時半頃、B29投下爆弾合計22発が田畑を挟み5百米程南にある城南小学校近辺に着弾爆発、死傷者が出る惨事が起った。町内でも瓦窓ガラス破損し大きな被害が出たが、6枚のガラス戸は屋敷前の川沿いに植えた防風林で、全く割れずに今日に至る。近年は、夏蜜柑、無花果、柿、金柑と冬蜜柑の各木が甘い果実を結ぶ様になった。
居間ソファから鴨居を眺めると30センチを超える厚みが目に留まる。当時の林業資源の豊かさと伝統的家屋が醸し出す安らぎを体感するひと時。
仏間の仏壇は、地場産業の伝統工芸品「彦根仏壇」。

離れ
昭和45から46年(1975から76年)入母屋造。
母屋が仏間中心構造の為、離れは書院造で8畳と6畳の二間から成る。各部屋は雪見障子で廊下と仕切られ、廊下外側は母屋同様の一枚ガラス戸合計11枚で囲まれている。
雪見及び襖障子も建築当初のままで、経年劣化が見られるため、実際の部屋利用時には張替要で、今後の利用提供を想定。
石庭
離れ建築前には枯山水庭があったが、庭を広げ草むしり等維持利便性から石庭が誕生。
置燈籠、雪見燈籠、手水鉢及び春日燈籠は、離れ建設時に設置。


その他
石垣が各他家堤に見え残る中、新材料のコンクリート製堤の川上流端には約2米と4米四方の同製生簀が併設され、戦時中防空壕として利用された。
同生簀は現くすの木通り向かいにあった彦根のもう一つの地場産業のバルブ工場から受領した鋳物鋳造後の砂で50年程前に埋め立てた。
更新日:2025年09月12日